1-2




*****



 シャルロットがこよなく愛する側近が、帝国にたった二人だけ存在する。

 一人はじょのアンヌ。

 もう一人は騎士のマルクだ。

 マルク・ジャック・ド・リュゼールは、帝国の名門、リュゼール家の三男として生まれた。武人一家で、皇帝このへいれんたいちょうであった父に連れられて、マルクも六歳から訓練に参加していた。


(そろそろだな……)


 十一歳のマルク少年は、うれいた表情でいきした。

 じょう中のため、馬が歩くたびに身体が上下に揺れる。ダークブラウンのやわらかい短髪が風になびいた。

 リュゼール家といえども、三男となるとがせるしゃくがないため、マルクは養子に出されることになっていた。場所は遠い異国だ。

 おそらく両親はマルクについて、異国で領主となるか、帝国内の領家の婿むこようとなってかたの狭い思いをするかのたくだと考えたのだろう。

 親の愛情だとはわかっているが、両親や祖国との別れはつらい。

 すでに大人に引けをとらないけんを習得していたマルクは将来をしょくぼうされていたため、近衛騎兵連隊の仲間からもしまれていた。

 そんな仲間との訓練を終えて、帰宅するちゅうのことだった。

 その日はめずらしく宮殿の敷地から離れた山林での訓練で「この新緑の景色も見納めか」と物思いにふけりながら、マルクはのんびりと馬を進めていた。

 制帽と首に巻いていたクラヴァットを外してあさふくろに入れて馬にかけ、制服の襟をゆるめてリラックスしている。


「もう、ちょっと……っ」


 ふいに、少女の声が降ってきた。


(気のせいか?)


 声がした方角にはいくつかの常緑樹と、その先に崖が続いているだけだ。

 どおりしようとも思ったが、せっまったようなかすれた声だったのが気になった。

 マルクはづなって木々の間を分け入った。


(やはり、誰もいない)


 すぐに木々が途切れていわはだが広がる。きびすを返したところで、離れた後方からパラパラと小石が落ちる音がした。


(……?)


 小石を辿たどって視線を上げていったマルクは、ギョッとした。

 少女が、崖に張り付いていた。

 高さにすると建物の三階、いやそれ以上だろうか。

 初夏らしい黄色いドレスをなびかせながら、少女はローヒールの両足をり、片手で岩のおうとつを摑んで、もう片方の手は頭上に伸ばしている。その指先には、マルクが見たことのない植物が生えていた。


(おいおい、なにやってんだ)


 周囲には誰もいない。少女は一人で崖に登ったようだ。


「取れた!」


 植物を握った少女が嬉しそうにさけんだ瞬間、足場がくずれた。


「あっ」


 片手だけで体重を支えられるはずがない。少女は崖から落ち始めた。

 マルクはとっさにあぶみで馬の腹を蹴った。馬は主人の意図を察して駆け出すが、とても間に合うきょではない。

 マルクはつめが食い込むほど手綱を握り、ギリッと歯を鳴らす。


(一か八か!)


 マルクは片足をくらにかけて馬の上に立ち、ちょうやくした。

 指先が少女にれ、なんとか小さな身体を引き寄せてきしめた。

 着地まで気を回しているひまはなかった。マルクは少女をかばいながら地面に転がった。野草が多少のクッションになったが、全身に激しい痛みが走る。


「……っ」


 部位ごとに力をめてかくにんすると、幸い骨には異常がないようだった。

 マルクは痛みをこらえて身を起こし、腕の中の少女をかかえ直した。どうやら無傷のようで、ホッとする。

 いまさらながら、一気にあせが噴き出した。もし間に合わなければ、少女は生きていなかったかもしれない。


だいじょうか」


 マルクはひざにのせた少女の肩を揺らした。

 植物をしっかりと抱え込み、ギュッと目を閉じている少女を改めて見て、マルクは息をのんだ。

 磨き上げられたぞうのようなはだに小ぶりで形のいい唇が色づき、長く豊富な睫毛は力んでいるためか細かく揺れている。豪奢な長いブロンドの巻き毛は光のりゅうを散らしながら広がり、甘い香りを漂わせていた。


