4.間違いだらけさがし②


 昼食を終えた後は四人で広間で話をしていたけれど、いつしかマリアベルはソファに座ったまま、ねむってしまった。


「はしゃいでつかれたんだろう。昨晩も君に会えるのが楽しみで、なかなかけなかったと言っていた」

「そうなんですね。本当に可愛いです」


 あれから三口ほどスープを食べてくれたマリアベルは、本当に頑張ってくれた。可愛らしいがおに、口元がゆるむ。

 ゼイン様とボリス様も完食し、美味しかったとお礼を言ってもらえた私は、幸せな気持ちでいっぱいだった。ゼイン様と話をすることにも、少しずつ慣れてきた気がする。

 本日の主役であるマリアベルが眠ってしまったことだし、あまり長居するのも、と思った私は帰ることにした。


「では、私はそろそろ失礼しますね」

「ああ。門まで送る」

「またね、グレース嬢。ゼインをよろしく」

「ええ、また」


 ひらひらと手を振るボリス様に見送られ、ゼイン様と共に迎えが来ているであろう正門へと歩いていく。

 隣を歩くゼイン様は先日のデートの時よりも、私のはばに合わせてくれている気がした。


「実は君のことを少し誤解していたんだ。──だが、実際は違った。君にはこうして救われてばかりだというのに、よくないうわさみにしていた自分を恥じたよ」


 私はすぐに首を左右に振り、否定する。


「過去の私は誤解されて当然のことをしてきましたから。それでもゼイン様をずっと遠くから見ていたこと、ゼイン様に幸せになってほしいという気持ちにうそいつわりはありません」


