3.ギャップ大作戦②


 そしてむかえた、デート当日。ゼイン様は時間ぴったり、午後三時に迎えにきてくれた。

 こんいろのジャケットを着こなし、少しだけ長めのかみを片耳にかけている彼はこうごうしさすら感じる美しさで、直視することすら厳しい。

 この絶世の美男子に好いてもらおうなんてがましいのではないかと、早速心が折れそうになる。そもそもしとデートという状況が、非現実的すぎる。

 けれど、見送りにきてくれたヤナやエヴァンがぐっとガッツポーズをしてくれているのを見た私は、ゼイン様に見つからないようぐっとこぶしにぎってみせた。


「こ、こんにちは、ゼイン様。お会いできて嬉しいです」

「ああ。連絡がおそくなってすまなかった」

「いえ、お忙しい中ありがとうございます」


 その一方、ゼイン様は私の姿を見るなり、少しだけ驚いたような様子を見せた。そう、すでに彼の気を引くためのギャップ大作戦は始まっている。

 今日の私は可愛らしい、ピュアなお嬢様がテーマだ。

 ゼイン様もきっと、絵にいたような悪女を連れて歩くのはずかしいと思い、あわいレモンカラーのドレスを着ている。

 グレースのやわらかな桜色の髪には、真っ赤なドレスよりもずっとよく似合っていた。

 いつもじゃらじゃらピカピカつけていたらしい宝石類も、ドレスに合わせたシンプルな物のみ。もちろん、彼と会う時以外はお得意の原色ドレスで過ごすつもりでいる。ゼイン様とのデートの時だけは特別、というアピールだ。


「もしかして、変でしょうか?」

「……いや、よく似合っていると思う」

「良かったです。その、少しでもゼイン様の好みに近づきたくて、慣れない服装をしたので緊張してしまって……」


 そう告げるとゼイン様は少しの間の後「そうか」とだけ呟いた。グレースに対するけいかい度はやはりまだ高そうだ。


「行こうか」

「はい」


 そうして公爵家のごうな馬車に乗り込んだところ、ドアの前でゼイン様が片手を宙に浮かせ、少し驚いた顔をしてこちらを見ていることに気が付く。

 すぐにエスコートしてくれようとしたのだとさとり、私はあわてて頭を下げた。


「あっ、ごめんなさい!」

「……いや」


 デート開始数秒でいきなり失敗してしまい、今日一日だいじょうだろうかと不安になる。

 やがてゼイン様と向かい合って座ると、金色のひとみと視線がからんだ。あまりにもまぶしく、見つめられるだけで緊張してしまい、身体からだこわる。


「どこか行きたいところはあるだろうか」

「い、いえ、あまりよく分からなくて……」

「分からない? 君は詳しいと思っていたんだが……では劇場に向かおう」

「はい、ぜひ! よ、よろしくお願いします!」

「ああ。席は取ってある」


 きっとヤナが話していた、流行はやりのオペラを観に行くつもりなのだろう。女性に大人気の演目で、席を取るのも一苦労なんだとか。

 あっさりと短期間でそんなチケットを用意できるなんて流石さすがだと思いつつ、人生初のオペラに胸が高鳴る。

 もちろん楽しんでいるのは相手にも伝わるだろうし大事だけれど、本来の目的を忘れないよう、しっかりしなければ。

 私はかばんに入っている、昨晩エヴァンとてつをして考えた「ゼイン様と距離を縮めるための10の目標リスト」を思い出す。

 第一の目標、今日の目標は少しでも私に対する警戒心を解いてもらい、「グレース」と名前で呼んでもらうことだ。ちなみに二つ目は「手を繫ぐ」だった。

 後半はとても口には出せないものばかりで、正直ボツにしたかった。


 劇場へとうちゃくし、今度こそゼイン様のエスコートを受けながら、豪華なロビーへと足をれる。ちなみに最初は手が軽く重なるだけでドキドキしてしまい、いっしゅんれた後に離してしまって、げんな顔をされた。男性経験のなさがうらめしい。