 ――まるで天使のような少女だった。


 マルクがこうちょくしたのは、その容姿のせいだけではない。

 どう部は精密かつ上品なきんらんで、そこから立ち上がったのりのきいた高いレースの襟、そして宝石がちりばめられたごうなドレス。

 そのしょうから、そくに皇族だとわかったのだ。

 この年代の皇女は、六歳のシャルロットしかいない。


「美しい!」


 少女の声で我に返ると、大きな青い瞳がまっすぐにマルクを見上げていた。


「あなたは天使? ここは天国なの?」


 くしくもマルクと同じ感想を持ったらしいシャルロットの言葉に、マルクは眉を寄せた。

 どこから突っ込んでいいのかわからない。


「違う」


 マルクはたんてきに否定した。


「じゃあわたし、助かったのね! そうそう、このとくちょう的な葉、やっぱり見間違いじゃなかった。これで兄さまとしている美容薬の研究が進むわ。たくさんの人を美しくできるはずよ。ありがとう!」


 シャルロットは握った植物とマルクを見ながら礼を言った。命を救われたことよりも、珍しい植物を得たことを喜んでいるように見えるのは気のせいだろうか。


「はぁ、とてもドキドキした。貴重な体験ね」

(死にかけたというのに、なぜ嬉しそうなんだろう)


 つうの幼い少女なら、泣き出すか震えるかするものだろう。

 がおで胸を押さえているシャルロットが理解できず、マルクは眉間のしわを深めた。シャルロット姫は変わり者だと噂で聞いていたが、これは納得せざるを得ない。


「こんな危険なこと、誰かに頼めばいいだろう」

「わたしの代わりに誰かを危険な目にわせるなんて嫌よ。それに、ほしいものは自分で手に入れたいもの!」


 さも当然だという顔をしているシャルロットを見つめて、マルクは絶句した。

 これが皇族の言葉だろうか。本当にこの少女は皇女なのか。

 人としては好ましい考え方なのかもしれないが、上に立つ者としては感覚があまりにもずれていた。


(危険だとわかっているなら崖に登るな)


 そもそも、そこからおかしいのだ。いや、それ以前に、なぜ皇女が一人で宮殿を抜け出しているのだろうか。


「そんなことより、あなたはあちこちをしているのね」

(無理をしておまえを助けたからな)


 とマルクは思ったが、口にはしない。シャルロットと話していると、だんだん力が抜けていくようだ。

 少女が皇女ならへいふくしなければならないのだろうが、まったくそんな気にはならなかった。


「助けてくれたお礼に、早く治る薬をあげる」


 そう言ったシャルロットは、小さな両手でマルクの頰を包み、きずのある額に、頰に、手のこうに口づけた。

 シャルロットのとっな行動と、あまりにも柔らかいかんしょくおどろいて、マルクは動けなかった。


「口づけはばんのう薬だと本に書いてあったの。初めて使った特別な薬よ」


 シャルロットはマルクの膝の上でじゃに微笑んだ。


(それは絵本の話なのでは)


 そうマルクは思ったが、頭が正常に回らない。万能薬というより、なにかのほうにかけられたようだ。

 シャルロットはマルクの頰に触れたまま、「それにしても」と至近距離からマルクを見つめた。


「見るほどに美しい。かっしょくの瞳はトパーズのよう。通った鼻筋に、形のい唇。はだざわりもとてもいい」


 シャルロットはえんりょにベタベタとマルクの顔をさわりまくり、にっこりと微笑んだ。


「誰か! 近衛騎兵連隊の責任者を連れてきて!」


 シャルロットが大声を出した。近くに訓練場があることは知っている。


「皇女殿下」


 マルクはシャルロットを止めようとしたが、皇女は叫ぶのをやめない。ついでにマルクから下りるつもりもないようだ。しっかりと抱きつきながら叫んでいる。


「これはこれは、皇女殿下。どうされましたかな」


 訓練終わりの近衛騎兵のメンバーが、シャルロットの声に気づいて集まっていた。その一人、近衛騎兵連隊長であるリュゼール将軍がシャルロットに声をかけた。マルクの父親でもある。

 将軍はマルクと同じく、近衛騎兵の青い制服を身にまとっていた。右胸と制帽のクラウン部分には国章、そして将校であることを表す徽章や金色のオークリーフが二本装着されている。