 グレースが好き放題やってきたことは事実だし、悪く思うのは当然だ。それでも、関わっているうちに少しでも私を良く思ってくれたのなら、それはとても嬉しいことだった。

 ゼイン様はほんのいっしゅんだけ目を見開き、やがて「ありがとう」と呟くと目を伏せた。


「……マリアベルのことも俺に何かを言う権利などない気がして、ずっと何もできずにいたんだ。料理を食べてくれたのを見た時、久しぶりに呼吸をしたような気さえした」


 彼らしくないかすれた弱々しい声に、胸が締め付けられる。やはりずっと、罪悪感にさいなまれていたのだろう。ゼイン様が悪いわけではないというのに。

 力になりたいと思った私は無意識のうちにゼイン様の手を取り、きつく握っていた。


「絶対に、絶対に大丈夫です。マリアベルもまた一緒に料理をして、食事したいと言ってくれましたし」

「ああ。ありがとう」

「私で良ければ、またおじゃさせてください」


 困ったように微笑むと、ゼイン様は再びお礼を言ってくれる。

 そのまま歩き続けていた私は、つい握ってしまった手に気が付き、顔が熱くなる。そっと離そうと思ったけれど、何故かしっかりと握り返されていて、それはかなわない。

 エスコートされている時とは全く違い、男性と手を繫いで歩くなんて生まれて初めてで、心臓がはやがねを打っていく。

 あっという間に門へと辿たどき、手を離された私は鞄から小さな包みを取り出した。


「あ、あの、ゼイン様。良かったら」

「これは?」

「作ってきたお菓子です。マリアベルが気をつかってしまうかなと思って、ずっと渡せずにいたんですが……シルケ草が入っているので、食べると元気が出ると思います」


 ゼイン様は少しだけ驚いていたものの、やがてお礼の言葉と共に受け取ってくれる。

 そして少し何かを考え込むような様子を見せた後、ゼイン様は再び口を開いた。


「改めて礼をしたいんだが、何が良いだろうか」

「いえ、私はこうして恋人になっていただいただけで十分ですから、お気になさらないでください」

「それだけでは明らかに釣り合わないだろう」

「そんなことありません」


 気持ちは嬉しいものの、恩を売りたくてしたわけではない。だからこそ、すぐに強く否定したのだけれど。


「……分かった。では君の恋人として、俺にできる限りのことをさせてほしい」

「えっ? あ、ありがとうございます」


 ゼイン様は真面目な表情のまま、そう言ってのけた。

 恋人としてできる限りのこと、の内容はよく分からなかったけれど、やはりがたい人なのだろう。

 とは言え、あまり気負わないでほしいと思いながら、改めてお礼を言って馬車に乗り込もうとした時だった。


「グレース」


 背中しに名前を呼ばれ振り返ると、やわらかく細められたはちみつ色の瞳と視線がからむ。

 初めて見る表情に思わずどきりとしてしまった私は、数秒の後、ふとかんに気が付く。


「またな。すぐにれんらくする」


 もしかすると、こういうのも全て「恋人としてできる限りのこと」なのだろうか。

 そんなことを考えながら、私は落ち着かない気持ちのまま帰路についた。



*****



 公爵邸をおとずれた数日後、私はゼイン様から早速届いた手紙を読み返しながら、なんとかどう修正できたことを実感していた。

 次は私の行きたい場所に一緒にけよう、またいつでも公爵邸に来てほしいといったことが綴られている。

 これから一週間半ほど仕事のため、領地で過ごすといった予定もていねいに書かれていた。


「こ、恋人っぽい……」


 きっと真面目で責任感の強いゼイン様は、マリアベルを救った私へのお礼として、恋人らしく振る舞おうとしてくれているのだろう。

 とは言え、こちらとしては彼に好きになってもらいたいというのに、義務感から恋人を演じていただくじょうきょうというのは、果たして正しいのだろうか。


「公爵様もやはり、お嬢様の素敵さに気付かれたんでしょうね」

「ううん、ヤナの天才的なアドバイスのおかげだわ。いつも本当にありがとう!」


 まだ時間はあるし、一緒に過ごす機会が増えるのだとポジティブにとらえることにした。

 ひとまず「とても嬉しい」「帰ってきたらすぐに会いたい」という返事を書き、ヤナに送るようお願いする。