 ロビーに入ったしゅんかん、一瞬にしてすべての視線がこちらへ集まったのが分かった。

 色とりどりのはなやかなよそおいをした貴族らしき人々は皆、驚いた様子でこちらを見ている。


「まあ、ゼイン様だわ! なんててきなのかしら」

「それにしても、マリアベル様以外の女性を連れて歩くなんてめずらしいのではなくて?」


 やはり女性達は皆、彼を見て色めき立っているようだった。

 そしてもちろん、その視線は私にも向けられる。


となりの方はどなた? とても美しい方だけれど」

「あのゼイン様とご一緒されるくらいだもの、とても高貴な方に違いないわ」


 そんな会話が耳に届き、思わず「えっ」という声が出そうになるのを慌ててこらえる。

 どうやらギャップ大作戦のおかげで、誰も私がグレースだと気が付いていないようだ。


「いやあ、すごい美人だな。公爵様がうらやましいよ」

「お前、こんやく者に聞かれたら殺されるぞ。だが、あれほどの美女はあこがれるよな」


 男性達も私のことをめてくれている様子で、このままバレなければ平和に過ごせると思っていたのだけれど。


「グレースじょうつかれてはいないか?」

「えっ? あっ、は、はい!」


 ゼイン様が眩しいみを浮かべ、やけに顔を近づけてはっきりと「グレース嬢」と言ったことで、場は一気にさわがしくなる。


「まさかグレース・センツベリー……?」

「まるで別人じゃないか」


 まだ馬車を降りてから五分ほどしか歩いていないというのに、そんなに体力がないように見えたのだろうか。

 けれど、これがしんづかいなのかもしれないと思った私はお礼を言い、大丈夫だと笑顔を返す。


うそでしょう? どういう心境の変化なのかしら」

「まあ、いよいよゼイン様にまで手を出したのね」

「ゼイン様も何故なぜ、グレース様なんかと……」


 そんな中、さきほどまでのせんぼうまなしは、あっという間に責めるようなものへと変わる。

 大方、私が何らかのゼイン様の弱みを握っており、無理やり一緒にいると思っているのだろう。全くもってその通りだ。


「あんな女、ゼイン様にはわないのに」


 そうそう、グレースなんかよりもシャーロットこそがお似合い、ベストカップルだと思いながら、ロビーを歩いていく。

 白と金で統一されたかべには過去の演目の絵なんかがかざられていて、歩いて見ているだけでも楽しい。

 そんな様子をゼイン様がじっと見ていたことには気づかず、私はきらびやかな世界に夢中になっていた。


 やがて案内された席は二階にあるとても広い個室のような場所で、やけに大きながふたつ置かれている。

 驚くほど見晴らしが良く、もちろんこういった場所に来るのは初めてだけれど、相当なお値段がする特等席だということはすぐに理解した。


「グレース嬢、こちらの席の方が見やすいそうだ」

「そうなんですね。では、ゼイン様がそちらに。私はこちらに座らせていただきます」

「……分かった。君がそうしたいのなら」


 そう告げたところ、何故かゼイン様は少し困惑したような様子で、また何か間違えてしまったのだろうかと冷や汗が流れる。

 もしやレディーファースト的な感じで、私がそちらに座るべきだったのだろうか。そわそわしながら、もうひとつの座席にこしを下ろす。


「え、ええと、今日の演目は恋愛がテーマなのですね」

「ああ、女性に人気だと聞いている」

「とても楽しみです、ありがとうございます」


 やけに距離が遠くて会話しづらいと思ったものの、お値段の分もしっかりオペラを楽しもうと意気込んで、ステージへと視線を向ける。

 やがて劇場は暗くなり、オペラが始まった。


「わあ……すごい……!」


 魔法で演出されたたいは本当に美しくてげんそう的で、かんたんの声がれる。まるでおとぎばなしの世界に入ったみたいで、まばたきをするのも忘れ、夢中になってしまう。

 オペラの内容は異世界版シンデレラといった感じで、ぐうの少女が運命の相手と出会い、こいに落ちて幸せになるという話だった。


「……っ……うっ……」


 幼い頃からずっと全てをあきらめてきた主人公が初めて幸せになりたいと望み、それを叶えようとする男主人公の姿には、なみだが止まらなかった。

 おたがいを思い合う二人はとても美しくて素敵で、胸がいっぱいになる。ハンカチも大量の涙でびしょれだ。

 ──私にもいつか、あんな恋ができるだろうか。誰かを好きになり、愛される日が来るのだろうか。

 やっぱり女性としては一生に一度の恋には憧れるなあと思いながら、幕が下りてなおはくしゅを送り続ける。


「……グレース嬢?」

「はっ、はい!」


 完全にゼイン様の存在を忘れ、オペラの世界に入り込んでいた私は名前を呼ばれ、慌てて我に返った。

 ゼイン様はごうきゅうしている私を見て、やはり困惑した表情を浮かべている。

 これは流石に、可愛いというギャップをえている気がしてならない。


「す、すみません! とても感動してしまって……素敵なオペラに誘っていただき、ありがとうございました。おしょうを直してきますわ」


 間違いなく涙でぐしゃぐしゃになっている私は、慌てて席を立つ。泣きすぎたと反省したものの、涙をまんするなんてとうてい無理なレベルの感動的な名作だった。こうりょくだ。