「わたしは、この者がしい!」


 シャルロットはマルクを抱きしめながら、将軍にきっぱりと言い放った。将軍はもちろん、マルクも驚いた。


そくのマルクをお気にしましたか」


 制帽をきつりつした将軍が問うと、シャルロットは首がもげんばかりに強くうなずいて、マルクの首に回している両腕にギュッと力を込めた。


「……父上」


 マルクはじょうきょうについていけずに、助けを求めるように父を見上げた。

 どうしたものかと、将軍はひげをなでてしばし考えるような仕草をする。

 リュゼール将軍はマルクの未来を想像させるようなたんせいな容姿で、軍人らしいおごそかな空気とけいがんを持ち合わせていた。


「マルクは未熟な騎士見習いでございます。皇女殿下には、ほかに相応ふさわしいお相手がおりましょう」

「マルクがいい! マルクじゃないとイヤ! こんなに美しいのだもの、わたしの騎士にならないとおかしいわっ!」


 シャルロットは二度と離さないと言わんばかりに、マルクの胸に顔をうずめた。


(俺はペットやオモチャじゃないんだぞ)


 マルクはこんわくしながらも、悪い気はしなかった。こんなに求められるのは初めてだ。なにしろいずれ遠くに飛ばされる身。考えようによっては、親に「いらない」と言われたようなものなのだ。


「残念ながら、マルクは近々国を出るのです」

「なぜっ!?」


 シャルロットは真っ青になり、この世が終わったかのような悲鳴をあげた。


「マルクは三男ですから……」


 シャルロットはパッと顔を上げて将軍を見た。顔色がももいろに戻っている。


「マルクにきゅうていの官職や領地を約束する。そうしたらマルクをくれる?」


 どうやらシャルロットは、将軍の一言でマルクの状況をあくしたようだ。 幼くても皇女、皇位けいしょうなどについて耳んでいるためだろう。


「どうしたものか……」


 将軍は先ほどよりもしんけんな表情で髭をつまんだ。

 かくしてシャルロットは、マルクを好きなときに好きなだけ呼びつけることができる権利を得た。

 シャルロットは六歳、マルクは十一歳。

 これが二人の初めての出会いだった。

 マルクは当初、シャルロットにうやうやしく接していた。相手は皇女で、養子に行かなくてすむようにしてくれた恩人でもある。

 しかし、マルクの都合もお構いなしで昼夜を問わず毎日何度も呼び出され、マルクはシャルロットに対して、だんだんえんりょのない態度になっていく。

 そうやってマルクがいくら迷惑をこうむっても、シャルロットから逃げ出せないのには訳があった。

 リュゼール将軍はちゃっかり、マルクのための爵位を皇帝に要求していたのだ。

 皇帝としても、ヤンチャな娘にお目付け役ができるのは願ってもないことだった。シャルロットのとうぼうへきに頭をなやませていたからだ。

 父は娘にこうかん条件を出した。


「マルクをおまえだけの騎士にしてやろう。その代わり、一人で勝手な行動をしないこと。どんな授業でも逃げずに受けること。成績を落とさないこと。一つでも破れば、二度とマルクには会わせない」

「むむむ、マルクをわたしの騎士にするためならば、仕方がない……」


 シャルロットはしぶしぶとしょうだくした。

 マルクにせんたくの余地はなく、そのほかの者たちの利害は完全にいっ

 こうして爵位と引きえに、マルクはシャルロットの専属騎士になった。

 シャルロットがマルクを気に入ったきっかけは容姿だったが、文句を言いながらもシャルロットの難題に応える完璧な騎士になり、かけがえのない存在になっていった。

 宮廷で〝シャルロット皇女の二大せい者〞とささやかれている二人目は、侍女のアンヌ・ポワソンだ。

 一時期、シャルロットには決まった侍女がいなかった。

 えも、入浴も、しゅうしん時の読み聞かせも侍女の仕事。世話係の侍女は常に視界に入る。だからシャルロットは納得のいく美しい侍女を求めていたのだが、なかなか見つからなかった。

 そもそもこうぐうの侍女たちは容姿端麗な貴族の息女ばかりなのだが、美にけいとうするシャルロットのしんがんは厳しい。「美しさが足りない」とシャルロットに言われた侍女候補たちは、気を悪くして去っていった。