「あ、お嬢様。土地、買ってきましたよ」

「エヴァン、ありがとう! 絶対にお礼はするから」


 そんな中、私の部屋を訪れたエヴァンは、ちょっとしたお使いのノリでそう言うと、ひらひらと証明書を見せてくれた。

 そう、以前話した通りにエヴァンの名義で、今後地価がじょうしょうする予定の土地を買ってもらったのだ。


「……よしよし、数ヶ月以内には跳ね上がるはず」


 ゼイン様との交流も深めつつ、自分の将来に向けた準備もしていかなければ。

 やはり悪女として定評のあるグレースとして、この国の社交界で生きていくのは大変そうだし、のんびりお店を経営しながら平和に暮らしたい。

 まずは土地の値段が上がるまでの間に、店を開く場所も探し、決める必要がある。今のところは、先日そうりで訪れたミリエルが第一候補だ。

 王都から少し離れた、こうしゃく領からも近い場所で土地も安く、色々と都合が良い。


「この後、お店を開く場所の土地もエヴァンの名義でお願いしたいんだけれど……色々ごめんなさいね」

「気にしないでください。今回もついでに自分の分も買ってみましたし、お嬢様には感謝しているので。でも、どうしてご自分のお名前でこうにゅうされないんですか?」

グレースのお店ってバレたくないの。悪女が子どもに無料で食事を振る舞うなんて、みんな何か裏があるんじゃないかとけいかいするに決まってるわ」

「確かに。子どもを集めて売り飛ばしそうですよね」


 かなり納得してくれたらしいえんりょのないエヴァンは、今後も協力してくれると言ってくれてほっとする。彼にはそのうち、一度きちんとお礼をしたい。


「……それにしても、やることも多いし難しいわ。誰かサポートしてくれる人がいたらいいのだけれど」


 子どもとは別に、普通に食堂としてお客さんを入れたいと思っている。だからこそ勉強を始めているものの、経営についてはド素人しろうとなのだ。


「それなら、侯爵様に相談してみてはいかがでしょう? お嬢様のお願いでしたら、何でも聞いてくれそうですし」

「確かにそれが一番良いかもしれないわね」


 こんなお店をやりたい、周りにはないしょにしたいと話せば、あのお父様なら全力でアシストしてくれそうだ。夕食の時にでも早速、相談してみようと思う。


「お嬢様、招待状がたくさん届いていますよ」


 そんな中、手紙を出してきてくれたヤナが、どっさりと招待状をかかえて戻ってきた。

 中身を見ていくと、夜会やガーデンパーティー、とう会など様々だ。

 春の現在は社交シーズンが始まったばかりらしく、これからどんどんこういった招待状が届くようになるんだとか。

 ド派手で目立ちたがり屋のグレースは社交の場に出るのが好きで、自ら集まりを開くことも少なくなかったという。

 気は重いもののグレースになりきる以上、たまには顔を出して悪女ムーブしておく必要があるだろう。そう思った私は、ひとまず何か参加しようと決める。

 そう話せば、エヴァンがひとつの封筒を指差した。


「それなら、ガードナー侯爵家しゅさいの夜会なんて良いんじゃないですか? プリシラ様もとても良い方なので」

「私と仲が良かったの?」

「いえ、大変おっとりした方なので、お嬢様の暴言もポジティブにかいしゃくされていて『グレースとは仲良しさんなの!』とおっしゃっていました」

「な、なるほど……」


 それなら少しは気が楽だと思いながら、招待状に目を通していく。二週間後のようで、準備もゆうそうだ。


「それにしても、エヴァンって色々詳しいわよね」

「まあ、俺も元々貴族ですから。お嬢様と社交の場に出ることもありましたし」

「えっ?」


 彼が元貴族だということについて尋ねてみたものの「ナイショです」と口元に人差し指をあて、されてしまった。顔が良いせいで絵になりすぎている。

 誰にでも話したくないことはあるだろうと、それ以上は触れないでおく。


「あ、でもランハート様には気を付けてくださいね。ぜんせいのお嬢様くらい、異性関係がほんぽうな方なので」

「ランハート様?」

「プリシラ様のお兄様で、次期ガードナー侯爵です」

「そう。ランハート……ランハート……?」


 なんだか、聞いたことがある名前な気がしてならない。

 一体どこでだろう、としばらく考えたものの結局思い出せず、ひとまず参加するという返事を送っておいた。



*****



「気安く話しかけないで、ざわりだわ」

「も、申し訳ありません……!」


 パチンと音を立ててせんを閉じ、冷ややかな視線を向けてそう告げれば、声をけてきた男性はあわてたようにその場を去っていく。


「……はあ」


 ガードナー侯爵家主催の夜会へとやって来た私は、ずっと唇を引き結び、真顔でいることに早速疲れていた。

 ちなみに今日は深いむらさきのドレスを着てしょうほどこし、悪女スタイルでのぞんでいる。

 過去にグレースと親しくしていたらしい男性から話しかけられたり、グレースの取り巻きらしい令嬢達にこびを売られたりと常にいそがしい。

 初めての社交の場はやはり落ち着かず、一人だということもあって常に不安も付き纏う。とりあえず、少しはしで休もうかと思っていたのだけれど。


「グレース様、来てくださったんですね!」


 そんな中、声をかけて来たのは、美しいきんぱつまぶしい同い年くらいの令嬢だった。そのとくちょうや様子から、彼女がプリシラ様なのだと気付く。

 可愛らしいおっとりとした雰囲気を纏った彼女は、嬉しそうに私の手を取り、ふわりと微笑んだ。


「お兄様もグレース様がいらっしゃると知って、楽しみにされていたんですよ」

「……そうなんですか?」

「ええ。今はあちらにいらっしゃるわ。良かったら、お話ししてあげてくださいね」


 プリシラ様の視線を辿った先にいた男性を見た私の口からは、「あ」という声が漏れる。

 彼女と同じ金髪とアメジストのような瞳には、見覚えがあったからだ。先日のゼイン様との劇場デートの際、文句を言ってきた女性から助けてくれた男性で間違いない。

 エヴァンの『全盛期のお嬢様くらい、異性関係が奔放な方なので』という言葉にも、なんとなく納得してしまう。


「それでは私はまだあいさつまわりがあるので、またあとでゆっくりお話ししましょうね」

「ええ」


 プリシラ様と別れた後も、じっとその場でランハート様の様子を観察する。

 ちょうぜつイケメンである彼の周りにはたくさんの美しい女性がいて、かなり人気なことがうかがえた。その上、女性達へのボディタッチもすごく多い。やはりけいはくそうだ。


「……あ、そうだわ」


 ランハート様の整いすぎた顔を見つめ続けていた私は、ふと名案を思いついてしまう。

 私には一年後、ゼイン様をこっぴどく振る際、うわをするというこくな任務が待っているのだ。そのことを考えるたび、どうしようと頭を抱えていたのだけれど。

 先日助けてくれた優しい彼なら、たのみ込めば浮気相手のフリをしてくれるかもしれない。グレースの相手としてもぴったりな気がするし、色々と説得力がある。

 理由は分からないものの、私が来ることを楽しみにしていたとプリシラ様も言っていたし、ひとまず友人程度になっておくのは良いかもしれない。

 そう思い、ランハート様へと向かって足をした時だった。


「──グレース」


 聞き覚えのある声に、どきりと心臓が跳ねる。すぐに振り返れば、そこにはちがえるはずもないゼイン様の姿があり、私は息をんだ。

 どうしてここにと思ったものの、もう王都へ戻ってきている時期だったことを思い出す。

 何より侯爵家主催の大規模な夜会に、公爵である彼が参加していてもおかしくはない。

 ちなみにゼイン様が領地にいる間も手紙のやりとりはしていて、来週には二回目のデートをする予定だった。


「……今、君は──」

「ゼイン様、お会いできて嬉しいです!」


 一人での慣れない場所は不安だったため、知人の顔を見ると思わずほっとしてしまう。

 悪女感を出すためにずっとツンとした顔をし続け、くちの端がりそうだった私は安堵の気持ちもあり、ここぞとばかりに笑みを浮かべる。

 するとゼイン様は、きょをつかれたような顔をした。


「…………」

「あの、ゼイン様?」

「すまない、少し考え事をしていた」


 それだけ言うと今度は口元を手で覆い、ふいと私から顔をそむけた。少しれ馴れしかっただろうか。そんな彼は黒地に金のしゅうが施されたジャケットを着こなしており、今日も信じられないほど素敵だった。

