2-2


 翌日の午後。

 シャルロットはピエールとともに、マルクとの待ち合わせ場所に向かっていた。マルクは朝食を済ませると、早々に出かけていた。

 街行く人はぼうの少女に目をうばわれている。町娘の衣装でもシャルロットは浮いていた。


「ボクなんかがお供で申しわけないです」


 ピエールがきょうしゅくする。

 シャルロットが美しい者以外できるだけはいじょすることをピエールは知っているし、彼はリュゼール家の使用人で、そもそも皇女と会話ができるような身分ではない。


「なにが? マルクから、ピエールはとても腕が立つと聞いているわよ」


 シャルロットは護衛として申し分ないむねを伝える。身分差のことなど意にかいしていない。


「マルク様が……」


 直接められたことのないピエールは感動に震える。


「それに、いくらマルクの従卒だからといって、美しくなければわたしの視界に入れていないわ。ピエールはとても可愛かわいらしいわよ」

「ありがとうございます、姫様」


 年下の皇女に「可愛らしい」と言われたピエールは大いに照れた。マルクがいれば「喜ぶな」と突っ込まれただろう。

 待ち合わせ場所はどおりのはしにある、つうしょう『花時計広場』だ。季節折々の花で囲まれた大きな日時計が中心にある広場で、この街のいこいの場になっている。

 シャルロットの好みに合わせてマルクが指定した広場で、こいびとたちの待ち合わせによく使われているという。情報どおり、日時計の周囲や歩道沿いに設置された石造りのベンチには、何組もの男女が寄り添って座っていた。


(わあ、近い近い)


 顔を寄せ合ってだんしょうする男女を見て、シャルロットははわはわとほおを紅潮させた。

 とうかいはともかく、きゅうていではたとえふうであろうと人前でこんなに密着していることはなかった。


(これが恋人の距離感なのね)


 のうみつな空気がこちらにまで流れてくるようで、シャルロットは落ちつかない。

 そこから連想するように、ことあるごとにマルクに抱きついていた自分を思い出し、更に顔を赤らめる。


(わたし、淑女としておかしなことをしていたのかも)


 シャルロットは改めて、とんでもなくいまさらなことに思い至った。


(でも、ずっとそうだったから……)


 幼いころからマルクはいつもそばにいて、それが当たり前になっていた。初期のころは侍女の仕事まで押し付けていたので、添いに付き合わせることもあった。親兄弟よりも身近すぎて、距離感なんて考えたこともなかった。

 今まで使ったことがなかった脳の部位をげきされてムズムズする。


「あっ、マルク様ですよ」


 ピエールの声に我に返ると、日時計の近くにマルクが立っていた。

 むなもとをゆるめた白いシャツに黒いしたごろもというシンプルな服装で、いっぱん的なウールなのに、マルクが着るとシルクのようにつやめいて見える。日々のたんれんきたえ抜かれた肉体のふくがそう見せるのかもしれない。腰にはレイピアをけいたいしている。

 いつもとふんの違うマルクの姿に、シャルロットはドキリとした。

 やはりマルクも目立っていて、特に女性たちの視線を集めている。


(さすがわたしのマルクだわ)


 シャルロットはほこらしげになる。

 普段のシャルロットならば走ってマルクに飛びついているところだが、距離感を考えていたばかりだったのでまんした。


「マルク、待った?」

「いや、来たばかりだ」

「……!」


 シャルロットは瞳を輝かせた。


(こんなシーン、何度も読んだわ!)