 結局しわ寄せはマルクにきて、本来侍女がするべき仕事まで押し付けられる始末だった。

 ある日、シャルロットがいつものようにベッドに引きずり込んで朗読をさせたマルクに、「頼むから、侍女に仕事を振ってくれ」と真顔でこんがんされた。

 マルクといるのが嬉しくて、ついひんぱんに呼び出していたのだが、相手はどうも本気で迷惑がっているようだとようやく気づいたシャルロットは、真面目に侍女を探すことにした。

 同じころ。

 十四歳のアンヌ・ポワソンは、初めての夜会に出席していた。

 親に課せられた目的は、金持ちの貴族に気に入られて、結婚すること。

 アンヌは田舎いなかだんしゃく家の娘で、このままではポワソン家の存続があやうかった。

 両親と兄は、アンヌの美貌に望みをたくして皇宮に送り出した。家族の命運はアンヌにかかっていると言っても過言ではない。


(けれど、イヤなものはイヤ)


 貴族の子息たちに囲まれて笑顔で話しながら、アンヌはネガティブな気持ちを扇で隠す。


「一曲、おどっていただけますか?」


 こうしゃくがアンヌに手を差し伸べた。

 この夜会では、トップクラスの金持ちだ。アンヌが「はい喜んで」と答えるはずだった

その言葉は、小さな影にさえぎられた。


「ちょっと待った!」


 声の主は、としもいかない少女だった。おうちになり、アンヌたちに向かって小さな手の平を突き付けている。


「やはり! なんと美しい!」


 少女は両手を組んで、アンヌに向かって興奮したように叫んだ。

 とつぜんのことに、アンヌはぜんとする。


「わたしほどになると、会場に入った瞬間にわかったわ。頭の中の〝美しいもの探知機〞がビンビンなんだもの」

 わいらしい少女はこしに手を当ててほこらしげにしている。

 ざわざわとしている周囲の声で、少女は皇女のシャルロットだとわかった。「変わり者の姫」の噂は、田舎に住んでいるアンヌの耳にも入っていた。


 アンヌはシャルロットによってろうに連れ出されると、ギュッと両手を握られた。


「わたしの侍女になってほしいの!」


 まるでプロポーズをするかのようなねつれつな瞳だった。


「皇女殿下の、侍女」


 アンヌのそうめいな頭脳が計算を開始する。

 さきほどの公爵は皇族の血筋で爵位も財産も申し分なかった。かくする皇女は、まさに皇族。国のトップの家系だ。

 皇族の侍女ともなれば、そのかたがきだけではくがつく。ほうきゅうも相当なものだろうし、これほど熱心ならば、さらに上乗せ要求をしても受け入れられるかもしれない。

 しかも部屋付きの第一侍女になれば、主と同等の権力を持ったも同然だ。相手は子ども。

 たとえ変わり者だとしても、いくらでもなずけられるはずだ。

 皇宮には王侯貴族が集まるので、働きながら納得できる結婚相手を探せばいい。

 そこまでしゅんはじき出したアンヌは、にっこりと微笑んだ。


「光栄ですわ皇女殿下。喜んでお受けいたします」

「やった! ありがとうアンヌ!」


 ――こうしてアンヌは侍女に召し上げられた。


 このとき、シャルロットは十歳、アンヌは十四歳。

 皇女の侍女になることを告げると、家族からはくしゅかっさいを受けた。

 打算から始まった侍女生活は、想像以上にいそがしかった。本来は五人以上で分担するはずの侍女の仕事を、アンヌは一人でこなさなければならなかったからだ。

 しかし、仕事はそれほど苦ではなかった。

 キラキラした瞳で見上げてくるシャルロットは、まるでなついたあいがん動物のように可愛かったのだ。

 アンヌはおもわく通りにあっさりと部屋付きの第一侍女になり、そしていつしか、損得抜きでシャルロットに仕えるようになっていた。



*****



 隣国に行こうと決めた、その日の夜。

 シャルロットはアンヌとともに、自室で旅立ちの準備を進めていた。

 とはいえ、国の警備をくぐり抜けてお忍びで皇宮を抜け出すのは簡単ではない。荷物をまとめ終わると、二人は隣国へ行く作戦を練った。

 いい案が出ずに悩んでいると、コンコンと部屋のドアがノックされた。アンヌがドアを開けると、制服姿のマルクと従卒のピエールが立っていた。


