1-2
*****
シャルロットがこよなく愛する側近が、帝国にたった二人だけ存在する。
一人は
もう一人は騎士のマルクだ。
マルク・ジャック・ド・リュゼールは、帝国の名門、リュゼール家の三男として生まれた。武人一家で、皇帝
(そろそろだな……)
十一歳のマルク少年は、
リュゼール家といえども、三男となると
おそらく両親はマルクについて、異国で領主となるか、帝国内の領家の
親の愛情だとはわかっているが、両親や祖国との別れはつらい。
そんな仲間との訓練を終えて、帰宅する
その日は
制帽と首に巻いていたクラヴァットを外して
「もう、ちょっと……っ」
ふいに、少女の声が降ってきた。
(気のせいか?)
声がした方角にはいくつかの常緑樹と、その先に崖が続いているだけだ。
マルクは
(やはり、誰もいない)
すぐに木々が途切れて
(……?)
小石を
少女が、崖に張り付いていた。
高さにすると建物の三階、いやそれ以上だろうか。
初夏らしい黄色いドレスをなびかせながら、少女はローヒールの両足を
(おいおい、なにやってんだ)
周囲には誰もいない。少女は一人で崖に登ったようだ。
「取れた!」
植物を握った少女が嬉しそうに
「あっ」
片手だけで体重を支えられるはずがない。少女は崖から落ち始めた。
マルクはとっさに
マルクは
(一か八か!)
マルクは片足を
指先が少女に
着地まで気を回している
「……っ」
部位ごとに力を
マルクは痛みをこらえて身を起こし、腕の中の少女を
「
マルクは
植物をしっかりと抱え込み、ギュッと目を閉じている少女を改めて見て、マルクは息をのんだ。
磨き上げられた
――まるで天使のような少女だった。
マルクが
その
この年代の皇女は、六歳のシャルロットしかいない。
「美しい!」
少女の声で我に返ると、大きな青い瞳がまっすぐにマルクを見上げていた。
「あなたは天使? ここは天国なの?」
くしくもマルクと同じ感想を持ったらしいシャルロットの言葉に、マルクは眉を寄せた。
どこから突っ込んでいいのかわからない。
「違う」
マルクは
「じゃあわたし、助かったのね! そうそう、この
シャルロットは握った植物とマルクを見ながら礼を言った。命を救われたことよりも、珍しい植物を得たことを喜んでいるように見えるのは気のせいだろうか。
「はぁ、とてもドキドキした。貴重な体験ね」
(死にかけたというのに、なぜ嬉しそうなんだろう)
「こんな危険なこと、誰かに頼めばいいだろう」
「わたしの代わりに誰かを危険な目に
さも当然だという顔をしているシャルロットを見つめて、マルクは絶句した。
これが皇族の言葉だろうか。本当にこの少女は皇女なのか。
人としては好ましい考え方なのかもしれないが、上に立つ者としては感覚があまりにもずれていた。
(危険だとわかっているなら崖に登るな)
そもそも、そこからおかしいのだ。いや、それ以前に、なぜ皇女が一人で宮殿を抜け出しているのだろうか。
「そんなことより、あなたはあちこち
(無理をしておまえを助けたからな)
とマルクは思ったが、口にはしない。シャルロットと話していると、だんだん力が抜けていくようだ。
少女が皇女なら
「助けてくれたお礼に、早く治る薬をあげる」
そう言ったシャルロットは、小さな両手でマルクの頰を包み、
シャルロットの
「口づけは
シャルロットはマルクの膝の上で
(それは絵本の話なのでは)
そうマルクは思ったが、頭が正常に回らない。万能薬というより、なにかの
シャルロットはマルクの頰に触れたまま、「それにしても」と至近距離からマルクを見つめた。
「見るほどに美しい。
シャルロットは
「誰か! 近衛騎兵連隊の責任者を連れてきて!」
シャルロットが大声を出した。近くに訓練場があることは知っている。
「皇女殿下」
マルクはシャルロットを止めようとしたが、皇女は叫ぶのをやめない。ついでにマルクから下りるつもりもないようだ。しっかりと抱きつきながら叫んでいる。
「これはこれは、皇女殿下。どうされましたかな」
訓練終わりの近衛騎兵のメンバーが、シャルロットの声に気づいて集まっていた。その一人、近衛騎兵連隊長であるリュゼール将軍がシャルロットに声をかけた。マルクの父親でもある。
将軍はマルクと同じく、近衛騎兵の青い制服を身にまとっていた。右胸と制帽のクラウン部分には国章、そして将校であることを表す徽章や金色のオークリーフが二本装着されている。
「わたしは、この者が
シャルロットはマルクを抱きしめながら、将軍にきっぱりと言い放った。将軍はもちろん、マルクも驚いた。
「
制帽を
「……父上」
マルクは
どうしたものかと、将軍は
リュゼール将軍はマルクの未来を想像させるような
「マルクは未熟な騎士見習いでございます。皇女殿下には、ほかに
「マルクがいい! マルクじゃないとイヤ! こんなに美しいのだもの、わたしの騎士にならないとおかしいわっ!」