 これはデートなのだと、シャルロットは改めてワクワクし始めた。


「ボクはこれで。楽しんできてくださいね」


 出先で着ていたのであろう、マルクが手にしていた質のいい胴衣やクラヴァットを受け取って、ピエールは去っていった。


「どこに行くの?」

「着いてのお楽しみだ」


 マルクに促され、二人は歩き出した。

 見上げるとマルクと目が合い、ふっと微笑まれた。


「その服、よく似合っている」


 その言葉にシャルロットは驚いた。マルクに服装を褒められたのは初めてだ。その表情があまりに柔らかかったので、シャルロットは少々頰を染める。


「アンヌが、おしゃれをしていけって」


 シャルロットは白いレースのロングスカートの上に、たけの違うチュニックを二枚重ねて着ていた。チュニックの両サイドの深いスリットからレースがのぞき、三色使いのしゃれたワンピースのようなコーディネートになっていた。

 腰まであるブロンドの髪はハーフアップにして、右耳の上で結んでいる。そこにはボリューム感のある手作りのニットの花かざりと、それをいろどるようにプリーツのうすの布が巻かれていた。

 皇宮では見られない、庶民ならではのフェミニンなよそおいだった。


(こういうときって、褒め返したほうがいいのかしら)


 そうシャルロットが考えていると、マルクに腰を引かれてドキリとした。


「人混みでは離れないように」


 マルクはさりげなくシャルロットを人波から守っていた。

 腰に回されている手が温かい。

 思えば、シャルロットからはベタベタとマルクにさわるが、反対はほとんどなかった。せいぜい頭をなでられるくらいだ。こうして触れられるのもしんせんだ。


(マルクもデートだと思ってくれているのね)


 なんだかくすぐったい気持ちになる。


「あっ、マルク。その店を見てもいい?」


 シャルロットが指さしたのは生花店だ。帝国では見たことのない植物が目に入り、思わず足を止めてしまった。


「ああ、行こう」


 マルクはシャルロットを促した。

 シャルロットは購入するなえや種を決める。温室を持っていて自ら管理しているので、育て方の説明も受けると、植物の話で店主と大いに盛り上がった。


「おじょうちゃん、若いのにくわしいね」

「十年は植物の研究をしているもの!」


 シャルロットは得意になる。


「そういえばお嬢ちゃん、聞いたかい? 昨日もウィリアム王子が現れたそうだよ」


 聞いたもなにも、シャルロットは会っている。


「昨日もって、よくあることなの?」

「知らないのかい」


 四十代くらいのよく日焼けした店主は、驚いたような表情をした。


「ウィリアム王子は、よく城から貴族街に通っているからね。そのついでだろうけど、街の様子も気にしてくれて、困ったことがないかと声をかけてくれるんだ。いい王子だね。このまま王様になってくれるといいんだが」

「なるでしょ。第一王子なのだから」


 そう言うシャルロットを、店主は「なにも知らないんだねえ」と同情するような表情で見た。


「ウィリアム王子が、一歳下のジョルジュ王子に地位をおびやかされているのは有名な話さ。弟王子をかつげているのは税金食いのていしんで、今はウィリアム王子が目を光らせているけれど、ウィリアム王子になにかあったら、この国も俺たちも大変なことになるかもしれない」

「でも、ただの噂でしょ?」


 王室のいんぼう話なんてよくあることだ。


「いやいや、俺は造園の仕事をしているから、貴族の屋敷の庭の手入れもするのよ。それで下働きの連中からも話が入るってわけだ。ウィリアム王子が貴族街に通っているのは、しんらいできる仲間と打ち合わせをするためのようだぜ」


 つじつまは合っているようだ。

 マルクも切れ長の目をせぎみにした難しい表情で、長い指の背をあごに当てている。店主の話を聞いて考え込んでいるようだ。


(……あっ)


 その奥。

 通り沿いに立ち止まっている数人のみょうれいの女性たちが目に入った。頰を染めて、マルクをチラチラ見ながらきゃっきゃとさわいでいる。


(マルクに見惚れているのね)


 ついさっきまで「どうだ、わたしのマルクは美しいだろう」と鼻を高くしていたのに、なぜか少し、胸がモヤモヤした。


「マルク!」


 シャルロットは、少し離れた位置にいたマルクの腕に手をからめた。


「どうした」

「購入したものの配達手配と、代金のはらいをお願い」


 マルクは「りょうかい」の意のようにポンとシャルロットの頭に手をのせて、店主のもとに歩いて行った。

 シャルロットが通りに視線を戻すと、女性たちがいなくなっていてホッとする。


(なんだったんだろう?)


