神秘的な偶然に運命と名付けるのは振り返ってからでもいい。というかむしろそういうもんでしょ? だよね?〈3〉


 その後ひと段落付いて、何気ない雑談を少し挟んでから、依人が明日か明後日あたりに実家に帰省するつもりだ、と話したところ、ほとりが「ふーむ」と唸った。


「耳が痛いですね」


 そうしてほとりが語ったのは、ほとり自身の家庭の事情。

 どうしてほとりが夏休み明けに転校してきて、一人暮らしをしているのか、という話。


 ほとりの実家は何というかやはり格式高くお金持ちの名家で、元々ほとりがミステリ作家として活動することも彼女の父親は快く思っていなかったらしい。ほとりの作家活動も、大学を卒業するまでという制限付きで許されていたもので、彼女もそれを納得していた。

 ……のだが、ほとりが母の遺した『世界一しあわせなラブコメ』のプロットを偶然見つけたことで暴走。ラブコメを書くプロのラノベ作家として生きていくと父親に宣言したところ、かつてないほどの勢いでブチギレられて、しかし一歩も引かなかったほとりは、そのまま実家との縁を切って家を出て、母の母校でもある朝ヶ丘高校に編入してきた……と。


「強すぎる……」


 依人が同じ立場でも、絶対にそんな選択はできない。

 あとたぶん、ほとりを本気で怒らせたら絶対に怖い。たぶん、絶対。


「私には運の良いことに、作家としての稼ぎと貯金がありましたので、たぶんいけるだろうと思ったんですよね。でも実際には、ひとりだとラブコメのことは何も分からなくて、ひとり暮らしも散々でした。……ですので、中原さんには本当に感謝しているんです」


 ほとりは苦笑を漏らす。


「私もいつか、しっかり父と話をする必要があるとは思っています。ですがお恥ずかしいことに、今すぐそうしようという気には……なれません」

「うーん……。そういうのもやっぱり、人それぞれだと……思う。俺も実際には、家族とまともに関わらないまま四年以上経ってるわけだし……」


 ゆっくり、少しずつ、時には後ずさることがあったとしても、またいつか前に進めるならそれでいいんじゃないだろうか――と。


「そういうことに、しといたら……?」

「はい。そういうことに、しておきます」


 互いに微苦笑を交わす。そこでふと、ほとりは改まった様子を見せて、


「それでは中原さん、他に何か、私に聞きたいこと、もしくは言いたいことなど、ありますか?」

「え? あー……そう、だな」


 ほとりと仲直りすることもできて、前から気になっていた彼女がひとり暮らしをしている事情も知れたので、


「今は特に、ないかな」

「そうですか? では私の方から二つ、いいでしょうか」

「え。な、なんでしょう……。二つ?」


 こうも改まった感じで言われるとなんか怖い。

 ほとりの場合、次に何をするかまだ読めないところがあるので、割とそこそこ怖い。


「私たち、すれ違ってましたよね」

「え? あ、はい。うん」

「でも、ちゃんとお互いの事情を把握して、謝罪と感謝を伝えて、仲直りできましたよね」

「そう……ですね」

「ラブコメなどだと、こういう障害を乗り越えたふたりは、以前よりも深い絆で結ばれることになります。そういうオチってヤツです」

「そ、そうですね」

「したがって、私たちの関係性もそのようになると思うのです」


 めちゃくちゃ真面目に語っているほとりだが、依人の方はだいぶ恥ずかしい。


 現実の中には物語があって、物語の中にもまた現実がある訳だが、自らの現実を進んで物語の方に寄せに行くのはちょっと……いや、結構イタくないだろうか、と。


 それを言うなら、ほとりが自らの現実をほぼそのまま物語に押し込んでラブコメ化した時点で、既にアレな気もするが。


 しかし、ほとりにとってそんなことは関係ないようで。


「そして私は、それを証明するような証が欲しいと思っています」

「…………証?」

「はい。私と中原さんの仲が、以前よりも深いものとなったことを証明する証です」


 非常に真剣な顔で滔々と言い述べたほとり。


 ――俺と空野さんの仲が深いものになったことを証明する証。……証? え、証?