シャルロットは二度と離さないと言わんばかりに、マルクの胸に顔をうずめた。
(俺はペットやオモチャじゃないんだぞ)
マルクは
「残念ながら、マルクは近々国を出るのです」
「なぜっ!?」
シャルロットは真っ青になり、この世が終わったかのような悲鳴をあげた。
「マルクは三男ですから……」
シャルロットはパッと顔を上げて将軍を見た。顔色が
「マルクに
どうやらシャルロットは、将軍の一言でマルクの状況を
「どうしたものか……」
将軍は先ほどよりも
かくしてシャルロットは、マルクを好きなときに好きなだけ呼びつけることができる権利を得た。
シャルロットは六歳、マルクは十一歳。
これが二人の初めての出会いだった。
マルクは当初、シャルロットに
しかし、マルクの都合もお構いなしで昼夜を問わず毎日何度も呼び出され、マルクはシャルロットに対して、だんだん
そうやってマルクがいくら迷惑をこうむっても、シャルロットから逃げ出せないのには訳があった。
リュゼール将軍はちゃっかり、マルクのための爵位を皇帝に要求していたのだ。
皇帝としても、ヤンチャな娘にお目付け役ができるのは願ってもないことだった。シャルロットの
父は娘に
「マルクをおまえだけの騎士にしてやろう。その代わり、一人で勝手な行動をしないこと。どんな授業でも逃げずに受けること。成績を落とさないこと。一つでも破れば、二度とマルクには会わせない」
「むむむ、マルクをわたしの騎士にするためならば、仕方がない……」
シャルロットはしぶしぶと
マルクに
こうして爵位と引き
シャルロットがマルクを気に入ったきっかけは容姿だったが、文句を言いながらもシャルロットの難題に応える完璧な騎士になり、かけがえのない存在になっていった。
宮廷で〝シャルロット皇女の二大
一時期、シャルロットには決まった侍女がいなかった。
そもそも
結局しわ寄せはマルクにきて、本来侍女がするべき仕事まで押し付けられる始末だった。
ある日、シャルロットがいつものようにベッドに引きずり込んで朗読をさせたマルクに、「頼むから、侍女に仕事を振ってくれ」と真顔で
マルクといるのが嬉しくて、つい
同じころ。
十四歳のアンヌ・ポワソンは、初めての夜会に出席していた。
親に課せられた目的は、金持ちの貴族に気に入られて、結婚すること。
アンヌは
両親と兄は、アンヌの美貌に望みを
(けれど、イヤなものはイヤ)
貴族の子息たちに囲まれて笑顔で話しながら、アンヌはネガティブな気持ちを扇で隠す。
「一曲、
この夜会では、トップクラスの金持ちだ。アンヌが「はい喜んで」と答えるはずだった
その言葉は、小さな影に
「ちょっと待った!」
声の主は、
「やはり! なんと美しい!」
少女は両手を組んで、アンヌに向かって興奮したように叫んだ。
「わたしほどになると、会場に入った瞬間にわかったわ。頭の中の〝美しいもの探知機〞がビンビンなんだもの」
ざわざわとしている周囲の声で、少女は皇女のシャルロットだとわかった。「変わり者の姫」の噂は、田舎に住んでいるアンヌの耳にも入っていた。
アンヌはシャルロットによって
「わたしの侍女になってほしいの!」
まるでプロポーズをするかのような
「皇女殿下の、侍女」
アンヌの
さきほどの公爵は皇族の血筋で爵位も財産も申し分なかった。
皇族の侍女ともなれば、その
しかも部屋付きの第一侍女になれば、主と同等の権力を持ったも同然だ。相手は子ども。
たとえ変わり者だとしても、いくらでも
皇宮には王侯貴族が集まるので、働きながら納得できる結婚相手を探せばいい。
そこまで
「光栄ですわ皇女殿下。喜んでお受けいたします」
「やった! ありがとうアンヌ!」
――こうしてアンヌは侍女に召し上げられた。
このとき、シャルロットは十歳、アンヌは十四歳。
皇女の侍女になることを告げると、家族から
打算から始まった侍女生活は、想像以上に
しかし、仕事はそれほど苦ではなかった。
キラキラした瞳で見上げてくるシャルロットは、まるでなついた
アンヌは
*****
隣国に行こうと決めた、その日の夜。
シャルロットはアンヌとともに、自室で旅立ちの準備を進めていた。
とはいえ、国の警備を
いい案が出ずに悩んでいると、コンコンと部屋のドアがノックされた。アンヌがドアを開けると、制服姿のマルクと従卒のピエールが立っていた。
「どうだ、お忍び作戦は順調か」
アンヌに促されて入室したマルクは、テーブルを挟んだシャルロットの向かいのソファに座った。シャルロットは唇を内側に丸めるようにすぼめる。
「いま考えているところよ。なかなか難しくて」
「そうだろうな」
マルクは長い足を組んで、シャルロットに視線を向ける。
「手伝ってやろうか」
「いいの? マルクは反対なのでしょ?」
「不本意だが、おまえの護衛騎士として、仕事はしないといけないしな」
マルクの
「マルク様は
振り向いたマルクがピエールの頰を引っ張っていた。