 シャルロットはモヤモヤの正体がわからず首をかしげながら自分の胸を押さえた。

 生花店を出て、露店を眺めて歩く。

 そのうちにシャルロットは、スパイシーな香りに誘われた。ウサギ肉をペースト状にして、パイ生地で包んで焼いたパテだ。


「このパテを食べていい? あっ、でもこっちのくしきも美味おいしそう!」


 街中デートをしたいと読んで考えた小説のシーンにも、恋人と食べ歩くシーンがあった。それもシャルロットがしてみたいことの一つだった。

 皇宮では立食パーティがかいさいされることもあるが、置かれている食事はゲスト用で、皇族が会場で食べることはない。

 マルクとは何度か庭でお茶会をしたこともあるが、座って食事をしただけだ。食べ歩きなど、帝国ではできない。


「戻ったら夕食だ。どちらか一つにしろよ」


 シャルロットは大いに悩み、自分用にはパテを選んだ。うずら肉の串焼きも購入し、そちらはマルクが持つ。


「美味しい!」


 レモンに似たさわやかなカルダモンとバターがよく合うパテだった。こうして歩きながら食べるのも初めてなので、美味しさが割り増しになっている気がする。


「これも食べるか?」

「食べる!」


 マルクに口の前にくしを差し出された。うずら肉も気になっていたのだ、断るはずがない。

 肉は四切れほどに分かれていたが、一切れが大きいので、半分ほどでる。


「これも美味しい」


 シャルロットは頰に手を添えた。あぶらが少なくせんの詰まったたんぱくなうずら肉に、ブラックペッパーが効いていた。


「そうか」


 マルクがくしにくを口に運ぶ。


(あ、……れ?)


 それはわたしの食べかけで、と言う前に、肉はマルクの口の中に消えていた。

 シャルロットの顔が真っ赤になった。


(なんでこんなに恥ずかしいのだろう)


 またも、理解不能な感情がこみ上げてきた。


(マルクは味見をさせてくれたのだから、わたしも食べてもらったほうがいいのかな)


