7の24「セイレムと呪剣」
「…………」
ニトロは脱力し、ベッドに倒れこんだ。
余裕の無い、崩れ落ちるような倒れ方だった。
心配したセイレムは、ニトロに手を伸ばした。
そして彼の背をさすりながら尋ねた。
「ニトロさん。だいじょうぶですか? 何か有ったんですか?」
セイレムにそう問われては、答えないわけにはいかない。
ニトロは肺の奥から声を絞り出した。
「エルが……。
エルが……貴族に買われた……」
「え……?
エルは……大神殿で育てるのでは……無かったのですか……?」
「私は……そのつもりだった……。
けど……神官長は……
あいつは……エルを最初から……金儲けの道具として見ていなかった……。
あいつを信用した……私が愚かだった……」
「落ち着いて下さい」
セイレムは驚きの気持ちを鎮め、追いついた声音でニトロにこう尋ねた。
「エルを買った貴族というのは、どのような御方なのですか?」
「エルを買ったのは、メイルブーケだ」
「迷宮伯。有名な貴族の家系ですね。
それならば、エルに対しても酷いことはなさらないかもしれません。
名門の名に恥じるような愚かなことは」
「名門……?」
(メイルブーケは、裏切り者の一族だ。
それに、戦いしか能が無い、他の貴族とは一線を画す連中。
そんな連中を信用出来るか?)
大神殿とメイルブーケは仲が悪い。
迷宮伯家の始祖、その兄が、神を裏切ったからだ。
神に仕える大神殿からすれば、その存在を憎まずにはいられない。
ニトロの家は神官の家系だ。
その長男として育ったニトロも、当然にメイルブーケの悪評を聞いて育ってきている。
さらにニトロは、神や大賢者とも対話をしたことが有る。
そのおかげで、メイルブーケの裏切りの伝説が、真実だろうということも聞かされている。
ニトロからすれば、メイルブーケの一族は、他の貴族よりも信用がならない連中だった。
害虫に向けられるような嫌悪感が、ニトロの内を走っていた。
ニトロの表情が、さらに苦々しく歪んだ。
その理由がわからなかったのだろう。
セイレムは戸惑いが混じった声音でニトロの名を呼んだ。
「ニトロさん?」
「いや。うん。そうだね。
エルは……酷いことには……ならないかもしれない」
セイレムの希望的観測を、挫くわけにはいかない。
そう思ったニトロは、彼女の言葉を肯定しようとした。
だが、そこに活力をこめるだけの元気は、今のニトロには無かった。
そんな弱々しい言葉の裏側など、セイレムは見通してたかもしれない。
「はい」
「…………」
「…………」
二人は黙った。
セイレムはニトロの手に触れた。
彼の手はいつもよりも冷たい。
セイレムはぐったりと動けないニトロの体を、人肌で温めることにした。
肌を重ねていると、ニトロの血色は少しだけ良くなった。
「痩せましたね」
セイレムは、ニトロに跨った状態でそう言った。
「そうかな?」
「はい。痩せましたよ」
「……そうかな」
「…………」
セイレムは口を閉じた。
そして……。
「ッ!?」
ニトロの目が見開かれた。
気がつけば、セイレムが剣を手にしていた。
見覚えの有る剣だ。
それはニトロの呪剣だった。
セイレムには戦闘の経験は無い。
対するニトロは歴戦の猛者だ。
セイレムが何をしようが、ニトロなら抑えられるはずだった。
だが、セイレムの挙動を察知出来ないほどに、今のニトロは疲弊していた。
「何を……!?」
「動かないで下さい。
あなたを苦しみから解放してさしあげます」
剣を手にしたまま、彼女はそう言った。
とても剣など使い慣れてはいない。
そんな危なっかしい手つきだった。
「私が憎いのか?」
そう尋ねた直後、ニトロは苦笑した。
「……憎いに決まっているよな。
私はキミの愛する人を害し、子供たちとも引き離した。
憎まない理由が無い」
ニトロはそう言って、自身の幕引きを待った。
……醜悪な人生だった。
そしてその醜悪さは、外部からもたらされたものでは無い。
自分自身の邪悪な性根が招いたものだ。
そう思うと、もはや抗おうとも思えなかった。
だが……。
「さようなら。ニトロさん」
セイレムの剣が向かった先は、ニトロの体では無かった。
彼女が手にした剣は、彼女自身の首を裂いていた。
「セイレム!?」
セイレムは、ニトロの股の上から転げ落ちた。
ベッドから落ち、冷たい床へ。
ニトロは慌ててベッドから降り、セイレムの体を抱き上げた。
首からの出血は無かった。
その代わり、石への変化が始まっていた。
石の呪剣は、人に血を流させない。
ただ石へと変えるだけだ。
「この剣は……?」
セイレムは自身から血が流れないことに対し、ふしぎそうにしていた。
「どうして……こんなことを……!」
ニトロは悲痛な声でセイレムに問いかけた。
呪剣で斬られた者を、尋常の力で助けることはできない。
ニトロが知る限り、その例外は、神が持つ力だけだ。
だが、神は今、世界樹の頂上で、深い眠りについている。
セイレムを救う手段は無い。
取り返しがつかないことが起こってしまった。
自身の終末に気付いているのか、セイレムは、真剣な声でニトロに語りかけた。
「ニトロさん……。
あなたが苦しんでいるのは、あなたに良心が有るからです」
「良心……?」
「人を牢屋に閉じ込めるようなことは、
あなたには合っていなかったのです。
私が居たから……あなたは心を病んで、そんなふうになってしまった」
「違う! 私はクズだ! 生まれついての邪悪だ! 良心なんて無いっ!」
「良心が導く道を歩んで下さい。
そうしなくては……あなたは救われない」
「無理だよ……」
「どうか……お幸せ……に……」
そう言い残して、セイレムは石となった。
もう何も語ってはくれなかった。
ニトロは石となったセイレムを、ぎゅっと抱きしめた。
「私だって……一度はマジメに生きようとしたさ……。
けど……何も無かった……。
みんな私から離れていった……。
マジメに生きたって、良い事なんか、一つも無かったじゃないか……!
それに……もう手遅れだ……」
既にニトロは、何度もその手を汚していた。
神の命令だから仕方がない。
妻を手にかけた時点で、そんな言い訳など通用しない。
コーギー神官長のことも、あそこまでする必要は無かったはずだ。
衝動でやった。
その場の衝動で、簡単に人を手にかける。
ニトロはそういう存在に成り下がっていた。
そして彼は、そのことを自覚していた。
いまさら善人のふりをして生きるなど、出来るはずも無かった。
「……………………」
セイレムをベッドに横たえると、ニトロは地下室を出た。
目的も無く、ふらふらと家の中を歩いた。
すると。
「ふやぁ! ふやぁ!」
「…………?」
妙な声が聞こえた。
声に導かれるように、ニトロは部屋の扉を開けた。
「あ……」
「ふやぁ! ふやぁ!」
声の正体は、娘のサレンだった。
乳母のニューンの腕の中で、サレンは泣いていた。
「よしよし。いまお乳をあげまちゅからね」
そう言ってニューンは、哺乳瓶をサレンの口に当てた。
サレンはちゅうちゅうと、哺乳瓶の口を吸い始めた。
「…………」
ニトロは黙って部屋に入り、二人に近付いて行った。
するとニューンがニトロに気が付いたらしい。
「あっ。ニトロさま」
そう言って声をかけてきた。
ニトロは取り繕った穏やかさで、ニューンに返事をした。
「かしこまらなくて良いよ。続けて」
「はい。……お久しぶりですね。
ニトロさまが訪ねていらっしゃるのは」
「ごめん」
「いえ。ニトロさまが謝られるようなことでは有りません。
おつらかったのですよね? 奥様が亡くなられて」
「……まあね」
ニトロはニューンの言葉を、否定はしなかった。
嘘をついたわけでは無い。
確かにつらかったのだろう。
だが、それはニューンが想像している痛みとは、種類が違うはずだった。
やることも無く、ニトロはゆっくりとサレンの顔を見た。
彼女の顔を見るのは久しぶりだった。
サレンはニトロに視線を返した。
そしてこう言った。
「まぁま」
「違うよ。私はニトロ。キミのパパだ」
「ぱぁ?」
「……可愛いな」
ニトロは素直にそう思った。
「そうでしょう?」
「うん……」
(血の繋がりが無くても、可愛いって思うものなんだな。
この子の本当の両親を、私が手にかけてしまった。
私には……この子を幸せにする責任が……。
責任……? 責任だって?
いまさらだな)
ニトロはサレンのことを、1年以上放置していた。
そろそろ乳離れをする年齢だ。
父親面を出来るようなことは、何もしていなかった。
そこには責任など、一片も存在しなかった。
今、責任という言葉が湧いて出たのも、気まぐれに過ぎないのだろう。
(つまり……私がそうしたいだけなんだろうな。
人生で一つくらい、まともなことを……)
「キミ……名前は何だったかな?」
ニトロは乳母にそう尋ねた。
「ニューンと申します」
「うん……。ニューン」
「何でしょうか?」
「私は亡き妻の分まで、この子を立派に育ててみせるよ」
「はい。是非そうして下さい」
ニトロは良き父となった。
娘に対して、力と知恵と道徳を授けた。
妻殺しと、真珠の輪としての負い目を、娘に隠したまま。
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