 そうしてスタッフ的な人にきゅうけい室へと案内され、なんとかお化粧を直して戻ろうとすると、ろうで「グレース様」と声を掛けられた。


「はい、どうかしました?」

「……何よ、その反応。馬鹿にしてるの?」


 とっのことで悪女スイッチが入っておらず、つい素の反応をしてしまう。すると振り返った先にいたくろかみなびかせた悪女っぽい美女は、いらった様子を見せた。

 そのふんからは、とてもグレースの友人には見えない。


「どんな手を使ってゼイン様に取り入ったの?」

貴女あなたに話して何の得があるのかしら」


 どうやら彼女は、ゼイン様をしたう令嬢の一人らしい。今度はなかなか悪女っぽい返しができたと思いながら、ゆうの笑みを向ける。まさに悪女VS悪女という絵面だ。

 すると美女は、あきれたように鼻で笑う。


「やあねえ、貴女、一緒の席にすら座ってもらえていなかったじゃない。初めて見たわよ、あんなの。みじめすぎるわ」

「えっ……?」


 どうやら本来は、あのながには二人で座るべきだったらしい。

 ゼイン様の困惑した様子にも、なっとくがいく。とんでもないかんちがいをしてしまったと、私は頭をかかえた。そんなこと全く知らなかったのだ。

 好きだと言っているくせに、あんなけるような座り方をすれば当然の反応だろう。

 私の態度に不信感を持ってしまったかもしれないと、不安になってくる。


「いい? ゼイン様は、貴女が今まで遊んできたような男性方とは違──」


 どうしよう、グレースが知らなかったなんてことは絶対にありえないし、と言い訳を必死に考える。一方、目の前の美女はかなり苛立った様子で、ヒートアップしていく。

 何もかもが彼女の言う通りではあるものの、ここはグレースらしく強気で言い返そうと思っていた時だった。


「ベラ、君の美しい声が廊下にひびいてしまっているよ」

「ラ、ランハート様……!」


 とつじょ、この場に陽のオーラを身にまとったちょうぜつイケメンが現れたのだ。光の束を集めたようなきんぱつに、アメジストの瞳が印象的な彼は、眩しい笑みを浮かべている。

 ランハートと呼ばれた男性は華やかで派手で、なんだかけいはくな感じがする。女性のあつかいにも、やけに慣れているようだった。


「ほら、行こう? それとも俺じゃダメかな?」

「そ、そんなことありませんわ」


 かたき寄せられた美女はぽっとほおを赤く染め、照れた様子で急に大人しくなっている。イケメンなら誰でもいいのだろうか。

 よく分からないけれど助かったと思っていると、彼は私にしか見えないよう、ウインクをして去っていく。


「……私を助けてくれたのかな」


 そうしてなぞのイケメンに感謝しながら、私はゼイン様の元へと急いで戻った。


 ゼイン様の元へと戻った後、再び彼の手を取ってエスコートされ、出口に向かって劇場内を歩いていく。


「この後はどうしたい?」

「私はゼイン様と、その、まだ一緒にいたいです」


 なんとかそう告げると、カフェでお茶をしようと誘ってくれた。本当ならさっさと帰りたいはずなのに、本当に優しいなあと胸を打たれる。

 二人で街中を歩いて行き、やがて着いたのは白で統一された落ち着いたお店で、店内にはいかにも上位貴族というオーラを纏う人々しかいない。

 カフェにいた人々もゼイン様と私を見るなり、やはり驚いた様子だった。


「とても素敵なお店ですね」

「ああ。俺も気に入っていて、よく来るんだ」


 そんな場所に私なんかを連れてきてくれるなんて意外だったけれど、嬉しくなる。

 明らかに何もかもが高級な雰囲気で、私の知っているカフェとは違う。まどぎわの席に案内され、向かい合って腰を下ろす。


「グレース嬢?」

「あ、ごめんなさい! その、れていました」

「…………」


 ゼイン様はカフェでただ座っているだけでも絵になるなあと思っているうちに、ついじっと見つめてしまっていたらしい。特に彼のはちみつ色の瞳が、私は好きだった。


「……!?」


 恥ずかしくなりすようにメニューを手に取った瞬間、目玉が飛び出そうになった。

 紅茶のめいがらについては詳しくないものの、紅茶一ぱいだけで2000ミアだなんて法外すぎる。カップいっぱいにきんぱくでも入っているのだろうか。


「決まったか?」

「……こ、この紅茶をひとつ」

「他には?」

「こちらだけで大丈夫です」


 もちろんお金は多めに持ってきているし、貴族なら普通の金額なのかもしれない。

 それでも、私にはまだ早すぎた。一口いくらなんだろうと考えてしまうびんぼうしょうにくい。


「今はこちらの季節のタルトがおすすめです」


 とは言え結局、びんわん店員にすすめられケーキセットをたのむことになってしまう。このお店はケーキがとても有名らしいものの、セットは5500ミアと知り眩暈めまいがした。