「どうだ、お忍び作戦は順調か」


 アンヌに促されて入室したマルクは、テーブルを挟んだシャルロットの向かいのソファに座った。シャルロットは唇を内側に丸めるようにすぼめる。


「いま考えているところよ。なかなか難しくて」

「そうだろうな」


 マルクは長い足を組んで、シャルロットに視線を向ける。


「手伝ってやろうか」

「いいの? マルクは反対なのでしょ?」

「不本意だが、おまえの護衛騎士として、仕事はしないといけないしな」


 マルクのたいぜんとした態度に、後ろに立つピエールはニヤニヤと笑う。


「マルク様はなおじゃないですね。食事やえすらしないで、さっきまで姫様のためにずっと走り回って……イタタタタッ、痛いですよマルク様ぁ」


 振り向いたマルクがピエールの頰を引っ張っていた。


「協力してくれるのね、やった! ありがとうマルク!」


 シャルロットはねるようにソファから立ち上がると、マルクのとなりに移動した。


「善は急げよ! 明日出発したい!」


 シャルロットは瞳を輝かせてマルクの顔をのぞき込んだ。

 マルクは「そう言うと思った」と口角を上げる。


「その代わり、俺の言うことは絶対に守れよ。勝手なことはしないように」

「わかったわ。さすが、わたしのマルク!」


 シャルロットはマルクに抱きつき、むなもと辺りの白いクラヴァットに小さな顔をうずめた。

 シャルロットはちょうこくえいゆうのように、無駄なく引きまったマルクの身体に触れるのが大好きだ。


「これは旅の荷物ですか? ボクが預かっておきますね」

「わたくしも手伝いますわ」


 ピエールが荷を持って部屋を出ようとするのに、アンヌも付き添っていく。

 部屋にはシャルロットとマルクだけになった。


「マルクがわたしの部屋に来るのは久しぶりね」

しょうせいが寄せられていた国に両陛下がご訪問され、先日までそれに同行していたからな」

「それだけじゃないでしょ」


 シャルロットは不満そうに頰をふくらませてマルクを見上げた。


「辺境の警備だとか、諸外国に親書を運んだりとか、皇宮を出てばかり。マルクはわたしの騎士なのに」

「仕事なのだから仕方がないだろう」

「この一年で急にじゃない。それまでは毎日のようにいっしょにいたのに。その前には一年間も国を空けたのだから、えんせいは控えるべきだわ」

さびしかったのか」

「あたりまえよ!」

「……そうか」


 しょうするマルクの表情を見て、シャルロットは「あれ?」と思う。


(いつもと、マルクのふんが違う気がする)

「なんだ?」


 シャルロットが至近距離からぎょうしてくるので、マルクは軽くのけぞって距離をとった。


「わかった! ここにしわがないのね!」


 シャルロットはズビシッとマルクの眉間に人差し指をつきつけた。デフォルトのように、

常に深く刻まれている眉間のしわがない。


(そういえば、マルクが眉を寄せるようになったのって、いつからだったかしら)


 以前はそんなことはなかったはずだ。げんそうなマルクも美しいので、シャルロットはあまり気にしていなかった。


「いつまでやっているんだ」


 マルクはシャルロットの指を外した。


「明日からの旅は、俺も楽しもうと思っているだけだ」


 そのマルクの言葉には決意のへんりんふくまれていたが、シャルロットは気づかない。


「きっと素敵な旅になるわ!」


 シャルロットはこんきょのない自信にあふれ、満面の笑みを浮かべる。


「そうだな」


 マルクはクスリと笑ってシャルロットの頭に手をのせると、皇女の笑顔がほろりととろけた。



 翌朝。

 シャルロットはアンヌと足場の悪い岩場のトンネルを歩いていた。一定かんかくかべともったしょくだいが設置されているものの、うすぐらい。

 ここは、皇宮から外部に続く隠し通路だ。一部の王侯貴族しか知らない。シャルロットはその存在を把握していたが、使用するのは初めてだった。朝日を合図に自室を出て、この隠し通路を使って外に出てくるようにマルクに指示されていた。


