神秘的な偶然に運命と名付けるのは振り返ってからでもいい。というかむしろそういうもんでしょ? だよね?〈1〉


 柚月との会話を終えた日の夕刻、依人は緊張と不安とよく分からない感情の奔流に呑まれながら、冷や汗を垂らして心臓の痛みに呻きながら、ほとり宅のインターホンを押した。


 ピンポーン。


「………………………………………………………………………………………………………」


 出ない。…………もう一度、押してみる。


 ピンポーン。


「………………………………………………………………………………………………………」


 出ない。


 依人の心臓が訴える痛みが増す。……あッ、お腹も痛い!

 もしや……? と思って、依人はドアノブに手をかけてみる。


 ガチャガチャ。しっかりとカギがかかっていた。……えらい。


「………………………………………………………………………………………………………」


 ――え、どうしよう。


 いよいよもって、依人が現実を遠ざける原因となった過去の清算も終えたというのに。


 実を言うなら、依人が拒絶し続けた母親や義父、義妹とも先に話を付けるべきなのだとは思うが、それをしていると依人の我慢が持たない。

 ……ので、明日か明後日あたり、年末年始にすら帰らなかった実家に帰省するつもりではあるのだが。


 ともかくとして、依人は一刻も早くほとりに会いたかった。


 しかしインターホンを押しても反応が無い。マジでどうするよ、これ。


 ほとり宅前で不審者のように右往左往する依人。ようにというか、完全に不審者だった。


 ――あ、外出中かな。


 普通に考えれば分かること。家にいないから返事が無い。至極全うに辿り着ける推理だ。


 だったら彼女が帰ってくるまでここで待ってるかな――と、ナチュラルにヤバいストーカーめいた思考を依人が巡らせ始めた時――


 が、ちゃ……、と。静かな音を立て、そろそろと扉が開いた。


「――――」

「…………」


 扉の隙間から現れたほとりは、酷く眠たげで疲れている様子だった。


 明らかに、たった今まで寝ていたのだろうと分かる風体。

 髪はボサボサの寝癖が付いていて、まぶたは八割ほど閉じたまま、顔にはシーツの跡、寝巻きもシワだらけである。


「…………ぁぃ」


 夢の中から響いたようなふにゃふにゃ声が、ほとりの口端からこぼれ落ちた。


「………………?」


 だが、ゆっくりと顔を上げて、依人の顔を捉えたほとりの瞳が、徐々に見開かれる。


「…………!?」


 不意にハッと、ほとりが目覚めた。

 パチパチと目を瞬かせて混乱しているほとりは、ハッと我が身を見下ろして、ハッと自らの頬に手を当て、ハッと自分の髪に手をかけ、すんすんとにおいを嗅いだりして――。


 そのまま五秒ほど機能停止したほとりは、再び依人に視線を戻すと、我が身を抱きしめるようにしながらゆっくり……、ゆっくりと家の中に戻っていった。


 ……ガッ、チャン、と。無慈悲な施錠音が静かに響く。


「――え」


 あ、死のうかな――と、錯乱した依人が早まりかけていると、再びそぉっと扉が開く。


「し、しばらくお待ちください……」


 消え入るような声がして、また扉が閉まり、ガチャンとカギがかけられる。

 再び扉が開いたのは、寒空の下で依人が凍えかけた約四十分後のことだった。




 再び依人の前に現われたほとりは、シャンプーなのかボディソープなのかリンスなのかボディクリームなのか何なのか分からないが、とにかく艶っぽく甘い香りを漂わせていた。


 急いで乾かしたのであろう髪はまだ少し湿っているもののまっすぐ梳かれていて、服装は寝巻きからスウェットに変わっていた。


「先ほどは、大変はしたない姿をお見せしました……」


 大変な暴れようを見せているリビングルームの有様などを見て、今更じゃね……? と思った依人だが、よくよく考え直すと、あそこまで乱れているほとり自身の姿を目撃したのは初めてである。