 しかし、手の中のパテには自分の歯型がはっきりとついている。

 いまだかつて食べ物をシェアしたことがなかったシャルロットは、ちぎって渡すという発想がなかった。


「心配しなくても、俺はおまえほど食い意地は張っていない。すべて食べればいい」


 シャルロットがあまりにも冷や汗を流しながらパテをにらんでいるので、マルクは軽口をたたく。


「ち、違う! そうじゃないわ!」


 じょうだんを真に受けたシャルロットは、思わず手にしていたパテを丸ごとマルクの口に突っ込んだ。


「……っ!」


 かろうじてパテを飲み込んだマルクは、ゴホゴホとむせる。


「おまえは俺を殺す気か」


 あやうくちっそくしかけたマルクは、背中を丸めてのどをさすった。


「そんなつもりじゃ……! なにか飲み物」


 慌てて走り出そうとするシャルロットの手をマルクがつかんだ。


「いい、動くな。ろくなことがない」

「ごめんなさい」


 シャルロットはションボリとする。


「いいから、これでも食べていろ」


 マルクはシャルロットに串焼きをにぎらせた。


「それはマルクのだから」

「これ以上食べたら胸やけが起きそうだ」

「怒ってない?」


 シャルロットはうかがうようにマルクを見上げる。その顔は、主人に見捨てられそうな子犬のようだった。マルクは思わず苦笑する。


「何年おまえに付き合っていると思う。こんなことで怒っていたら、かんにんぶくろが天に届くほど大きくても足りない」


 マルクに頭をぐりぐりとされたシャルロットはがおになった。


「よかった! ごめんねマルク。わたしは今日、なんだかおかしくて」

「安心しろ。今日に始まったことではないから」


 串焼きを食べ終えてしばらく歩くと、マルクが足をとめた。


「ここが目的の場所だ」


 アーチの入り口に「ラバーズヒル」と書かれた看板があった。長い上り坂は、常緑広葉樹で覆われたトンネルになっている。


「二人でおかを登ると永遠の愛が得られるという、いわば恋人たちのパワースポットのようだ」

「わあっ、ロマンティックね!」


 シャルロットは手を組んで跳ねた。まさに好みの場所だった。

 シャルロットのとびきりの笑顔を見て、マルクも満足そうに微笑む。


「ただし、二つ条件があるから、そうそうようおんけいは受けられないようだ」

「条件?」

「一つは、女性は目を閉じてトンネルを抜けること」

「そんなの簡単だわ……あっ」


 運動神経には自信のあるシャルロットは、目を閉じて意気揚々と歩き出したが、すぐにつまずいた。足場は舗装されておらず、常緑広葉樹の根がむき出しになっている。


「そうなるから相手に、俺に摑まって歩くんだ」

「ありがとう、マルク」


 転ぶ前にマルクに支えられ、そのまま手をたくましい腕に導かれた。


(目を開けられないと相手にたよるしかないものね。恋人たちの試練その一、ってところかしら)


 胸をはずませながら足場の悪い坂を上り始める。シャルロットには見えないが、葉のすきからが差し込む緑に囲まれたトンネルは神秘的な空間だ。

 根に足を取られるたびにシャルロットはギュッとマルクの腕にしがみつき、ほそごしに回っているマルクの手にも力がこもった。


(なんだか、ドキドキする)


 マルクにはしょっちゅう抱きついているのに、この違いはなんだろう。目を閉じていて、視覚以外の感覚がまされているのだろうか。

 マルクのきょうじんな腕は安心感があり、丘の上といわず、目を閉じたままどこまででも行けそうだ。マルクの胸元から香るかぎなれたハーブのこうすいは心をおだやかにしてくれる。


(ずっと、こうして歩いていたいわ)

「もうすぐ、トンネルの出口だ」

「……っ!」


 やさしくマルクにささやかれて、シャルロットは肩をね上げた。よくひびく低い声が耳を打って、どうが速くなる。


(坂道だから、疲れちゃったのかしら)


 る頰に戸惑いながら、シャルロットはそんなことを考えた。


「到着だ」


 その声にシャルロットが目を開くと、小高い丘からシュルーズメア王国の街並みがよく見えた。青空のもと、奥にシュルーズメア城があり、その周辺に貴族街、そして城下町が囲うように広がっている。


「わぁ、いい眺め!」


 シャルロットは丘の端に駆け寄った。風になびくハーフアップの髪を片手で押さえながら笑顔で振り返る。


「一つ目の課題はゆうだったわね。ねえマルク、条件は二つあるって言ってなかった?」

「もう一つは運だ。この丘で、二人そろってさいうんを見ること」

「彩雲ってなに?」


 シャルロットは隣りに並んだマルクを見上げた。


「彩雲とは、にじのようにあざやかに色づいた雲のことだ。太陽光が雲にふくまれるすいてきを回り込んで進むことで発生する」

「マルク、詳しいわね」

「調べておいたんだ。おまえに聞かれるだろうからな」


 マルクの笑みに、シャルロットは頰を染めた。いつもマルクは、シャルロットがしてほしいことを先読みして、準備を整えてくれる。


「彩雲は幸福を呼ぶとも言われている」

「そんな雲、見たことがないわ」

「だから、そうそう容易に恩恵は受けられないと言っただろ。この景色をちょうぼうするだけでも……」


 マルクが言葉をとめ、驚いた表情で空を見上げている。


「どうかした?」


 シャルロットもマルクの視線を追い、ぱっと瞳を輝かせた。


「美しいわっ!」


 太陽を背負って、まるで七色の綿のような雲が青い空をゆったりと流れていた。


「これが彩雲ね!」

「ああ」

「すごい! じゃあわたしたち、永遠の愛を得られたということね!」

(……あれ?)


