私の悪い魔法使い

灰崎千尋

第1話 覚醒

 とある国、とある森の奥深く。

 木々の緑に覆われた小さな岩窟があった。


 長い長い間、人の目に触れることの無かったその中で、一人の男が目覚めようとしていた。

 水底からゆっくりと浮かび上がるように、男はまどろみから抜け出した。重い目蓋を開け、体を動かそうとして、その自由がきかないことに気づく。

 男は岩壁いわかべはりつけにされているようだった。辺りは仄暗いが指先が見えないほどではない。しかし男の身を縛る縄や鎖の類も見えない。となれば、おそらく魔法による呪縛だろうと、男はぼんやり推測した。

 はて、どうしてこんなことになっているのだったか。思い出そうとして、男は磔の理由どころか、ほとんどのことを覚えていなかった。どうにか思い出したのは、男の名前がイザークであること、そして自分が「悪い魔法使い」であること、それだけだった。

 罪状はわからないが、罰ということならこの状況にも一応の説明はつく。イザークが見るに、彼を縛っているのはなかなかに大がかりな封印である。しかしこうして目が覚めたということは、この封印も綻んできているのかもしれない。

 そう考えて、イザークは片腕を思い切り引っ張ってみた。パキン、と硝子の割れるような音がしたかと思うと、腕だけでなく全ての拘束が呆気なく解け、体の支えを失ったイザークはすっ転んでしまった。

 予想以上の成果に苦笑しつつ、イザークは起き上がる。魔力もすっかり取り戻しているようだった。記憶は相変わらずだったが、渇きと空腹を思い出した。

 岩窟の口は木の根や蔦が絡まって隠れていたが、外光の差しこむ隙間がある。そこへぐいぐいと体を捩じ込むことしばらく、イザークはどうにか岩窟を抜け出すことができた。


 緑。葉擦れのざわめき。土の匂い。生命の気配。妖精たちの笑い声。


「僕は、ここを知っている……」


 イザークは無意識に呟いていた。見覚え、というほど確かではないが、イザークはその森に不思議な懐かしさを感じていた。

 心の赴くまま、イザークは歩き出した。

 枝葉は生い茂り、土は柔らかく湿っている。木漏れ日が風に揺れちらちらと瞬く。人気ひとけは無く、妖精は姿を隠したまま、ひそひそクスクスと囁きあうばかり。頭上から降る鳥の声に耳を傾けながら歩くうち、イザークはいつの間にか湖に辿り着いていた。

 水を掬おうと覗き込んだ水面は澄みきって、イザークの姿をくっきりと映した。

 年の頃は二十前後。細面ほそおもてに黒曜石の瞳、鴉の羽根に似た黒髪は胸元までゆるりと垂れ、その下に宵闇色の長いローブを纏っている。


「うん、そうだ。僕はこんな感じだった」


 実のところ、イザークはこうして見るまで自分の顔すら記憶が曖昧だった。しかし自分のことがわからないことに対する不安は不思議と小さかった。それ以上に大事なことを、忘れている気がしてならなかった。

 湖の水で喉を潤し、顔を濡らしたイザークの前を、水鳥が静かに滑っていった。冷水で頭が少ししゃっきりしたイザークは、それを見て一つ思い出す。


「ああ、鳥になればいいんだ。そういうのが得意だった気がする」


 イザークは立ち上がると靴のかかとをトンと鳴らし、強く念じながら爪先でくるりと回転した。

 すると、瞬く間にイザークは小鳥の姿に変わった。ローブは黒い翼と尾羽になり、フードを被ったように顔の正面と胸元は白い。小鳥のイザークは具合を確かめるようにその場で少し跳びはねてから、思い切り羽ばたいた。

 高く、飛べる限り高く空へ上がって、イザークは辺りを見渡してみた。

 森の最奥、イザークが目覚めた岩窟は崖の中にあり、その先は荒野が広がっていた。森を縁取るように川が流れ、それを岩窟とは逆方面へ辿っていくとなだらかな丘があり、街道が通っている。街道の先には町があり、色とりどりの屋根が見え、その向こうには白く輝く城がそびえていた。