 過去の私の半月分の食費だと思うと、おそろしくなる。やはり金銭感覚というのは、簡単には変わらない。


「……!」


 けれど、運ばれてきたレモンのムースタルトはびっくりするほど美味しかった。ほっぺたが落ちるというのはこういうことを言うのだと、本気で思ったくらいだ。


「あの、とても美味しいです! ふわっとしているのに、さくっとしていて……わあ、美味しい……!」


 いつもこうしゃくていで食べているおも美味しいけれど、ここのタルトは別格だった。私にこの感動を伝える力がないのが恨めしい。

 感激しながら食べている私を、ゼイン様はコーヒーを飲みながら静かに見つめていた。はしゃぎすぎてしまっただろうか。


「そんなに気に入ったのなら良かった」

「ええ、ありがとうございます」


 前世ではできなかった経験をたくさんできる今、嬉しくて幸せだと改めて実感する。


「ゼイン様は、甘いものは食べないんですか?」

「いや、しきでもたまに作らせたりする」

「そうなんですね。私もお菓子作りが好きなので、今度作ってきてもいいでしょうか?」


 するとゼイン様は「は」と、まどいの声を漏らした。

 実は数日前こっそりとキッチンを借りて、採ってきたばかりのようきょうそうい魔草を使ってクッキーを作ってみたところ、とても美味しくできたのだ。

 その上、食べると元気が出た気がした。やはり私は料理やお菓子作りが好きだと改めて実感し、これからも色々と作ってみるつもりでいる。


「……君が? 菓子を作るのか?」

「ええ、割と得意なんです。あっ、もちろん変なものを入れたりはしません!」


 慌ててそう言ったものの、ゼイン様は訳が分からないという表情を浮かべていた。

 確かにこうしゃくれいじょうかつ悪女がお菓子作りが得意だと言っても、とても噓くさい。メイドあたりに作らせて、自分の手作りだと言い張りそうだ。


「それにしてもオペラ、本当に素敵でしたね! ゼイン様はよく観に行かれるんですか?」

「いや、あまり。君が楽しめたのなら何よりだ」

「はい! 特にプロポーズのシーンがすごく──……」


 その後も、色々と思い出してはついつい熱く語ってしまう私に対し、ゼイン様はずっとあいづちを打ってくれていた。


「そろそろ出ようか」

「はい」


 そうして店員が持ってきた伝票を見た私は、口から間の抜けた声が漏れかけた。

 元々高いお値段だったというのに、驚くほど高い税金がかけられており、さらに値段が跳ね上がっていたのだ。


「た、高……あっ、はらいます!」


 どうようした私が慌てて鞄からさいを出すと、ゼイン様は形の良いまゆひそめた。


「なぜ君が出すんだ?」

「えっ……あ」


 そう言われて初めて、こういったデートの時には男性の顔を立てるために、お金ははらってもらうものなのかもしれないと気付く。

 あまりにもデートに慣れていない反応ばかりしてしまい、恥ずかしくなる。

 結局、ゼイン様がスマートに会計を済ませてくれ、私はていねいにお礼を告げたのだった。



*****



 侯爵邸へと向かう帰り道の馬車の中で、私はゼイン様と向き合って座り、頭を下げた。


「とても楽しかったです。ありがとうございました」


 無理に悪女でいようと気を張っていなかったことや、らしいオペラや素敵なカフェ、そしてゼイン様の気遣いのお蔭で、本当に楽しい一日だった。

 生まれて初めてのデートだったけれど、私自身すごくいい思い出になった。彼からの好感度が上がったかは謎ではあるものの、また一緒に出掛けられたらいいなと思う。

 それでもやはり、まだ私に対しての警戒心が解かれていないことも感じていた。


「グレース嬢、君は──」

「きゃ……!?」


 まだ時間はあるし、ひとまず目標だった名前呼びは次回にしようと思っていると、ゼイン様が何かを言いかけた。それと同時に、馬車が急停車する。


「すまない、大丈夫か。子どもが飛び出したようだ」


 その結果、私はバランスをくずし、ゼイン様側の椅子に思いきりたおれ込んでしまう。


「私は大丈夫です。子どもは無事でしたか?」

「ああ、問題ない」

「よかった……」


 子どもが無事だったこと、ゼイン様にぶつからなかったことにあんしながら顔を上げる。


「グレース嬢、鞄が」

「あっ、すみません……!」


 そうしてゼイン様の手を取って身体を起こすと、私と共に鞄もんだようで、馬車の金具に引っ掛かり大破していた。

 間違いなく高価なものなのにやってしまった、帰ってえば直るだろうかと半泣きになりながら、散らばった鞄の中身を拾っていく。

 そんな中、化粧品やハンカチなど、ゼイン様も拾うのを手伝ってくれていたのだけれど。


「我が家の馬車で起きたことだ、代わりの品、を……」


 そこまで言いかけて、彼はぴたりと止まる。

 何かあったのだろうかと拾う手を止め、ゼイン様の方へと視線を向けた私は息をんだ。


「あ、えっ……み、見ましたか……!?」


 そう、彼の視線の先には例の「ゼイン様と距離を縮めるための10の目標リスト」が落ちていたのだ。一気に血の気が引き、慌てて拾い上げる。

 やがて戸惑ったようなゼイン様が「少し」と答えたことで、私は深く絶望した。最低すぎる。とんだへんたいだと思われたかもしれない。

 私は部屋に置いていくと言ったのに、エヴァンがお守り代わりだとかなんとか言って無理やり入れたからだと、泣きたくなる。

 紙を握りしめ、顔を上げられずにいると不意に目の前の景色がブレて、視界が美しい金色でいっぱいになった。


「──君は俺と、こういうことをしたいのか?」


 気が付けば私は壁に押し付けられており、ゼイン様の顔がすぐ側にあった。鼻先が触れ合いそうなきんきょに、心臓が大きく跳ねる。

 大きな手のひらで頰に触れられ、さらに顔が熱くなっていく。ゼイン様からは恐ろしく良い香りがして、あまりにも全てがれいで、くらくらとしてくる。