 そう言ったシャルロットは、彩雲を見たまま動きをとめた。


(わたしと、マルクが、永遠の愛を……)


 いやいや、とシャルロットは笑いながら首を横に振った。


「わたしたちが永遠の愛を得ても意味ないのにね! ……ってマルク?」


 おかしいね、と二人で笑い飛ばすはずが、マルクの瞳は笑っていなかった。

 真っすぐに見つめてくるマルクの表情は、シャルロットが知らないものだ。こみ上げる感情をおさえるようなしんな表情で、しかしどこか切なげに瞳が揺れている。

 そのライトブラウンの瞳に吸い込まれるように、シャルロットは目が離せなくなった。


「マルク?」


 シャルロットが不安げにそう呼びかけると、ポンと頭に手をのせられた。


「その噂は恋人の場合だ。俺たちには関係ない」


 改めて見上げると、マルクはいつもと変わらぬ表情に戻っていた。


(あれ? 見間違いだったのかしら)

「そうよね、ここはラバーズヒルだものね!」


 二人はしばらく丘からの眺めをたんのうしてから緑のトンネルを下った。

 屋敷への帰り道、花時計広場を通った際に、シャルロットはわきみちから見えるボートに目をつけた。


「マルク、ボートに乗りましょう! おびにわたしがぐわ!」


 丘の上から湖が見えていて気になっていたのだ。


てんぷくさせるなよ」

「任せて!」


 ボート乗り場に行くと、かなり広い湖が広がっていた。恋人たちがつどう広場の近くにあるだけに、ボートに乗っているのは男女のペアばかりだった。


「立札に、遊泳禁止って書いてあるわね。ボート専用の湖みたい」


 それでなくても秋口だ。わざわざ冷たい湖に入る者はいないだろう。


「だいぶかげが長くなったな。これで最後だ」


 かたむいた日の光もあかねいろがかってきた。


「漕ぎ手は進行方向側に背を向けて座る」

「こっちね」


 マルクの指導を受けてシャルロットはボートに乗り込んだ。さんばしでボートを摑んで固定していたマルクが、そのあとに向かい側に乗った。


「いくわよ!」


 シャルロットは腕まくりをした。やる気満々だ。


「ンーショ、ンーショ。思ったより重たいわね」


 シャルロットが二本のオールで漕ぎ始める。ほとんど進まない上に、湖面をオールが叩いて激しい水しぶきがあがった。


「晴れているのに、なぜか水が降ってくるわ!」

「なぜかじゃない。理由は明白だ」


 マルクは額の前に両手をかざして、水よけのひさしを作っている。


「腕は思いきり前にばしていい。それから腕をゆっくり上げるとオールが静かに着水するから、飛沫しぶきが上がらない」

「ボート中央の段差を足場にすると力を入れやすい」

「腕だけで漕ぐから重いんだ。身体全体を使うと楽になる」


 シャルロットが慣れてくるたび、マルクは少しずつアドバイスを増やしていった。


「速く漕げるようになってきたわ!」


 シャルロットはうれしくなって、腕の回転を速めた。


「スピードをきそうわけじゃない。周囲を見ろよ。ああなっては迷惑だからな」


 マルクはもうスピードで湖を駆け抜けているボートを指さした。十代前半の少年二人が乗るボートだ。シャルロットのように漕ぐことが楽しくなって飛ばしているのだろう。


「そうね。じゃあきゅうけいするわ」


 反面教師がいたおかげで、シャルロットはすぐになっとくした。


「どうだ、少しは明日の参考になったか」

「参考って?」


 首をかしげそうになったところで、シャルロットは思い出した。


(そうだ、明日はウィリアムとデートするんだわ!)