 なんだ、証ってなんだ、何なんだ一体。――え、マジで何。え。え。


「――そこで私は提案します。お互い、下の名前で呼び合いませんか?」


「…………………………、あー……」


 そういう。


 もっと別のものを想像しかけていた依人は、己を戒めると共に冷静さを取り戻す。


「以前にも話したことですが、私と中原さんのキャラでは、誰かを下の名前で呼ぶと特別感が出てしまいます。しかしここで、あえてその特別感を出していきましょう」

「……」


 どうしてこの子は、わざわざ補足を加えて大仰な痛々しさを醸してしまうのか。


 羞恥に見舞われた依人が顔を手で覆っていると、指の隙間から覗けるほとりが、ちょっといじけたような顔で、ポツリと言う。


「……水瀬さんや小林さんばかり、ずるいと思うんです」

「……」


 ――その表情の方がズルくない?


 ほとりの可愛さに充てられて、こみ上げる感情におかしくなりそうな依人が必死に自分を落ち着かせようと黙っていると、その沈黙を別の意味で受け取ったらしいほとりが、不安そうにおずおずと、上目遣いで依人を見る。


「……ダメ、ですか?」

「よいと思います」


 即答した。非常に卑怯な魔法を喰らった気もするが、ほとりが可愛いので何も問題ない。


 ぱぁと顔を明るくしたほとり(かわいい)が、少し弾んだ口調で言う(かわいい)。


「私は、依人くんがいいです。いいですか?」

「よいと思います」

「では、依人くんも……」

「え。……あー…………、えっと、ほ……、ほとり……?」

「依人くん、もう一度ちゃんと呼んでください、依人くん」

「……ほとり」

「はい」


 満足げに頷いたほとりは、照れが隠しきれないようなはにかみ笑いを浮かべて、どこまでも綺麗に、眩しく――。


「家族以外に名前を呼び捨てされるのは初めてなので、やっぱり照れてしまいますね」


 ――あ、ヤバ。マジでかわいい。え、ヤバ。え??? 可愛すぎる????


 ついにおかしくなった依人が、脳内で何重ものエコーがかかった『ほとりかわいい』を奏でていると――


「それでは依人くん。二つめについて、ですが」

「――――」


 そういえば、二つだと言っていた。


 そしてその二つ目の正体が全く読めない。怖い。依人は少し冷静さを取り戻す。


「私たちの今後の関係をどのように扱うか、という話です」


 若干の照れを頬の色に残しつつも、また真面目な顔になったほとりが依人を見つめる。


「……俺たちの関係?」

「はい。これまでの私たちの関係についてですが。母が遺したラブコメを最高の形で完結させるという大きな目標に基づき、ラブコメに関する理解を深めるため協力を求めたのが私で、それに応えてくれたのが依人くん、という感じでした。この協力関係ですが、結局のところ利害の一致で繋がりを得ているに過ぎません。利害の一致というのは非常に分かりやすい繋がりですが、一度それが途切れてしまえば、もうそこで終わってしまう脆いものでもあります。理屈で言い表せてしまう以上、時には代替さえ利いてしまいます」


 ほとりに協力するのは――別に自分じゃなくたっていい。

 ほとりとすれ違っていた時、自棄になっていた依人は確かにそんなことを思った。


「しかし依人くんと離れていたこの数週間、私は思いました。私は依人くんじゃなきゃダメだ、と。私は依人くんが良い、と。私はこれからも依人くんと一緒にいたい、と。これは理屈ではありません。そんな風に思ってしまった以上、どうしようもないものなんです。故に私は、ここで一度ハッキリさせておくべきだと思うのです。私たちの関係は、単なる協力関係などではなく――――……依人くん?」


 ソファの隅に顔を埋めて発狂まがいに悶え始めた依人に、ほとりが首を傾げる。

 ようやくまともに声を発せるようになった依人は息を切らしながら、「すみません。つ、続きをどうぞ……」と、どうにかその言葉を絞り出す。


 名前を呼び捨てにされた時は照れていたほとりだが、今の台詞の中にほとんど羞恥の色は見られず、淀みなく発せられたそれが依人に怒涛と浴びせられていた。


 ほとりが恥ずかしがるポイントがまたよく分からなくなった。


 ほとりは依人が落ち着いたのをちゃんと確認してからコクンと頷くと、


「そんな訳で、これからの私たちの関係についてですが――」


 ピッと人差し指を立て、どことなく得意げに口を開いた。


「――差し当たっては、『友達以上恋人未満』という所で、如何でしょうか?」


「…………………………え」


「『友達以上恋人未満』です。よく言いますよね」

「自分から言い出す人はまぁいない気がするけど?」


 一周回って冷静になっている依人(なお顔は赤い)が粛々と突っ込めば、


「しかし私は、こういうのはどこかでハッキリさせておかないと気が済まないのです」

「済まないのですか……」

「済まないのです」


 済まないらしい。


「流石に、この時点で交際等を開始するというのは急ぎ過ぎだと思うんです。色々あったとは言え、私と依人くんはまだまともに知り合って数か月。熱しやすい関係は冷めやすいとも言いますし、まずは徐々に温めていくべきだとも思うのです。しかし、友達だけだと何か物足りないですし、親友というのも違和感があるので、『友達以上恋人未満』で如何でしょう? という話です」


 ――こいつ無敵か?