 この町にも、城にも、何かひっかかる感覚がある。そこへ行けば「大事なこと」を思い出す鍵があるかもしれない。

 そう考えたイザークは、全身に風の流れを感じながら、まずは城下町へと飛んで行った。




 イザークは赤茶色の屋根の軒先にちょこんと留まった。

 上空から見て人通りの多そうな市場へとやってきたものの、屋根の上から一人一人の言葉を聞き取るのは難しい。かと言って、人の姿に戻るのも得策とは思えなかった。人の後を付いて行ったり、じっと立っているのは怪しまれるだろうし、そもそもイザークの身に着けているものがどうも場違いなようだった。全身に黒を纏う者はおらず、長いローブを着ているのは物乞いくらいである。

 小鳥の首を左右に捻りながら考え込んでいたイザークは、ふと視線を感じた。見回してみると、いつの間にやらすぐ後ろに縞模様の猫がおり、姿勢を低くして腰を妖しく揺らしていた。イザークは慌ててその場を飛び立ち、猫の爪は空を切る。せっかく目覚めたのに、猫に殺されては堪らない。内心ほっとしながら、その拍子に思いついたことを試してみることにした。

 黒羽根の小鳥は空中で一回転し、黒い毛並みの猫となって屋根に音もなく着地する。顔周りと腹が白いのは、小鳥と同じである。

 それまで恨めしそうにイザークを見ていた縞模様の猫は、ぶわっと尻尾を逆立てて走り去ってしまった。イザークは猫の姿で肩をすくめ、通りに降りてみることにした。


 猫というものは、人よりも人のなかに紛れることのできる特異な生き物である。道端で寝転んでいようと、そっと足の隙間をすり抜けていようと、人々は不審に思わない。それが猫である限り。

 イザークは猫の目でじっくりと町を観察した。

 上等なものは多くは無いが、素朴で丁寧なつくりの工芸品や食べ物が店先に並んでいた。たくさんの人々で賑わっており、彼らの話題は概ね一つに集約される。


「さぁさ、もうすぐクローデット様のご婚礼だ! 王家の紋章にも使われている一角獣の焼き印、これが入った円盤焼きが食べられるのは今だけだよ!」

「お祝いにはお花が付き物。お城にも献上しているお花はいかが?」

「遂に、って感じだなぁ」

「随分前からの婚約なんだろ?」

「らしいな。とびっきりきれいなお姫様だそうじゃないか」

「そういう噂だけどさ、おいらぁ見たことないんだけど」

「俺も。実は不細工だったりして」

「こら、滅多なことを言うんじゃないよ。それにあたしは、ちゃんとクローデット様のお顔を見たことがあるんだから」

「おいおい女将さん、嘘はいけねぇ。もう十年は城から出てないって話だぜ」

「十年前なんだよ。あたしが看板娘になるずっと昔さ。ほんっとにきれいなお顔でねぇ。あの子が笑えば花が咲く、って言うのか、一目見たら男も女も骨抜きになっちまうお姿だったのを、ようく覚えているよ」

「へぇ、そんな別嬪さんがお隣へとついじまうなんて残念なこった」

「そのお陰で、このちっちゃな国が攻め込まれずに済むんだもんな。ありがてぇありがてぇ」

「でもそんなにきれいなら、おいらぁこの目で見てみたいなぁ」

「見られるとしたら今度のパレードが最後だろうよ」


 城下町はどこもこんな具合だった。

 ちょいとくすねた魚の酢漬けを猫の姿のまま齧りながら、イザークは山を背に建つ城を見上げる。路地裏からその全貌は見えなくとも、天に伸びるいくつかの尖塔は見ることができた。美しい姫君の噂への好奇心、それだけではない何かが、あの城を見ていると湧き上がる。その正体を確かめたい。ついでに隣国へ嫁ぐというお姫様の顔も拝ませてもらうとしよう。イザークはそう決意したのだった。

 少し生臭くなった顔を前足で丁寧に洗ってから、イザークはまた大通りに出た。あちこちで人々の話に耳を澄ませながら、長い尻尾をぴんと立てて歩く。ときどきは人に撫でさせてやったり、屋台に並んだ物を落としてやったり、犬をからかったりもした。表情が変わるのを見るのは気分が良い。前にもこんなことをしていたから「悪い魔法使い」と言われたのかもしれない、そんなことを考えながら、イザークは煉瓦塀の上を駆けぬけた。


 イザークが城へ入るのは簡単だった。小さな蜥蜴に変わり、門番の横を素知らぬ顔で通り過ぎる。城壁に沿って兵舎や厩舎を抜け、茂みをくぐりながら裏手へ回る。すると炊事場の扉が半開きになっていたので、散らばった野菜屑を避けつつ、するりと中へ入った。奥へ進んでいくうち、イザークはどういうわけか、城の構造をすっかり思い出していたのだった。

 勝手知ったる、という風にイザークは城内を歩き回った。食堂、従者の部屋、宰相の執務室、王家の寝室、謁見の間、倉庫、牢獄。皆イザークの記憶の通りだったが、見覚えのある顔はいない。国王の髭面にも、宰相の禿げ頭にも馴染みがない。

 一通り行き尽くしたはずだったが、噂の姫は見つからなかった。尻尾を振り振り訝しみながら、黒蜥蜴のイザークは中庭に出てみた。

 既に日は落ちかけて、高い城壁越しに指す光が草も花も赤く染め、元の色をわからなくさせていた。その光景を目にした瞬間、何かが頭をよぎる。


『礼を言おう、イザーク。私はきっとこの日を忘れない。けれどお前は、どうか忘れてほしい』


 そんな声を、思い出した。

 その温かく、柔らかく、けれど切実な響きが、イザークの頭の先から胸まで突き刺すようだった。けれどもその声の主までは、もやがかかったように思い出せない。


(これは君の呪いなのか?)


 胸の内でそう呟きながら呆然と空を見上げると、ある塔の上で小さな明かりが灯るのが見えた。

 イザークは城内で行ける限りの場所を見て回ったはずだった。しかし、城の中央棟から伸びる塔の内、その塔へ続く通路は見当たらなかったし、そもそもこの塔の存在だけをイザークは知らない。


(僕が随分長く眠っていたとすると、あの塔はその間に建てられたのかもしれない)


 イザークは黒蜥蜴の後ろ脚でぴょんっと草むらから跳び上がり、その勢いで宙返りをすると、再び小鳥の姿に変わった。そのまま塔の上へと翼をはためかせる。明かりが見えるということは、窓があるはずである。城の中から塔を登るには隠し扉か何かがあるのだろうが、それを探すよりは飛んで行った方がイザークには簡単なのだ。

 今からでも鷲に変わろうかとイザークが考えるほど、小鳥の翼では限界に近い高さ。明かりを頼りにそこまで上がっていき、どうにか窓の縁へ着地した。

 中を覗いてみると、そのきらびやかな様子にイザークは驚いた。

 細かな刺繍の施された敷物、花の彫刻が目を引くチェスト、革の背表紙が並ぶ本棚、房飾りの付いた天蓋のある寝台。豪奢ではないが質の高い調度品の数々を、金の燭台が照らしていた。その炎のそばに、目を伏せて佇む者がある。

 鮮やかな青い布をたっぷりと使い、袖と裾が広がるドレス。その上から艷やかな亜麻色の巻き毛が背中に長く流れていた。その肌は透けるように白く、頬は薔薇色。小さな唇が桃色に膨らんで、長い睫毛に縁取られた瞳は、晴れた空から降る雨粒のように淡く青が透ける。

 その姿に、イザークは一瞬で目を奪われてしまった。噂の姫君に違いない、これほど美しいものが他にあるだろうかと、何もかも忘れて人の姿に戻ってしまいそうだった。イザークが危ういところで我にかえることができたのは、この部屋の窓に鉄格子が嵌められているのを思い出したからだった。

 ピチチチ、と窓辺でイザークはさえずってみる。

 その声に気付いた姫君は、きょろきょろと部屋を見回してイザークを見つけると、目を見開いて驚いた。


「こんなところに、どうして……残念だけどお前にあげられるようなものは何も無いんだ。初めてのお客様なのにね」


 それを聞いたイザークもたいそう驚いた。

 美しい姫君の声が、少年にしか聞こえなかったのだから。

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