 すっかりそのことを忘れ、ただつうに楽しんでしまった。


「う、うん」


 頭から抜けていたとは言えない。


「そんなわけがないか。殿下が連れて行ってくださる場所とはかぶらないだろうからな」


 まあ、でも、とマルクが笑みを浮かべながら続ける。


「楽しかったな」

「楽しかった? マルクも? ホントに?」


 シャルロットは嬉しくなって身を乗り出した。


「パテを口に突っ込まれたのに!?」

「それはもうかんべんしてくれ」


 マルクはうんざりした表情で髪をかき上げた。

 ──シャルロット様もお気持ちを変えないといけませんわ。

 昨日アンヌに言われた言葉をふいに思い出した。


(運命の恋を成就させるという意気込みで、マルクとデートするように、という)


 そうでなければ、体験にならないとアンヌに言われた。

 シャルロットはポッと頰を染めた。

 その言葉を言われたからか、マルクが普段と違う面を見せたからか。

 今日はずっと、ふわふわとしたような気持ちだった。


(思っていた以上にしゅうかくがあったわ)


 うん、とシャルロットはうなずいた。


「わぁ、どいてどいて!」


 叫び声がシャルロットの思考をしゃだんした。

 声の方向に顔を向けると、ボートがすごい勢いで向かってきていた。さきほど見かけた、スピードを出しすぎている少年二人だ。

 どうやら調子に乗って最大スピードを出したところ、うっかりオールを落とし、自力で止められなくなったようだ。

 シャルロットはすっかりオールから手を離し、ボートは動きを止めている。マルクの位置からではオールが届かず、向かってくるボートをかいするのは不可能だった。


「シャルロット、そのまま動くな!」


 マルクの声と、その身体がかぶさってくるのは同時だった。

 次の瞬間、ボートを横から突く激しいしょうげきおそった。その勢いで乗っているボートが回転したのがわかる。湖水が波のように二人にかかったが、マルクがたてになり、シャルロットはあまり濡れなかった。