 揺るぎない意志を感じさせる瞳で見据えられて、依人はもう勝てる気がしなかった。


 かと思えば、硬直している依人にふっと不安そうな表情を浮かべたほとりが、


「……ダメ、ですか?」

「よいです。行きましょうそれで。行っときましょう」

「ほんとですか?」

「はい」


「――それだけ、ですか?」


「え」

 依人、再び硬直フリーズ


 今度のほとりは、またいじけたような顔になっていた。


 ちょっぴり唇を尖らせて、ちょっぴりむくれて、あからさまに拗ねていた。その上で、彼女が依人を見つめる瞳は、冷ややかだった。


 ――――え。


 重々に熱されて何ならしあわせの極みと言っていいほどの浮かれた感情に支配されていた依人の身体が、一気に氷点下まで落ちた。


 どことなく、これを間違えたら冗談じゃ済まなくなる気配を鋭敏に感じ取った。


 年齢=恋人いない歴(童貞(ヘタレ))の依人がそれに気づくことができたのは、これまた奇跡と呼ぶべきか、それとも長年ラブコメを読みこんできたお陰か。


 どちらにせよ、この刹那、全力全霊で思考を回しまくった依人は、ギリギリのところで、この場において何より一番大切な正解ソレに気付く。


 ほとりはちゃんと口にした。だから、依人も――――


「――俺も、ほとりじゃなきゃダメだ」


「俺も、ほとりが良い。――俺も、これからもほとりと一緒にいたい」


 顔を真っ赤に染めながらも堂々と言い切った依人に、ほとりは嬉しそうな顔で頷いて、同時にそれは酷く安堵したような顔でもあった。


 そして依人は付け加える。先に言われっぱなしでは、こちらとしても面目が立たない。


「――――俺は、ほとりが好きだよ」


 途端、驚いたように目を見張ったほとりの顔が、ほんのりと色付いた。


 くすぐったそうに身をよじったほとりは、そわそわと落ち着かなさげに、チラリ、チラリ、と依人へ視線を送る。


「ね、熱しやすいのは冷めやすい……って言いましたのに、まったく、しょうがないですね依人くんは……」


 ――あなたがそれを言いますか。


 依人が内心で淡々と突っ込んでいると、頬の火照りを残したままのほとりがついっと近付いてきて、息が触れ合うような距離で、しあわせそうな微笑みを浮かべて――



「――――私は、大好きですよ」



 ――――あ、これはダメだ。



 ――など、と。


 そんな風に依人がほとりに完落ちした所でオチを付け、一度幕引きに入らせて頂こう。

 二人とも完全に忘れている、ほとりが書いた『世界で二番目にしあわせなラブコメ』のラストシーンについては、このあと長らくほとりと無自覚にイチャついてから帰宅した依人が、ラストまで読んで計五回リアルに叫んだ――という情報だけ添えておいて、その詳細は後日談に回すとしよう。


 さて――。

 幕引き前に最後にもう一つだけ、これからの彼と彼女について曖昧な予知をしておく。


 確かな〝ナニカ〟に憧れつつも、ソレに憧れる自分にすら気付いていなかった彼と彼女は、神秘的に偶然な出会いを果たし、時にはすれ違いつつもお互いを知り、助け合い、支え合い、共に大きく前へ進んだ。


 そうして歩んだ道のりを振り返れば、彼と彼女はソレに正道と名付けるだろう。

 あぁ――。俺は――、私は――、正しく進むことができた。


――果たして、彼と彼女は自覚しない。


 その正道は、これからの歩み方次第でいくらでも意味が変わってしまうということに。


――果たして、彼と彼女は疑わない。


 ひとりではない明日からの日常が、間違いなく正しい形であることを。


――果たして、彼と彼女は気付かない。


 この世には、確かに〝ソレ〟が存在しても、〝確かだった〟ナニカは存在しても――、


〝確かな〟ナニカなんてものは、どこにも無いことに。


――――否、本当は知っているはずなのだ。 


 ハッピーエンドのそのあとにも世界は続いていく――という、至極当たり前の事実を。


 それを知っているからこそ、ほとりが書いた『世界で二番目にしあわせなラブコメ』のラストはあんなことになってしまった訳だが……。

 とても不思議なことに、ヒトというのは我が事となると、無自覚無意識の内に、時には必要以上に悲観的な、時には恐ろしいまでに楽観的なものの見方をしてしまう生き物で。


 ――果たして、彼と彼女は信じている。――ただ、無自覚無意識の内に、信じている。


 お願いだからそうであって欲しい――と。


 現実を知っているからこそ、無自覚に無意識に、狂おしいほどひたむきに――そう願う。

 これから歩む自分たちの日々が、しあわせなまま続いていくという途方もない奇跡を。

 途方もない――普通に考えればあり得ない奇跡を。


 ここで唐突ながら、この後日の出来事から先んじて一つ抜粋させて頂く。

 冬休み明け、依人はようやくクラスメイトに自ら歩み寄って、少しずつ知り合いや友人を増やしていく訳だが、その過程の二月頭、距離の詰まった恋夏からこんな提案をされる。


『ねぇ依人くんっ。そろそろさ、あたしのこと恋夏って呼んでくんない? なんかあたしだけずっと依人くんって言ってるとさ、なんか距離感じちゃうなぁ~、さみしいなぁ~』


 依人に視線を送る恋夏。

 チラっ、チラチラっ。


 恋夏の台詞はほぼ額面通りであり、それ以上の他意は特にない。


 しかし、この時にはもうラブコメに脳を侵されて手遅れとなっている上、現実と物語ラブコメを混同しがちなほとりは、そこに余計な意味を見出した。


『あー、じゃぁ。こな――』と、若干の照れを抑え込みながら、妙な意味が出ないようにサラリと言いかけた依人を、ほとりは廊下へ引きずり出して二人きりの空間をつくってから、滔々と言い述べる。


『小林さんはもう仕方ないと思うんです。だって〝幼なじみ〟ですから。そして〝幼なじみ〟であれば互いに下の名前で呼び合っても特に特別な意味が生まれないことを私は理解しました。しかし、ここで依人くんが水瀬さんを下の名前で呼んでしまうと、依人くんが私を下の名前で呼んでくれる特別感が薄れてしまうと思います。もちろん私が依人くんの意志を強制する訳にはいかないのですが、私個人の意見としては、もう少し慎重になって頂きたいとそう思っています』


 ちょっと怒っていた。というか拗ねていた。


 友達以上恋人未満を自ら提案しておきながら既に相当めんどくさいカノジョみたくなっているほとりに、しかしそんなほとりに完落ちしている依人は、拗ねてるほとりもかわいいなぁ……、という脳細胞が死滅した思考を添えて、ほとりの言うことも一理あるな、うん、とナチュラルに納得して、拗ねるほとりを全力で宥めにかかった。


 もうダメだ。


 この一例から推察されるように、加速度的に深淵なる深みに沈み始めている二人のこれからについて、今後の二人がもうすれ違うこともなく、周りを巻き込む波乱もなく、どこまでも楽しく、しあわせなまま歩き続けていく――という奇跡は、まず間違いなくあり得ないだろう。

 どんなに彼と彼女が冀ったとしても、まあ、あり得ないだろう。


 そう。しかしながら、そうと断言できる訳でもないのだ。


 もしかしたら――もしかしたら、この地球に人類が生まれたのと同じくらいの奇跡が――神秘的な偶然が起こるのなら、あり得るかもしれない。


 だってそうだろう?


 空野ほとりを最初に見た時、彼女と自分が関わる未来はまず間違いなく訪れないと確信して、彼女と関わる未来に期待も望みも抱いていなかった中原依人が、〝こんなこと〟になっているのだから。


 だから結局、曖昧である。曖昧なのだ。


 ハッピーエンドのそのあとは、あとになるまで分からない。


 だがしかし、仮にその途中でまたすれ違うことがあったとしても、躓くことが、間違えることが、後ずさってしまうことがあったとしても――

 最後の最期のさいごには、彼と彼女と――彼らと彼女らがたどり着くその場所に――


 確かにしあわせな〝ナニカ〟かがあるのだ――――と。


―――そんな神秘的な偶然を信じて、狂おしいくらいどうしようもなく、願ってみよう。


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