『大変はしたない〝姿〟』というほとりの発言もあり、なんとなく彼女の中で重要視されている基準が見えてきそうだが、ひとまずそれは置き。


「ごめん、寝てたんだよな……」


 ソファに並んで座ったのち、そう謝った依人に、ほとりは「いえ」と首を振る。


「昨日の昼からずっと寝ていたので、むしろそろそろ起きた方が良かったというか。起こして頂いて助かりました」


「昨日の……、昼?」


 聞き間違いだろうか。それだと軽く24時間以上寝ていたことになるが。


「はい、昨日です」

「人間ってそんなに寝れるの……?」

「私は、過去に50時間ほど寝たこともあります」

「え、こわ」


 素の声が漏れた。


 この冬休みはだいぶ怠惰に過ごしてしまった依人だが、それでも12時間以上の睡眠を取ったことはなかった。そんな依人からすれば、未知の生態である。


「もしかして、あの小説を書いてて全然寝てなかったとか……?」

「はい、そうです」


 淡々と頷いたほとりだが、その裏に隠された苦労の一端が垣間見えた気もする。


「……読んで、いただけましたか?」


 窺うように依人を上目で見るほとり。


「あー……、まぁ、うん。読んだよ」

「どう、でしたか?」

「えっと、その前に一つ聞いてもいいかな」

「はい……? なんでしょう」


 これから依人がほとりに言おうとしていることは、ほとりが書いたあのラブコメの主人公とヒロインのモデルが、ほとりと依人である――ということが前提なのだ。


 ほぼほぼ確信している事実だが、一応、確かめておく。


「あのラブコメの二人ってさ、完全に空野さんと俺、だよね……?」

「!?」


 限界まで目を見張ったほとりが、ワナワナと震え始める。


「ど、どうして、それが――」


 完全犯罪を確信しているのに真実を名探偵に見抜かれた犯人みたいな反応だった。


「いや……。だってほぼそのまんまだし……」

「そん、な……」


 いやそんな『なん、だと……』みたいな反応をされても、と逆に反応に困る依人。

 てっきり依人にはバレることを前提で書いたのだと思っていたが、どうにも違うようで。


「だ、だって、だって、色々変えました、よ……?」

「確かに変わってはいたけど……」


 性別とか設定とか、色々。でも本質というか、キャラの一番重要なところがほぼ変わっていなかったというか。


 くっ、と歯噛みするほとり。


「ラブコメマスターの中原さんの目を欺くのは、無理でしたか……」

「勝手にそんな称号付けないで?」


 貰っても絶妙に嬉しくない称号に依人が複雑な顔をしていると、段々とほとりが挙動不審になり始めた。かつてないほど視線が泳いで、頬に冷や汗が伝っている。


「空野さん……?」

「た、確かに、大地とさよりのキャラ造形は、私と中原さんを元にしました。そして私が執筆したあのラブコメは、中原さんと経験した物事を非常に参考にさせて頂いた部分が多いので、尚更そのように思われてしまうのも仕方ないかもしれません。ですが私と中原さんと、大地とさよりは、やはり別、と言いますか……。ですので、あの、はい、私は――」


 ――なんだ……?


 どうにも、慌てまくっているほとりと依人の間に認識の齟齬があるように思えた。


 自分で書いたラブコメの登場人物が、自分と知り合いをモデルにしたものだとバレる――というのは、依人はそういう創作をしたことがないので分からないが、まぁ、かなり恥ずかしいことなのだろうとは想像できる。


 しかし、依人がほとりに協力することが決まって早々、あの恐ろしいラブコメ寸劇を依人にやらせたほとりの反応としては、少々不可解な気もした。


「―――です、ので、あのラストのシーンに関しては、単に、ラブコメライトノベル作家としての母が創り出していたあのすてきな世界の次元に少しでも近づけるように、と。私がラブコメの作り手としてより良い成長を得られるようにと、あくまで一作品として綺麗にしあわせに完結させるべく、作品としての完成度を追求しただけなので、特に私は――」