「助けて!」


 見ると水しぶきをあげて、二人の少年がおぼれていた。


「ここで待っていろ」


 身を起こしたマルクはそう言うと、ボートから飛び降りた。


「落ち着け、だいじょうだ。ここは浅い」


 マルクは少年たちに声をかけながらぎわよく抱き上げると、裏返しになっていたボートを元に戻して乗せる。


はないか?」

「だいじょうぶ、ありがとう兄ちゃん!」


 感動している少年たちに、マルクは自分たちのボートのオールを渡した。そして、安全に漕ぐよう言い含めて送り出す。

 マルクは長身でせいかんな顔立ちをしているので、一見近寄りがたい雰囲気があるが、世話焼きなしょうぶんだった。


「オールを渡してしまって、いいの?」

「どうせずぶ濡れなんだ。ボートをいていく。幸い、岸までそんなに離れていない」


 マルクはシャルロットが乗ったボートの側面を持って歩き出す。


「そんな! ボートに乗りたいと言ったのも、避けられなかったのもわたしなのに」


 その言い方にマルクはイヤな予感がした。


「気にするな。これは事故だ。おまえは余計なことをせずに、そこにいろよ」

「マルクが湖の中からボートを押しているのに、わたしだけのうのうとボートに乗っているなんてイヤ。わたしも手伝うわ!」


 シャルロットは湖に飛び込んだ。


「……やると思った」


 マルクは頭痛がするとでもいうように額を押さえた。


「ひゃっ、思った以上に冷たい! 天気がよくて助かったわね、マルク」


 シャルロットのブロンドの髪が水面に広がった。重ねているチュニックが一気に水を吸い込んで重たくなる。


「遊泳が禁止されているということは、ボートと人がせっしょくしないようにという注意かんだし、水温が低くて長時間じゅすいするのに適さないという意味合いもあるだろう」


 マルクは普段の冷静な表情でシャルロットをさとす。


「わかっているけれど、一緒に運びたかったんだもの」


 ずれてはいるが、それがシャルロットの優しさなのだとマルクは理解できた。


「仕方がない」


 マルクは高めの位置で片手でシャルロットをかかえると、もう片方の手でボートを運び始めた。


「しっかり摑まっていろよ」

「わっ」


 シャルロットはマルクの首に腕を回した。


「重いでしょ。わたしもギリギリ足がつくから歩けるわ」

「湖面には岩があって足場が悪い。おまえを歩かせるわけにはいかない」

「そうしたら、さっきよりマルクが大変なんじゃ」

「だからボートに乗っていろと言っただろう」


 シャルロットはうなだれた。


「ごめんなさい」

「おまえの暴走には慣れている」

「ボートに戻ったほうがいい?」

「このままでいい。俺一人に運ばせたくなかったんだろ」


 至近距離にあるシュンとした表情のシャルロットを、マルクは柔らかい瞳で見つめた。

 ボート専用の冷たい湖で、マルク一人にの目を向けさせたくなかった。立場を共有したかった。

 シャルロットの思いは、ただそれだけだったのだ。

 一見、こうにしか見えないシャルロットの行動はたいがい意味がある。マルクはその原理に気づけるな人物だった。

 桟橋に着き、先にシャルロットを岸にあげると、マルクも身軽に桟橋に着地した。


「あっ、手を貸そうと思ったのに」


 シャルロットがくやしがる。


「おまえのことだから、引っ張るふりをして落とすんだろ」

「バレてた! だってお約束だもの」

「これ以上、無駄な体力を使わせるな」


 二人は近くのしばに座って休むことにした。濡れた服をしぼる。シャルロットは布が多いので、いくら絞ってもきりがない。

 幸い外気は暖かかった。夕暮れなので服が乾くとまではいかないが、をひくようなことはなさそうだ。とはいえ、日が落ちるとぐっと空気が冷える。


「そろそろ屋敷に戻らないと……」


 茜色の空を見上げながらシャルロットはつぶやいた。

 名残なごりしかった。

 もう少し日が落ちるのを待ってもらえないかと、夕日をうらめしく思う。

 静かになったマルクに目を向けると、あおけになって目を閉じていた。濡れた髪やうすい服が肌に張り付いて、鍛え抜かれた逞しい身体のラインがはっきりと見える。

 そこに夕日が当たってげんそう的な色合いになり、まるでがみに愛されたえいゆうの絵画のようだった。


「寝ているの?」

「このままではねむってしまいそうだ。誰かさんのせいでそくだからな」

「もしかして、わたしのせい?」

「ほかに誰がいるというんだ」


 まぶたが開き、トパーズのような瞳が現れる。


(……どれだけ見ていてもきないわ)