「協力してくれるのね、やった! ありがとうマルク!」
シャルロットは
「善は急げよ! 明日出発したい!」
シャルロットは瞳を輝かせてマルクの顔を
マルクは「そう言うと思った」と口角を上げる。
「その代わり、俺の言うことは絶対に守れよ。勝手なことはしないように」
「わかったわ。さすが、わたしのマルク!」
シャルロットはマルクに抱きつき、
シャルロットは
「これは旅の荷物ですか? ボクが預かっておきますね」
「わたくしも手伝いますわ」
ピエールが荷を持って部屋を出ようとするのに、アンヌも付き添っていく。
部屋にはシャルロットとマルクだけになった。
「マルクがわたしの部屋に来るのは久しぶりね」
「
「それだけじゃないでしょ」
シャルロットは不満そうに頰をふくらませてマルクを見上げた。
「辺境の警備だとか、諸外国に親書を運んだりとか、皇宮を出てばかり。マルクはわたしの騎士なのに」
「仕事なのだから仕方がないだろう」
「この一年で急にじゃない。それまでは毎日のように
「
「あたりまえよ!」
「……そうか」
(いつもと、マルクの
「なんだ?」
シャルロットが至近距離から
「わかった! ここにしわがないのね!」
シャルロットはズビシッとマルクの眉間に人差し指をつきつけた。デフォルトのように、
常に深く刻まれている眉間のしわがない。
(そういえば、マルクが眉を寄せるようになったのって、いつからだったかしら)
以前はそんなことはなかったはずだ。
「いつまでやっているんだ」
マルクはシャルロットの指を外した。
「明日からの旅は、俺も楽しもうと思っているだけだ」
そのマルクの言葉には決意の
「きっと素敵な旅になるわ!」
シャルロットは
「そうだな」
マルクはクスリと笑ってシャルロットの頭に手をのせると、皇女の笑顔がほろりととろけた。
翌朝。
シャルロットはアンヌと足場の悪い岩場のトンネルを歩いていた。一定
ここは、皇宮から外部に続く隠し通路だ。一部の王侯貴族しか知らない。シャルロットはその存在を把握していたが、使用するのは初めてだった。朝日を合図に自室を出て、この隠し通路を使って外に出てくるようにマルクに指示されていた。
「まさかこんなところにあったなんて知らなかったわ!
「……足元にお気を付けくださいませ、シャルロット様」
「大丈夫よ。今日の服は軽くて動きやすいしね」
シャルロットは旅が楽しみすぎて
二人は質素な町娘の格好をして
ヴァローズ帝国からシュルーズメア王国までは、どんなに急いでも
普段の二人の格好では目立ちすぎるため、昨夜のうちにマルクがピエールに運ばせた服だった。
しばらく歩くと前方に明かりが見えてきた。大きな岩が
「裏庭に
狭い通路から解放されて、シャルロットは伸びをした。
前方にはしばらく平地が広がっていて、その奥に緑の
近くにある川のせせらぎや鳥のさえずり、初秋の虫の音も聞こえてきた。すっかり周囲は明るくなっている。空気の
そして。
「あっ、マルクだわ!」
遠くに馬車と、その前に立つマルクとピエールを見つけて、シャルロットは駆け出した。
「シャルロット様、走ると危険ですわ」
アンヌも慌てて追いかけた。
「マルク!」
シャルロットは勢いをつけたまま、まるで体当たりのようにマルクに飛びついた。慣れたもので、マルクは
「マルク、おはよう!」
「おはよう」
マルクは
身軽な服装のせいか、マルクの表情は普段よりも明るいように見えた。
「誰にも見られずに、部屋を抜け出せたか?」
「もちろんよ! なんだかスパイみたいで楽しかったわ。ね、アンヌ」
「え、ええ」
やっと追いついたアンヌは、息も絶え絶えに答えた。
「マルクのおかげよ」
シャルロットの白い肌は
「よかったな」
マルクがシャルロットの形のいい頭に手をのせると、シャルロットは嬉しそうに笑って、マルクの胸に頰を
「シャルロット様」
アンヌが控えめにシャルロットの手を引いた。
「旅先では、そんな子どものような
珍しくアンヌが釘をさす。
「えっ、わたしは心身ともにピカピカに磨き上げた立派なレディよ!」
「そうですわね、これから大人の恋をするレディですわ。相応の
アンヌの言わんとしていることが、シャルロットにも伝わった。
(そうよね、素敵な恋をするために、気を引き締めなければ!)
シャルロットはこくりとうなずいた。
「さぁ、見つからないうちに敷地を出ちゃいましょう! 乗ってください」
ピエールが馬車の折りたたみ式の階段を降ろし、
馬車は四人乗りで四輪のキャリッジだ。手入れの行き届いた黒く
マルクとピエールがサポートして女性二人を馬車に乗せると、マルクも乗り込み、ピエールは階段を戻して御者台に座った。
「では、出発しますよ!」
声とともにピエールが
いよいよ、シャルロットの恋探しの旅が始まった。
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