第5話 借金取り
大扉の前にいた大柄な男は、片方の眉を上げてにやりと笑った。
「逃げずに出てくるとは感心じゃねえか」
男は威圧的で、どこかすさんだ感じがした。三十代後半ぐらいに見えるが、実際はもっと若いのかもしれない。少し長めの黒髪で、金や赤のちりばめられた派手な上着を羽織っている。その下に着たシャツは体にぴたりと張り付き、筋肉が盛り上がっているのが一目でわかった。猛獣を思わせる危険な雰囲気を感じ取り、スウミは強い警戒心を抱いた。
「ええと、どちら様かな? 私は君に金を借りた覚えはないのだけれどね」
男は短く弾けるように嘲笑すると、懐から紙を取り出して、父の目の前に突き出した。
「キルス伯爵に2000万ギル借りただろ。これがその借用書だ」
「……確かに、その借用書は私がサインしたもののようだ」
2000万ギルという額にスウミは震え上がった。スウミ親子の年収が合わせて200万ギルというところだから、10年分の稼ぎの金額ということになる。
「俺はキルス伯爵に頼まれて借金の回収に来てやったんだ。今すぐ耳を揃えて返せ」
「今すぐだって? 伯爵は返済はいつでもいいと……」
「気が変わったんだろ」
男はそっけなく言うと、屋敷を見上げた。
「金がないなら、この屋敷をもらっていくしかねえな」
「やめてくれ、そんなことになったら住むところがなくなってしまう」
「俺の知ったことか。悪いがこれも仕事なんでね。ただ、屋敷だけじゃあ2000万ギルには足りねえだろうな。伝統あるデルファトル家の屋敷だ、王家に没収される恐れがあるから高値では売れねえ」
「お、お父様」
「スウミ、いますぐ屋敷に戻りなさい。詳しい話はあとでするから……」
「あんたが噂の令嬢か」
男は父の言葉を遮り、スウミの目の前までやってきて、じろじろと見てきた。品定めするような見下ろす視線も、にやついた口元も不快だった。
「あんたが俺の愛人になるっていうなら、返済を免除してやってもいいぞ」
――愛人だなんて!
反射的に男の頬を打っていた。ほとんど無意識に近い行動だった。そのとき男の耳元で何かが光ったのに気づいたが、よく見る前に右手を掴まれてひねり上げられてしまった。
「痛っ!」
見上げると、男は怖い顔をしてスウミを睨んでいた。
「おまえ、自分の立場がわかってねえみたいだな。奴隷として売られても文句は言えねえところを愛人ですませてやろうって言ってやってるんだ」
「な、何が愛人ですませてやるよ! 私は愛人になんか絶対にならない!」
愛人だけは、絶対に、死んでも嫌だ。
「じゃあ、どうする? 金を返せるのか」
「返すわよ!」
「どうやって」
「わ、私が稼いで」
「体でも売る気か。一晩いくらだよ、買ってやろうか」
スウミは自由になる左手で男を殴ろうとしたが、あっさり左手も掴まれてしまった。
「まるで野良猫だな。とても貴族令嬢とは思えねえ」
「お金は返すわ! 私が会社を作って、それで稼いで返すんだから!」
「……会社、だと?」
「そうよ!」
男はぱっと手を離すと、げらげら笑い出した。体を揺するたびに耳元の白珠のピアスがちらちらと煌めく。
「はは、世間知らずなお嬢様が会社を作って2000万ギル返すとか、なんの冗談だよ。……くっ、そんなことができると本気で……、ふふ、おまえ頭悪いだろ……ふ、はははは!」
男は笑いすぎて息もできないようで、途切れ途切れに侮辱してくる。
「スウミ、もういいから、ここは私に任せて……」
「いいえお父様、私、決めたの。会社をつくって、稼いで借金を返して、そして脱・貧乏をしてみせると」
スウミが決意を込めてそう宣言すると、男はさらに笑い転げて、肩をひくひく痙攣させ始めた。
――なんなの。本当に失礼な人!
「あー、笑いすぎて死ぬかと思ったぜ。お嬢さんがそこまで言うなら、返済を1年猶予してやるよ。そのかわり1年たっても返せなかったら屋敷はもらうし、お嬢さんは俺の愛人になるってことでいいな?」
「いいわ」
「スウミ! 待ちなさい!」
こうしてスウミの借金返済人生がスタートしたのだった。
借金取りの男を追い払って屋敷に戻ると、スウミは使用人用の浴室へ向かった。
汗やナメクジの粘液を冷たい水で洗い落し、寒さに震えながら自室に駆け込むと、すぐさまベッドに潜り込んだ。布団から顔だけ出して仰向けになると、天井に描かれたスイセンの花がいつものようにスウミを見下ろしていた。
この部屋は代々令嬢が使う部屋の一つらしく、スイセンの部屋と呼ばれている。壁紙やランプ、ベッドやクローゼットなどあらゆるところにスイセンの花が描かれたり彫り込まれたりしており、いかにもお金持ちの女の子の部屋という感じだ。
そんな部屋のベッドに、裾の擦り切れた粗末な綿のシャツを着た娘が寝ているだなんて、この屋敷を設計した人が知ったらびっくりするに違いない。何百年前の建築家か知らないけれど。
父もすでに当主の部屋へ戻っている。きょうはもう夜も遅いので、詳しい話は明日の朝にしようということになったのだ。父も変色した粗末な綿のズボンとシャツで寝ているのだろう、デルファトル家の紋章である黒いドラゴンの描かれた天井の下で。
父が寝ている当主の部屋は、書斎と一続きになっているのだが、そちらも歴代の当主が見たら気絶しそうな有様だった。本は全て売ってしまった。からっぽの本棚は寂しいから、幼い頃のスウミは拾った木彫りの像や椰子の実のお面なんかを飾ってにぎやかにしてあげた。父は喜んでくれて、いまも書斎にいけば本棚には誇らしげに謎の工芸品たちが並んでいるのを見ることができる。それを申し訳なく思い、でも、そんなものを大事にとってくれているのが正直嬉しかった。
(私は愛人の子という負い目はあるけれど、これまでお父様のおかげで幸せに生きてこられたのだと思う)
スウミは天井のスイセンを見上げたまま、ため息をついた。
勢いで会社を作るなんて言ってしまったけれど、不安な気持ちでいっぱいだった。だって1年間で2000万ギルも稼ぐだなんて不可能だと思うのだ。しかし、何もしなければ愛人決定だなんていう未来を黙って受け入れたくはない。たとえダメでも精いっぱい抗おう。やれるだけやってみよう。そんなふうにも思ったのだ。
これまでスウミには特にやりたいこともなかった。それどころか全てにおいて消極的で、人付き合いも避けてきた。
――自分は愛人の子だから。お父様が不幸になったのは私が生まれたせいだから。
そんなふうに思ったら、ただ生きているだけでありがたくて、このままで十分幸せで、だから自分がどうしたいなんて考えたこともなかったのだ。
お金がなくて家庭教師は雇えないからデルファンの下町にある無料の学習所に通い、庶民の子たちと机を並べて読み書きや算数を習った。清掃の手伝いをして日銭を稼ぎ、20歳になれば父が言うままに社交デビューした。その先にどんな将来があるのかなんて考えたこともなかった。そんな自分の口から会社を作って借金を返すなんて言葉が飛び出たのだから、スウミ自身が一番びっくりしていた。
――心のどこかで、このままじゃいけないと思っていたのかもしれない。
将来のことはまだわからない。それでも愛人にだけはなりたくない。一番嫌いなものになるぐらいなら、どんな努力だってできる気持ちなのだった。
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