 心の中で賛美していると、マルクの上半身に新しいひっかき傷がいくつも服の下に浮いているのに気がついた。


「マルク、怪我をしてる」


 シャルロットは胸や首の辺りを示した。マルクは「胸?」と言いたげに手を当てると、得心したように手を芝生に戻した。


「さっきの子どもだな。溺れないように必死だったから、その時に引っいたのだろう」


 かなり長いミミズばれもあり痛々しいと思っていると、今度はマルクの足の異変に気づいた。


「これは、血……」


 下衣が黒いので気づかなかった。

 シャルロットがマルクの足元に移動してそっと裾をめくっていくと、すねの横辺りがザックリと切れて流血していた。


「マルク、大変!」


 シャルロットは真っ青になる。


「触らなくていい。おまえは血が嫌いだろう」

「えっ、別にそんなこと……」

「湖底の岩で切ったようだ。放っておいていい。そのうち止まる」


 かつて戦場に行き、命のふち彷徨さまよった経験のあるマルクには慌てるような傷ではないのかもしれない。とはいえ傷は浅くないようだ。出血もかなりある。


「だめよ! かんせんしょうこわいのよ! 水! 消毒! りょう!」


 シャルロットは飛び上がるように立つと、駆け出そうとする。素早く上半身を起こしたマルクが、その手をしっかりと握った。


「待て。どこに行く」

「お医者さんを探してくるわ」

「医師なんてそう見つからないだろ」


 しかもしょうするだけのやぶしゃも多い。見知らぬ街で腕のいい医師を探すのは困難だ。


「移動するなら俺も行く。たのむから俺の目の届くはんにいてくれ」

「動く前に消毒して止血したいのに!」


 シャルロットはだんを踏んだ。


「水、消毒……」


 シャルロットは繰り返して、周囲を見た。


「うん、いけるかも。ねえマルク、剣を貸して。植物を採取したいの」


 シャルロットはマルクの前でしゃがんだ。意図を察したマルクは、レイピアとともにたずさえていたたんけんをシャルロットに渡す。

 シャルロットは一番上のチュニックをぎ、ふくろ代わりにして植物を集め始めた。その選定には迷いがない。

 すぐにいっぱいになった植物を抱えて、シャルロットは戻ってきた。


「まずは傷口を水で洗い流す。湖の水は危険なきんがいたりするから」


 シャルロットはかみかざりにしていたプリーツの薄手の布を外した。身近にあるものでゆいいつ、湖水で濡れていない布だ。


「こういう、くきや葉がふくらんでいる多肉植物は、内部に水をめこんでいるの」


 シャルロットはそう説明しながら、植物のツルリとした半透明の内部をくりぬいていく。それを布に集めて、傷口の上で絞った。布越しにサラリとした透明な液体がしたたり、血を洗い流した。

 絞りきった湿しめった布で別の植物の葉をていねいくと、シャルロットはその葉をみほぐした。


「これはバラ科の植物で、本当は根のほうがこうきん作用があるし、かんそうさせてだすとかして成分をちゅうしゅつしたほうが効果が高いけど、これは応急処置だから」


 その葉を傷口に重ねてっていき、袋代わりにしていたチュニックを短剣で細く切ると、包帯のようにマルクの足に巻いていく。


「終了!」


 シャルロットは満足そうにマルクの下衣の裾を下ろして、短剣を返した。


「これでしばらくは大丈夫よ。屋敷に戻ってお医者さんをしょうかいしてもらったら、きちんと治療してもらいましょう」

「ずいぶんと手際がいいな」

「見直した?」


 シャルロットは得意げな顔をマルクに近づけた。


ばんのう薬だと言ってなんの治療もしなかったころよりは成長したようだ」


 マルクはする。


「万能薬?」


 なんの話かとキョトンとしたあとに、マルクと出会った日のことを思い出し、シャルロットは赤くなった。

 マルクのきずに、シャルロットは万能薬だと言って口づけた。


「あのときはまだ六歳だったから。というか、何年前の話をしているのよ!」


 恥ずかしすぎて、シャルロットは逆ギレをした。


「なにを照れているんだ」


 マルクは不思議そうだ。


(あれ? 確かに、どうしてこんなに恥ずかしいのかしら)


 マルクには添い寝をしてもらっていたし、いつもあいさつ代わりに抱きついているのに。


(そう、いつも……)


 目の前には湖水で服の張り付いた、なまめかしい姿のマルクがいる。


(わあああっ! わたしったら、なぜそんなことができたの!?)


 シャルロットは両手で顔を覆った。


「どうした、シャルロット」


 マルクに手首を握られて顔を覗き込まれそうになる。シャルロットは慌ててうつむいた。


「言ったでしょ、わたしは今日、おかしいのよ」


 きっと初めてのことくしでキャパシティオーバーになってしまったのだ。恋愛だ恋人だデートだと考えすぎて、どこかの回線が焼き切れてしまったのだ。

 今晩、頭を整理して、明日になれば元通りになるはずだ。

 火照った顔を上げられないでいると、


「シャルロット」


 と良く響く低い声が耳元で囁いた。

 せっかく落ち着いてきた鼓動がまた高まって、シャルロットは意識が遠のきそうになる。


(もう離れて!)


 シャルロットはそう思っているのに、追い打ちをかけるようにマルクが抱きしめてきた。


「ま、ま、マルク……」


 マルクからのここまでの接触はきんきゅう時以外にほとんどなく、シャルロットはどうしていいのかわからなかった。

 マルクはそのまま動かなくなる。


「シャルロット……」


 マルクに声をかけられた。

 なにかを言いかけ、しかしその続きの言葉をのみこんだ気配がした。


「……幸せになれよ」


 しばらくして、優しい声がを打った。

 マルクはゆっくりと身を離し、帰ろうとシャルロットを促す。

 マルクを見上げたが、逆光で表情は見えなかった。

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