 周りにいる女性達はみなうっとりとした表情を浮かべ、ゼイン様を見つめている。


「やっぱり噂は本当だったのかしら?」

「いや、まだ分からないだろう」


 私達の関係は話題の中心だと聞いていたけれど、本当らしい。様子を窺うような視線をひしひしと感じる。


「今日は一人で?」

「はい」

「君さえ良ければ、エスコートしてもいいだろうか」

「ぜひ! ありがとうございま──あっ!」


 ゼイン様に会うとは思っていなかったため、完全に悪女モードの格好をしていたことに今更気が付き、私は慌てて身体を縮こまらせた。


「き、今日の格好はだめでした、ゼイン様にお会いすると思っていなかったので……」


 正直にそう告げると、ゼイン様はふっと小さく笑った。

 初めて彼が自然に笑ってくれたのを見た気がして、そのかい力に胸が高鳴る。


「そんなこと、気にしなくていい。可愛いことを言うんだな」

「えっ……」

「行こう」

「は、はい!」


 可愛いなんて言われてしまい、戸惑いながらも差し出された手を取ると、一気にきょが縮まった。ひとまずランハート様については、後でいいだろう。

 そっと重ねただけの手をぎゅっと握られ、しんぱく数が上がっていく。

 緊張している私を見て、ゼイン様は「どうかしたのか」と小さく首をかしげた。


「ええと、その……色々あった後なので少し緊張してしまって……」

「それなら今後、社交の場に出る際は俺に声を掛けてほしい。できる限り時間を作るから」


 ゼイン様は誰よりもお忙しいはずなのに、なんて優しいのだろうと胸を打たれる。あまり恋人役に関して気負わず、無理もしないでほしいと思いながらホールを歩いていく。

 そんな中、上位貴族らしい雰囲気を纏った一人の令嬢が、ゼイン様に声を掛けた。彼女の視線は私へと向けられており、明らかな敵意を含んでいる。


「ゼイン様、そちらの方は……?」

「俺の恋人だ」


 すぐにゼイン様が当然のようにそう言ってのけたことで、令嬢は驚いたように目を見開いた。私も多分、同じような顔をしていたと思う。

 こうしてはっきりと言われると、思っていた以上にずかしい。もちろん周りにも聞こえていたようで、ざわめきが大きくなる。


「行こうか。友人達に君をしょうかいさせてほしい」

「は、はい」


 その後はゼイン様の元へ次々とあいさつにやってくる貴族や、彼の友人方に紹介されたけれど、たった一年間の付き合いだと思うと申し訳なさで胸が痛む。

 いつか同じように紹介されるであろう、素晴らしいシャーロットの引き立て役になることを祈るばかりだ。


「……あ」


 軽食が置かれたコーナーがあるのを見つけ、キラキラと輝くスイーツに目をうばわれてしまう。そんな私の様子に気が付いたらしいゼイン様は、すぐに足を止めてくれた。


「何か気になるものでも?」

「あの、少しだけケーキを食べてもいいですか……?」

「少しと言わず、好きなだけ食べるといい」

「ありがとうございます!」


 実はコルセットをきつく締めるためにあまり食事をしていなかったせいで、おなかが空いていたのだ。

 お言葉に甘えて小さなケーキをふたつお皿に載せ、いただいていく。その美味しさや甘さに、さきほどまでの疲れもんでいく気がした。


「すごく美味しいです! フルーツのあまっぱさとクリームの甘さがぜつみょうで……!」

「…………」

「あの、ゼイン様?」


 私を見つめたまま黙り込んでいるゼイン様の名前を呼べば、彼ははっとしたような表情を浮かべ、やがて口元を緩めた。


「君は何でも幸せそうに食べるんだな」


 不意打ちで再び笑顔を向けられ、どきりと心臓が跳ねてしまう。

 恥ずかしくなった私は、慌てて手元のお皿へと視線を移した。


「ゼ、ゼイン様もし上がりますか?」

「いや、俺はいい。君を見ているだけで十分だ」


 どうかあまり見ないでほしいと思いながら、ケーキを口へ運ぶ。

 空腹だったはずなのに、なんだか胸のあたりがいっぱいになってしまい、あまり食べることができなかった。


 その後ゼイン様が知人に呼ばれ、おかたい雰囲気を察した私は、少し外の空気を吸ってくると言って彼と別れ、バルコニーへ出た。


「……ふう」


 夜風が心地良くて、少しずつ気持ちが落ち着いていくのが分かった。ゼイン様の纏う雰囲気が先日までとは全く違い、そわそわしてしまっていたのだ。

 ──きっとシャーロットにはもっともっと優しくて、甘いのだろう。ゼイン様に愛される彼女は幸せ者だと思いながら、夜空を見上げる。


「グレース嬢、こんな所にいたんだね」


 すると不意に、背中越しに声を掛けられた。


「……ランハート様」

「あ、知ってくれていたんだ。俺の名前」


 すみれ色の瞳を柔らかく細めると、ランハート様は「嬉しいな」と綺麗に口角を上げる。

 こうして間近で見ても、文句のひとつも付けようのない整った顔に、一種の感動すら覚えてしまう。ゼイン様とはまた違ったタイプのイケメンだ。


「先日は助けてくださり、ありがとうございました」

「ううん、人気者の恋人を持つと大変だね。それにしても今日はまた雰囲気が違って、綺麗な感じだ」

「そうですか」

「俺はこっちの方が好みだな。グレース嬢らしくて」


 私の隣へとやってくると、ランハート様はこてんと首を傾げてうわづかいでこちらを見てくる。自分の顔が良いと分かっていてやっているに違いない。


「ねえ、次は俺と付き合ってよ」

「……えっ?」

「公爵様にきるのは三ヶ月後くらいかな? 待ってるね」


 あまりにも軽すぎる。風でふわふわと飛んでいきそうなくらい軽い。

 けれどきっと、今までのグレースなら頷いていたのだろう。


「ええと、考えておきます。それではまた」


 そくに断りたいものの、今後協力をあおぐこともあるかもしれないのだ。できる限り余裕のある顔であいまいな返事をし、バルコニーを出てホールへと戻る。

 するとバルコニーの入り口で、ゼイン様とくわした。


「あ、もうお話は終わったんですね。……ゼイン様?」

「…………」


 何故か返事はなく、何を考えているのか分からない表情で見下ろされた私は、美しいふたつの金色の瞳から目がらせなくなる。

 どこかげんにも見える彼は、何かを考え込んでいるような様子で、何かあったのかと心配になってしまう。

 少しのちんもくの後、ゼイン様は「……ああ、そうか」と納得したように呟いた。


「どうやら俺は自分が想像していたよりもずっと、単純な男だったらしい」


 一体、どういう意味だろう。

 ゼイン様は首を傾げる私に向かって微笑み、私の手を掬い取る。

 よく分からないけれど、いつも通りの様子に戻ったことにほっとしつつ、大きな手のひらを握り返す。ゼイン様は私の後ろを見つめ、切れ長の目を細めた。


「これ以上悪い虫が付く前に帰ろうか。送るよ」

「えっ? む、虫がいましたか……!?」


 私は昔から本当に虫が苦手なため、慌ててしまう。まだ虫が出る季節ではない気がするけれど、今しがた外に出た時にでも付いてきてしまったのだろうか。

 するとゼイン様は、そんな私を見てくすりと笑う。


「今後は俺が寄せ付けないから、安心するといい」

「…………?」


 こんなにも綺麗な顔をして、ゼイン様は虫が得意なのだろうか。そんなことを考えながら手を引かれた私は、彼と共にきらびやかなホールを後にした。


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