第2話 長屋の相談
その前日の朝。
長屋の戸口がトントンと叩かれ、返事も待たずにガラリと開けられた。目を上げると鷹一郎が戸口から覗き、その整った顔をにこにこと微笑ませながら、開口一番。
「哲佐君、お手伝い下さいな」
「……お前、なんで俺が金がない時がわかるんだよ」
ちょうどその時の俺は、狭く薄暗い長屋の一室で提灯張りの内職をしていた。そして金の予感に腹がグゥと鳴った。俺はちょくちょく鷹一郎におかしな仕事を頼まれて金を稼いでいる。
糊の壺に刷毛を差し入れ、ペタペタと提灯の骨に塗り付ける様を鷹一郎は感心したような、見方によっては馬鹿にしているようにも見える表情で眺めた。
「それにしても相変わらず手先が細かいですねぇ」
「まあな。それで……いくらなんだ」
俺は昨日、博打で有金を全部
弓張り提灯は一張3銭。普段の身入りは日雇い仕事で15銭ほど。
日雇いのほうが割がいいが、冬場は仕事が少ないのだ。
一方で鷹一郎が俺に持ってくる仕事の話は碌でもないものばかりだ。碌でもないが金はいい。そしていつも、俺に金がないのを見計らったようにこの男は俺の前に現れる。
「そうですねぇ。たった今夜一晩、10円で
鷹一郎はにやにやと俺の手元を眺める。俺が断るはずがないと思っていやがる。
大卒銀行員の初任給が10円の時代だ。一晩でそれと同じ、俺の日当の70倍弱を稼げるわけだ。
「危ねぇのか」
「立ってるだけで結構ですよ、破格でしょう?」
危険性については一応尋ねてみたものの、いつも通りまともに答えはしないのだ。けれども俺は既に手元はそぞろで頭はすっかり傾いていた。
「それで俺は何に
「多分、鵺。でも今回は祓うだけです。珍しく純粋な囮です。よかったですね」
「よくねぇよ。そりゃ純粋に
囮、囮ね。
鷹一郎が俺に頼む仕事。それは簡単に言うと化け物の生贄になることだ。鷹一郎が言うには俺は世にも珍しい
鷹一郎は陰陽師なんてヤクザな仕事を生業にしていて、金で怪異を祓うことを仕事として請け負っている。そして鷹一郎は俺を囮に化け物を罠にかけ、手練手管で
けれども今回の鵺には交渉の余地などないのだろう。だから趣味は諦めて
そもそもこの『化物退治』は神白県から依頼されたものらしい。
先週頃から新庁舎に勤務する職員、それも夜間の宿直を中心に人が次々と倒れる事件が発生した。最初は
そのうち宵闇に紛れて県庁舎に鳥の声が響き始め、ダダンと屋根上に足を踏み鳴らすような振動が巻き起こり、ぴかぴかの銅板屋根の上に足跡に見える
この段になって土御門神社、つまり陰陽師である鷹一郎に祓いの依頼がきた。
そして鷹一郎は何度か下見に来て、その様子から、それが鵺であると当たりをつけたものの、相手が屋根上から降りてこないものだから手の出しようがなかったそうだ。だから俺が雇いに来た。
ふわりと長屋が暗くなる。日が陰ったのだろう。
「鵺ってあれだろ、平家物語で
「おや、詳しいですね。そういえば哲佐君はお武家の出でしたね」
「元な。困窮具合は今とさほどかわらんが、やたら軍記物の話は聞かされて育ったな」
そんな生活も既にはるか昔のことだ。
「ならご存知でしょう? 頼政は弓で鵺を撃ち落としましたが私は弓はさほど得意ではありません。夜目も効く方ではないのでね。射掛けて貴重な破魔矢を失いたくはない。哲佐君におびき寄せて頂けるなら無駄な損耗が減るのです」
「俺は矢以下かよ」
そういえば鵺というのはよくわからぬものの代名詞だ。
平家物語でも頭が猿、体は狸、尾は蛇、手足は虎で鳴き声が鳥。浮世絵だのなんだので姿が描かれることはよくあるが、やはり何だか判然としない。
「その鵺ってな、一体何なんだ?」
俺は一体何に食われるのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます