後日談その1:彼と彼女の日常
高校一年生としての冬休みも明けて、さらに一月も終わった二月の、良く晴れた朝。
「何気ない日常シーンを描くのって、難しいんですよね」
依人がほとりと一緒に登校していると、不意に彼女がむむっと眉根を寄せた。
「日常シーン?」
「はい。日常シーンです」
チラ、と。前方に目線を置いていたほとりが、依人を上目に見た。
ほとりの身なりはいつも通り。化粧っ気もなく、制服もしっかり校則通りに着て、もこもこのコートを羽織った上にマフラーをグルグルと巻き、両手にはミトン。
バレンタインも過ぎた二月中旬となっても衰える気配がない寒さに対して、完全防備である。
だがそんな彼女と顔を合わせて、ふと、依人は思った。
なんか……。ほとり、さらに綺麗になってないか? と。
装いは別にいつもと変わりないのだが、なんか、こう、彼女を構成する要素一つ一つが、具体的には言い表せないくらいささやかに、綺麗になってる、ような……。
特に何が変わったわけでもないので言葉にもし辛く、歯がゆさを感じる依人だが、
「母が遺した『世界一しあわせなラブコメ』のプロットについて、あまり詳しいことを依人くんに話したことはありませんが――」
というほとりの発言によって、瞬時に思考が切り替わった依人は声を上げた。
「待ってほとり!」
「はい、なんでしょう?」
「それ、ネタバレにはならない話?」
「もちろんです」
分かってますよ、と言わんばかりに頷くほとり。
作者であるほとりの母親が遺したプロットを元に、彼女がいつか必ず最高の形で完結させるという『世界一しあわせなラブコメ』。
依人にとって間違いなく一番好きだと断言できるその作品の続きは、一度は途切れてしまったその先をほとりが継いでくれるというのなら、なるべく最善の形で楽しみたい訳で。
だったら、そりゃ、ネタバレは避けたいものである。この世にはネタバレを気にしないタイプとそうじゃないタイプがいるが、依人は圧倒的に後者だった。
「母が書いていたプロットは基本的にはとても丁寧なのですが、所々、だいぶ曖昧に記されている箇所がありまして。その中の一つが……」
「日常シーン?」
「はい、そうです。大抵の場合、『ここで誰々と誰々の何々な感じの日常シーンを挟む』というように示されています」
「そりゃ、曖昧だな……」
『せかこめ』でよくある展開に、まず、何気なくしあわせな日常シーンをしっかり見せたあとで、それを無茶苦茶に引っ掻き回すようなラブコメカオストルネードが連鎖的に発生。
なんやかんやありつつもそれが良い感じに収束したのち、いつもの日常が戻ってくるのだが、確かに前とは違うナニカがそこにはある――というものがある。
つまりこの例を基準に考えると、描くべき日常シーンが大きく分けて二つある訳だ。
「元々あのプロットは他人がそれを構成する前提で書かれていないので、そういうことがあるのは仕方ないのですが……。日常シーンって、本当に書くのが難しいのです。目指すべき場所というか、指針がないので。エンタメの物語として『日常系』という人気のジャンルがありますが、ああいうのはすごいと思います」
そういえば、と。
冬休み前のほとりとの初デート時を思い返す依人。
あの日、『さて何気なくショッピングモールを回ってみよう』となった時、具体的な目的もなく、参考にできるラノベ知識もすぐには出てこず、何をすればいいのか分からず困った。
今のほとりの悩みは、それと似ているかもしれない。
「日常シーン、か……」うーんと唸る依人は、しばし真面目に考えて、「あ、日常系のアニメとか見てみる……とか?」
「それは、良いかもしれませんね」
ほとりがコクンと頷く。
「では、また今度一緒に見て欲しいです。私はあまりそういうのは見たことがないのですが、何かオススメなどありますか?」
「んー、俺もそこまで日常系ってのは見ないからなぁ」
だから、先日そういうのが好きだと言っていたクラスメイトの一人に、オススメを聞いてみようかな――と、そんなことを思った。
昼休み。
いつもの空き教室でいつものように、依人とほとりは昼食を取っていた。
二人で挟んだ机の上に、同じ中身の弁当箱を置いて箸を伸ばす。
そして、一切れの卵焼きを箸で摘まんだほとりがふと首を傾げ、
「依人くん、これは昨日私がつくった卵焼きですか?」
「あぁうん、そう」
依人が学校に持っていく弁当は基本的に前日の夕飯の残りがメインとなっていて、何ならそれを見越して夕食は少し多めに作る。
「通りで、味が違うと思いました」
卵焼きを口に運んで静かに咀嚼し、しっかり呑み込んでから再度口を開く。
「やはりまだ、依人くんのつくる卵焼きの方が美味しいですね」
〝まだ〟という、いつかは依人を追い越す気満々の言い回しに彼女らしさを感じて、依人はつい微苦笑を漏らす。
空野ほとりはとても綺麗で、読書好きで、ラブコメを追求せんとしており、不器用でそそっかしい所があり、非常に好奇心が旺盛で、関心事はついやってしまうタイプで、オムライスとハンバーグが好きで、独特な感性を持っていて、思考と行動が未だに読めず、至って素直で、実は頑固な所もあり、形に拘るタイプで、中々の負けず嫌いで、案外表情が豊かで、たぶん絶対怒らせたら怖くて、結構めんどくさい所があって、極めてかわいい。
出会ったばかりのほとりからは想像もできなかった――そんな彼女の数々の一面ですらきっと彼女の一部に過ぎなくて、依人が知らない彼女の一面はまだまだあるのだろう。
「今日こそ私が中心で夕飯をつくってみてもいいですか?」
「……例えば、何がつくりたい?」
「ふむ、そうですね。にくじゃがなどは如何でしょう?」
「にくじゃが……にくじゃが、か……。じゃあ、やってみる?」
「やります」
やる気満々の顔で頷くほとり。
まぁ、後ろから俺が見てれば大丈夫かな……と、楽観的に考える依人は、とんでもない包丁捌きを見せたほとりがジャガイモと豚バラ肉を血で染め上げる今夜をまだ知らない。
依人は恋夏に勉強を教えていた。
「なんか理解できた気がする!」
勝ち誇った笑みを浮かべながら類題を解いて早速間違えている恋夏に依人が苦笑していると、隣にも似たような光景があった。
「――いえ、そこは結局見方を変えればさっきと同じ問題なので、同じ解き方で大丈夫です」
「え、同じ? 全然違くね?」
「同じです。図で示すとこうなります」
「あーはいはい、なるなるなる」
「分かりましたか?」
「分からんぬ」
「分からんぬ……、面白い表現ですね」
「え」
「参考にしてもいいですか?」
「え?」
「ダメでしょうか?」
「え?」
似たような光景かというと、言うほど似てもないかもしれなかった。
ほとりがクラス一のイケメンを困惑させていた。
「参考にする?」
「はい、参考にします」
「何の参考?」
「キャラ付けにします」
「キャラ付け?」
「はい。分からんぬが口癖のキャラとか面白い気がします」
「分からんぬが?」
「はい、分からんぬです」
「分からんぬかー」
教室の他の場所でも、勉強ができる側の人種が、できない側の人種に色々教えたりしているのだが、ほとりとクラス一のイケメン――一ノ瀬海斗の所だけはなんか異質だった。
海斗もまた、どこか独特の感性を備えているタイプの人種なので、最近では偶にほとりと共鳴してよく分からない空間を生み出している時がある。
放課後の今現在、一年Dクラスの教室ではテスト勉強会が行われていた。
事の発端は先日。
いよいよ来週に迫っている学年末テストに向けて、皆がそろそろ本格的に勉強始めないとやばいよなぁ的な雰囲気を醸し始めた頃合い、
「今回のテストマジでヤバな感じだから依人くん助けて! おこづかいなくなっちゃう!」
依人はクラス内でもかなり上位の成績を収めており、それを知る恋夏が依人に泣きついた。
という訳で恋夏への貸しもある依人はそれを快諾したのだが、「私も水瀬さんにはお世話になっているので協力致します」と、その話を聞きつけたほとりが声を上げた。
すると今度は、それを横で聞いていた海斗が「オレも助けて」と泣きついて、さらにそれを耳にした他の人物もどんどん話に入って来て、『じゃあもうクラス内で集まれそうな人みんなで集まって勉強会をやりましょうか』という事になった。
そして、ちょうどテスト開始日の一週間前――部活のテスト休みが始まる本日の放課後に、こうして大規模な勉強会が開かれている。
ざっと教室内を見渡すと、クラスメイトの七、八割くらいが参加していた。
個人的な用事で参加できず残念がっていた者もいたので、如何にこのクラスの仲が良いか分かる。
入学当初、真っ先に挙手してクラス委員長となった恋夏が、『だって自分が一年過ごすクラスだよ? 仲良くて楽しいあったかい場所にしたいよね』と、積極的にクラスメイトに声をかけて、ご飯会やらカラオケ会やらお出かけ会を開いていたのが大きな要因となっているのだろうが、それでも凄い。というか恋夏が凄い。
冬休み前まで、そんな恋夏の誘いを断り続けていた自分のことを思い返す。
別に、ひとりで過ごすということが悪いとは思わない。
その選択が正解となる場合なんていくらでもあるだろうし。事実、ああしてひとりで過ごし続けた時間があったからこそ、こうして今、今の中原依人がある訳だし。
ただ――。
あの日、依人が偶然落としたラノベのタイトルを偶然読み上げた彼女との――依人やほとりをすんなり受け入れてくれるこのクラスの雰囲気を率先してつくっていた彼女との――水瀬恋夏との偶然の出会いが無かったら、今ここにいる自分はいなかったのだと、改めて理解する。
神秘的な偶然と、神秘的な偶然と、神秘的な偶然と――でもそれだけではないナニカ。
「ありがとう、水瀬さん」
口の中だけで小さく呟いた依人の自己満足は、ノートと向き合ってうむうむ唸っている恋夏の耳に届くはずもなくて。
だから。
それが自己満足にならないよう、貸しがあるとか無いとかそういうのではなく、いつか恋夏が困っていたら全力で助けたいと、そんなことを何気なく思った。
そんなこんなでいつもとは少し違ったテスト準備期間が過ぎて行き、そしてテスト期間もあっさり過ぎて行き、学年末テストが終わった日の午後。
以前の約束通り、依人はほとりと一緒に日常系アニメの鑑賞会をしていた。
ソファの隣に腰掛けているほとりは、和やかな日常アニメをゆるく楽しむ雰囲気ではなく、メモ帳とペンを手に真剣な顔でモニターの画面を見つめている。
視聴の開始前には、「依人くんも何か気付くことがあったら教えてくださいね」と言われているため、日常を何たるかを分析すべく依人も真面目に気合を入れて視聴している。
時折、「今のシーンもう一度見ていいですか?」というほとりの言に従って、女の子たちが罰ゲームありのじゃんけんを賑やかに繰り広げるだけのシーンを十六回連続で見ることなどもあって、日常系ってこうやって見るもんなのか? と思ったりもしたが、そもそも純粋に楽しむ目的では見ていないので仕方ない。
それに、別に楽しくない訳じゃない。
こういう傍目にはちょっと特異に思われそうな光景こそ、依人とほとりの日常である。
そう。
こういうのこそ、今の自分たちにとっては当たり前すぎるほど何気ない時間で、
ふと頭に何かが引っかかった気がして、ハッと隣を見やれば、ほとりがかっくんカックンうつらうつらと船を漕いでいた。
口元からよだれまで垂れそうな気配がある。
「ほとり?」
ぴくっと肩を震わせたほとりが目を開いて、ふるふると首を振ってから依人を見た。
「すみません、気が抜けました。この脱力感こそ日常系の真骨頂かもしれません」
「そりゃ日常系だからな……」
眠気に抗ってまで日常系アニメを見ようとするほとりに少し呆れつつ、依人は言う。
「ほとり、またあんまり寝てないんじゃないの」
「そうですね。最近はテスト勉強もやっていたので」
テスト勉強〝も〟というこの発言は、その前に大前提として、彼女が自身の目的であるラブコメの追求や、作家としての仕事に使う時間を常に確保している、という意味である。
これに関して、依人は安易にもっと寝た方がいいよ、などと言うことができない。
空野ほとりがどこまでも真剣に日々を過ごしていて、それが彼女にとって非常に大切なことであると理解しているから。