「まさかこんなところにあったなんて知らなかったわ! ごくの隠し通路ってステキな響きね!」

「……足元にお気を付けくださいませ、シャルロット様」

「大丈夫よ。今日の服は軽くて動きやすいしね」


 シャルロットは旅が楽しみすぎていっすいもできなかったが、軽い足取りで進んでいく。一方、主に付き合ってすいみんをとらなかったアンヌは、体力をけずられて既に息が切れていた。

 二人は質素な町娘の格好をしてがいとうを羽織っていた。常にていねいい上げられているシャルロットの長いかみは、首の後ろで無造作に束ねられている。

 ヴァローズ帝国からシュルーズメア王国までは、どんなに急いでもいっぱくする必要がある。

普段の二人の格好では目立ちすぎるため、昨夜のうちにマルクがピエールに運ばせた服だった。

 しばらく歩くと前方に明かりが見えてきた。大きな岩がたがい違いに設置され、グネグネと歩かされたあとに、視界が開けた。


「裏庭につながっていたのね」


 狭い通路から解放されて、シャルロットは伸びをした。

 前方にはしばらく平地が広がっていて、その奥に緑のしげった低山がある。皇族専用のしゅりょう場だ。軍人たちが使っている訓練場もこの近くに点在している。

 近くにある川のせせらぎや鳥のさえずり、初秋の虫の音も聞こえてきた。すっかり周囲は明るくなっている。空気のんださわやかな朝だ。

 そして。


「あっ、マルクだわ!」


 遠くに馬車と、その前に立つマルクとピエールを見つけて、シャルロットは駆け出した。


「シャルロット様、走ると危険ですわ」


 アンヌも慌てて追いかけた。あさつゆれた草がくつ湿しめらせる。


「マルク!」


 シャルロットは勢いをつけたまま、まるで体当たりのようにマルクに飛びついた。慣れたもので、マルクはすずしい顔でしょうげきを受けとめる。


「マルク、おはよう!」

「おはよう」


 マルクはそうしょくのまったくないグレーのシンプルなダブレットを身に着けている。シャルロットたちと同じように目立たない服装だ。ピエールはいつもと変わらず、ライトブラウンのヴェストにキュロット姿。二人とも細身のけんけいたいしている。


 身軽な服装のせいか、マルクの表情は普段よりも明るいように見えた。


「誰にも見られずに、部屋を抜け出せたか?」

「もちろんよ! なんだかスパイみたいで楽しかったわ。ね、アンヌ」

「え、ええ」


 やっと追いついたアンヌは、息も絶え絶えに答えた。かんてつの上に全力しっそうさせられるとは。さすがのアンヌもシャルロットのテンションに振り回され気味だ。


「マルクのおかげよ」


 シャルロットの白い肌はこうようで桃色に染まっていた。新しいオモチャをあたえられた子どものようだ。


「よかったな」


 マルクがシャルロットの形のいい頭に手をのせると、シャルロットは嬉しそうに笑って、マルクの胸に頰をこすりつける。


「シャルロット様」


 アンヌが控えめにシャルロットの手を引いた。


「旅先では、そんな子どものようなこうはいけませんわ」


 珍しくアンヌが釘をさす。


「えっ、わたしは心身ともにピカピカに磨き上げた立派なレディよ!」

「そうですわね、これから大人の恋をするレディですわ。相応のいをお忘れなく」


 アンヌの言わんとしていることが、シャルロットにも伝わった。


(そうよね、素敵な恋をするために、気を引き締めなければ!)


 シャルロットはこくりとうなずいた。


「さぁ、見つからないうちに敷地を出ちゃいましょう! 乗ってください」


 ピエールが馬車の折りたたみ式の階段を降ろし、とびらを開ける。彼はリュゼール家のきゅうしゃ係なので、馬のあつかいはもちろん、ぎょしゃとしてのうでまえも確かだった。

 馬車は四人乗りで四輪のキャリッジだ。手入れの行き届いた黒くしいあお鹿の馬が二頭繫がっている。

 マルクとピエールがサポートして女性二人を馬車に乗せると、マルクも乗り込み、ピエールは階段を戻して御者台に座った。


「では、出発しますよ!」


 声とともにピエールがむちで合図をすると、馬が走り出した。シャルロットは窓を開けて、流れ込んでくる風を浴びる。

 いよいよ、シャルロットの恋探しの旅が始まった。



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