彼の現実〈4〉
居ても立っても居られなくなった依人は、その小説を脇に置くと、涙と洟でぐちゃぐちゃになった顔を拭って、コートも羽織らずに家を飛び出した。
すぐ隣にある彼女の家のインターホンを押そうとして、その寸前で依人は踏み留まる。
――これはまだダメだ。
彼女に会う前に、依人が生きるこの現実を〝ソレ〟に導くためには、例えそれがどんな痛みを伴うものだとしても、諦めず進むべき道がある。
依人は自宅に戻って、震える手を抑えつけてスマホを掴み取ると、入学当初に流れで交換して以降、自分からは一度も使ったことが無いその連絡先に――電話をかけた。
数度のコールを経て、通話が繋がる。
『…………依人、くん?』
「あ。……あ、水瀬さん、いきなりでごめん。あと、この前のことも、本当にごめん……」
すると通話口の向こうで、恋夏の驚いたような息遣いが聞こえた。
しばらくの無言を挟んだのち、ふっと軽い声で恋夏が言う。
『んーん、全然気にしてないよーっ……、って言えたらよかったんだけどねー。でもそれを言っちゃうとウソになっちゃうから、今度依人くんが何かお詫びしてくれるって言うなら、許したげたる。あと、あたしもあの時依人くんの気持ちをちゃんと考えられなくて焦ったことしちゃったと思うから、ごめんなさい……。うんっ。だから今度、お詫びします』
ふふっ、とからかうような笑い声がした。
あぁ、これが陽キャのやり方か。敵わないな……と、依人は微苦笑を漏らす。
でも、だったら依人には、依人のやり方があるのだ。
「うん、お詫びもするし、お詫びもされます。……それで、それとは別に水瀬さんに頼みたいことがあるんだけど」
『うんうんっ、なにかなっ? 貸し一つで何でも聞いたげます。あっ! でもエッチなお願いはしちゃダメだよ!?』
「するか!」
『そう? けどこの前ほとりちゃんに似たようなこと言った時、『水瀬さんのような美少女がそんなことを言うとエッチな要求をされるので気を付けた方がいいですよ』って言われたんだよねー』
一体ほとりと恋夏はどういう会話をしてるんだ……と思ったが、そこに突っ込んでいると話が逸れそうなので、一度咳払いをした依人は、真面目な声で言う。
「……俺さ、柚月と直接会って話したいことがあるんだ。だから――」
その翌日、柚月の連絡先を知らなかった依人は、恋夏に仲介役となってもらって取り付けた約束の場所に向かった。
そして、冬休み前に依人が柚月と再会した街にある、とあるカフェのテーブル席にて、依人は柚月と向かい合う。
「えっとー。そんで、依人から何か話したいことがあるみたいだけど?」
ひと房取った自分の髪をいじりながら、あまり気負った様子もなく首を傾げる柚月。
だけどそれは、きっとそんな風に見えているだけだ。
冬休み前、柚月と再会して言葉を交わしたあの時、依人の目には柚月が何も気にしていないように見えた。普通に笑っていて、まるで過去の事なんて大したことでもなかったように。
でも、違う。
単に久しぶりに顔を合わせた依人には分からなかっただけで、恋夏の目から見れば、あの時の柚月は変だったという話だ。
依人がほとりのことを知っていくにつれて、彼女の表情豊かな一面を感じ取れるようになったのと同じ、あるいは逆のこと。
なぜなら、依人は柚月のことを知らないから。
もうダメだと決めつけて、それを見ようと、知ろうとしなかったから。
そしてそれは、過去の――あの時の依人や彼女にとっても、たぶんそうだった。
だからヒトは踏み込むのだ。それを知るために。すてきなソレを引き寄せるために。
そして、それが正しかったと分かるのは全てが終わったあとになってからで、今の自分が歩いている道が正解かどうかなんて分からない。
正しい道は――王道は、確かにある。
でもそれは、必ずしも目の前に示されているものではなくて、存在するのかどうかすらも分からなくて――。これでいいのかと不安と痛みを抱えながら、それでも諦めず進み切った者にだけ、そうと名付けられるものなのだろう――と。
なんともまぁクサいことを考えてるな……と、内心で苦笑しながら、
綺麗ごとをただ無垢に〝綺麗〟と述べて書き切った彼女に、狂おしいほど憧れてしまった依人は、その保証なんてないけれど、この現実もそんな風にあって欲しいと願いながら、
随分と後ずさりしてしまったこの道を、また一歩、前に踏み出す。
柚月との話を終えて、別れ際。
依人と柚月は互いに少しぎこちなく笑って、あたかも普通に手を振り合った。
色々あったけど、まぁ、これからもよろしく――と。
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