「あ、俺まだ最後までは読んでない……」

「え」

「え?」

「あ」

「…………あ。……ん、え?」

「読んで、ないんですか……?」

「え、えっと、ごめん。ほとんど終わりの方までは読んだんだけど、色々あって」

「……読んで、ないんですか?」


 スッと距離を詰めて座り直し、見開いた瞳でじぃーっと依人を見つめるほとり。


 なんか怖い。


 当惑した依人は、ほとりに威圧されるまま恐る恐る立ち上がって、


「え、読んできた方がいい?」

「わーっ! ちょっと待ってくださいっ」


 今まで聞いたことがないような大声と共にほとりが跳び付いてくる。

 どーんっ、と。ほとりに押し倒された依人は、そのままほとりに上から覆いかぶさられているために、ソファから起き上がれない。


 ――……逆じゃね?


 ラブコメに脳が侵されている依人は咄嗟にそんなことも思ったりした訳だが……。

 風呂上がり感満載のほとりが、上下スウェットのみの姿で密着しているという事実が。


 ――ちょ……っ、やわらか! ……えっ!? やわらか!?


 対面で押し付けられるほとりの体のやわらかさに、一瞬だけ煩悩より先に驚愕が打ち勝った依人。

 しかしすぐに、男性的生殖本能を刺激しまくる情報の洪水が襲い掛かってくる。


 やわらかいあったかいいにおいやわらかいいにおいあつい……えっおっぱいでかくね?


「わーっ! 待って待って空野さん待ってッ! 色々ヤバいから!!!」

「大丈夫です……ッ、ご安心ください。実践の経験こそまだありませんが男性の生理現象については重々理解しています、ご安心ください」

「安心できねぇ!?」


 その後数分間、わーわー騒ぎながら取っ組み合いを繰り広げた依人とほとり。

 最終的に、ソファの両端に座って息を切らしながら向かい合った状態で落ちついた。


「わ、分かった。とりあえず俺はどこにも行かないから、ちゃんと、落ち着いて話そう」

「そ、そうですね……」


 すうはあと荒くなった息を整えて、真っ赤になった顔をそれぞれ明後日の方向へ向ける二人。

 お互い、たった今の痴態にはもう触れず、むしろ無かったことにするように早口で会話を進める。


「話を戻しましょう。中原さんは、私の書いたラブコメを最後までは読んでいないということで、いいんですね」

「はい……、読んでません」

「それはどうしてでしょうか? 面白く……なかったですか?」

「いやそういう訳じゃなくて。すごい普通に……いや普通っていうのもなんかアレなんだけど、そうじゃなくて、空野さんが最初に書いてきたアレと比べると……」

「アレとは、『ライトノベルラブコメ実体験用試作脚本』のことですか?」

「……そうです。あの時のアレと比べると、普通にラブコメで、ちゃんと面白かった」

「普通にラブコメで……、ちゃんと……、ですか」


 どことなく不満げで、ムッとした顔になるほとり。


「……」


 ほとりの表情が意味するところを依人は察するが、ラブコメマスター(ほとり命名)として、あるいはラブコメのそこそこかなりめんどくさいオタクとして、本心を偽ったお世辞を口にする訳にもいかない。

 それに、ほとりもそれは望まないだろう。


「…………」


 気まずい沈黙がしばらく続いたのち、ほとりの纏う気配からふっと緊張が解かれる。

 それでもまだ、どこか冷えた雰囲気は残っていて、


「なるほど、了解致しました。ご感想ありがとうございます。もっと詳細にお聞きしたい所ではありますが、それより先に、中原さんが色々あって私の小説を読み切ることより優先した、という〝色々〟についてお聞きしましょうか」

「…………空野さん、怒ってる?」

「怒ってませんよ、今は」


 今は。


 ほとりが怒ったら一体どうなるのだろうか……と、怖い物見たさ的な好奇心がつい湧き上がってしまうも、流石に怒らせる訳にはいかない。


 そこで依人が恐る恐るほとりを見やると、彼女は微笑んでいた。

 予想外の表情に依人が面喰って目を丸くすると、そんな依人の反応に気をよくしたように、ほとりがくすりと笑みをこぼす。


「だから、ちゃんと話してください」


 ――あぁ。


 そして依人は確信するのだ。あぁ、本当に――――と。

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