 彼はきっと、リストの最後まで見てしまったのだ。


「……っう……ご、ごめん、なさ……」


 その結果、消えてなくなりたくなるような恥ずかしさと、経験したことのない男性との距離感に限界を超えた私はパニックになり、泣き出してしまう。

 ひどく驚いたように、ゼイン様の目が見開かれる。

 何もかもが私のせいな上に、今日はとても良くしてもらったというのに情けなくて、申し訳なくて、余計に涙が止まらなかった。

 自身の運のなさと、男性経験のなさを恨まずにはいられない。


「……っ」


 やがてえきれなくなった私は再びお礼を言うと、ちょうどまった馬車を降り、屋敷へとかえってしまった。



*****



「なあゼイン、グレース嬢とのデートはどうだった?」

「誰に聞いたんだ」

「おいおい、誰も何も、お前と彼女が劇場やカフェでデートしてたって話、今じゃ社交界で一番の話題だぞ」


 グレースと出掛けた二日後、公爵邸へやって来たボリスはやけに楽しげな様子でそう言ってのけた。

 マリアベルの件と同様、うわさが広がる早さには驚かされる。貴族というのは本当にひまじんばかりらしい。

 とは言え、今回に関してはグレースとの関係を陛下の耳にも入れようと、あえて人の多い劇場へ行き、彼女の名前を呼び、親しげに接したのだ。

 俺とグレースの組み合わせは誰もが想像していなかったようで、ボリスいわく今年一番のゴシップだという。


「で? 感想は?」

「……女性不信になりそうだった」

「ははっ、どんなデートだよ」


 声を立てて笑うと、ボリスは「早速聞きに来て正解だった」なんて言い、ティーカップに口をつけた。


「グレース嬢、普段と雰囲気が違ったらしいな。男連中の間ではかなり評判良かったぞ」

「雰囲気だけじゃない。何もかもが別人だった」


 先日の彼女は、俺が──誰もが知るグレース・センツベリーとはまるで別人だった。

 何もかもが演技なら、国一番の女優になれるだろうと本気で思った。


「へえ、そんなにも様子が違ったのか。男を落とすテクニックなのかねえ。それで?」

「……泣かせた」

「は?」

「だから、泣かせてしまったんだ」


 帰り道、馬車が急停車し身体を思い切りぶつけても、彼女は文句ひとつ言わなかった。

 その上、一番に飛び出してきた子どもの心配をしたことで、本当に彼女はグレース・センツベリーなのかという疑問をいだいてしまったくらいだ。

 咄嗟の反応ですら、演技し続けられるものなのだろうかと思っていた時だった。

 グレースの鞄の中身が散らばり、みょうな紙があるのを見つけたのだ。そこには「ゼイン様と距離を縮めるための10の目標リスト」と書かれていた。

 女性の字で書かれた「名前で呼んでもらう」や「手を繫ぐ」から始まり、後半は「キスをしてもらう」「押し倒される」などと明らかに男性の字で綴られている。

 遊ばれているのだと、すぐに気が付いた。あのグレースがこんなことを本気でする訳がないのだから。

 結局彼女はこういう人間で、周りとけなり何なりをして、俺で遊んでいるに違いない。

 だからこそグレースの望み通りにしてやり、くだらない演技などやめればいいと、試すようなことをしたのだ。

 すると長いまつふちられた大きな空色の瞳からは、はらはらとおおつぶしずくあふした。

 全く予想していなかった反応に、流石の俺も驚きをかくせなくなる。まるで初心うぶな少女のような姿に、罪悪感が込み上げてくるのが分かった。

 ──男遊びを繰り返しているグレースにとって、あれくらいは間違いなく大したことではない。そう分かっているはずなのに、あの泣き顔が頭から離れず、ずっと罪の意識のようなものが付き纏っていた。


「それ、本当にグレース・センツベリーか? 誰かと間違えているとしか思えないな」

「……彼女が何をしたいのか、まるで理解できない」

「あ、本気でお前に好きになってもらいたいとか」

「馬鹿なことを言わないでくれ」


 それでも許可を取らずに触れたことに対し、やはり謝るべきかと頭を悩ませていると、マリアベルが広間のドアから顔をのぞかせた。


「まあ、ボリス様も来ていたのですね!」

「久しぶり。今日も君は天使のように可愛いね」

「ふふっ、お上手ですこと」


 楽しげに俺の隣へやってきたマリアベルの手には、桃色のふうとうがある。やがて彼女はどこか落ち着かない様子で、俺をうわづかいで見上げた。


「あの、お兄様。実はお願いがあるんです」

「どうした?」

「グレースお姉様を、お茶会にご招待したいのです。お手紙を書いたので、お送りしても良いですか?」


 その瞬間、視界のはしでボリスがき込む。

 マリアベルはやはり、あの日からグレースを慕っているらしい。両親をくしてからというもの、俺やボリス以外の人間に歩み寄ろうとするのは初めてだった。

 俺としては、得体の知れないグレースにマリアベルを近づけたくはない。


「実は緊張してしまって、何度も書き直したんです。読んでいただけるといいなあ」


 それでもくったくのない笑みを向けられてしまい、断ることなどできなかった。

 当日も俺が側でかんしていれば、問題はないだろう。


「なあマリアベル。その日、俺も参加していいか?」

「はい、もちろんです! お兄様とグレースお姉様、ボリス様とお茶会なんて素敵だわ。気合を入れて準備をしなくちゃ!」


 間違いなく面白がっているボリスと、嬉しそうにはしゃぐマリアベルを他所に、気は重くなっていく。

 とは言え、あんなことがあった後なのだ。てっきり断られると思っていたものの、翌日には「喜んで行く」という返事が届いてしまう。


「……本当に、何がしたいんだ」


 結局、あの泣き顔が頭から離れることはないまま。

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