だがそれはそれとして、ほとりの健康を心配する気持ちも大きい訳で。
だから依人は、ほとりの力になりたいと思う。
自分にできることがあれば、と思う。
最初は打算の割合が大きかった彼女への協力意識は、いつの間にか、それとは全く異なる神秘的な色合いを持つようになっていて。
ほとりには世界で一番しあわせになってほしい――と、ただただそう思うのだ。
「そんな状態で見ても集中できないと思うからちょっと休んだら……? 何ならアニメは俺が見といて、なんか気付いたことがあったら教えるし。また今度、一緒に見てもいいし」
ほとりは少しの間無言で依人を見つめてから、「そうですね、ありがとうございます」と頷いて、くぁっと無防備なあくびをこぼした。
「それでは、ちょっと寝ます」
ぱすん、と。
あまりに呆気なく、さも当たり前かのように、ほとりが依人の膝の上に倒れてきた。
「え」
驚いた依人がその状況を呑み込むのに十数秒ほど要したのち、膝の上にあるほとりの顔を見るともう寝ていた。くぅくぅと安らかな寝息を立てている。
早すぎる寝入り。
やはりだいぶ疲れていたのだろう。
そして――。
これは……、日常では――ない。
腿に直に感じる彼女の体重と、無警戒にも程がある安心しきった寝顔。
ほとりに触れないよう空中に両手を留めた状態で硬直している依人。
モニターに流れ続けるアニメは、主人公を含む女の子たちが新しく知り合った子と親睦を深めようということで、カラオケに行くシーンになっていた。
ほとりを起こさないようにと、下半身を動かさないままプルプルと手を伸ばして、指先ギリギリ限界の所にあったリモコンを回収して音量を下げる。
膝の上のほとりを意識し過ぎないようにと意識し過ぎて、ぎこちなく固まった体勢でアニメに集中するフリをする依人。
そうしている内に、依人は改めて気付くことがあった。
日常は別に、変わらないものではない。
――あぁ、きっと。
良くも悪くも、そこに起こった変化が己の日々に定着して、〝変わらない〟とまで思えてしまうような変化のその後を、暫定的に〝日常〟と呼んでいるに過ぎないのだ。
日常系と呼ばれる作品は、そういう変化が――それもあとで振り返って良かったと思える変化ばかりが、あまりにも緩やかに起こっているから――。
だから、最後にしあわせな結末を迎える物語が奇跡であるように、しあわせな変化を起こし続ける奇跡を描いているのが、日常系というヤツなのかもしれない、と。
ちょっと大げさすぎるかな、と自らの思考に苦笑して、
そういうしあわせな日常は紛れもない奇跡なのだから、それと似たような日常らしい日常を書くことにほとりが苦労するのも無理はないのかもしれない、などと思ったりもして、
膝の上に落ちてきたこの変化に、泣きたくなるほどの愛おしさを感じながら――。
依人はそっとほとりの頭に手を置いて、その綺麗な髪を梳くように、優しく撫で続けた。
約一時間後、スッキリした顔で起きたほとりが依人に言った。
「依人くん、私は不思議な夢を見ましたよ」
「どんな夢?」
「私と依人くんがトラックに轢かれて異世界に転生する夢です」
「ヤバいな」
「ヤバかったです」
「で。どうだったの、それは」
「はい。私と依人くんは救世の勇者として選ばれ、波乱万丈な大冒険を繰り広げた末に、闇落ちして魔王になっていた水瀬さんを倒しました」
「えぇぇぇ、た、倒したの……?」
「倒してしまいました……。でも、ああするしかなかったんです。本当の意味で水瀬さんを救うには、ああするしか……」
「えぇぇ……」
「そして目が覚めた今、私はほっとしています。夢で良かった、と」
「うん、間違いないな」
「そして私は、こうも思います。明日からも続いていく、私の、この大切な大切な日々において――」
コクコクと頷いたほとりは、胸に手を当て、とても真面目な顔で言う。
「――事故には気を付けよう、と」
「……間違いないですね」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます