彼の現実〈3〉
そうして始まった冬休みは、どういう訳か夏休みより長く感じられた。
中原依人の高校最初の夏休みは――バイトがあるか否かという一要素を除けば――中学生の頃の夏休みと何も変わらずあっという間に過ぎ去った。
そしてその夏休み明けに、空野ほとりは転校してきたのだ。
貴重な冬休み。
家でひとり、今までのように――ほとりと出会う以前と同じように、ラブコメ系のラノベをめいっぱい楽しもうとしても、純粋に読むことができない。
ページをめくる手が、遅々として進まない。
ラブコメにありがちな定番のアレコレを目に通すたびに、――あぁ、ほとりとこんなことをやったな、だとか。
こんなことを話したな、だとか。
あ、これについて今度ほとりに教えてやろう、だとか。
これについてほとりと話してみよう、だとか。
空野ほとりは今、どこで何をしているのだろう――だとか。
そんなことばかりが頭にチラついて、一向に時間が進まない。
一日とは、こんなに長いものだったろうか。
ひとりで食べるご飯は、こんなに味気のないものだったろうか。
ひとりで過ごす時間ってヤツは、こんなにも――。こんなにも――――――
クリスマスが過ぎて、大晦日が過ぎて、年が明けて、三が日も過ぎた。
冬休みの終わりまで一週間を切っている一月五日の昼下がり。
酷い空腹を感じながらベッドを降りた依人は、冷蔵庫の中にろくに食べるものが入っていないことに気付いて、何か買いに行こうとコートを羽織り、家を出た。
料理をする気にもなれなかったので、コンビニでてきとうに菓子パンやカップ麺、飲み物を購入した帰り、エントランスの郵便受けに目が留まる。
いくつかの郵便物が放置されている依人宅用のそれに、分厚い紙の束が強引に押し込まれていた。外出中に入れられたものだろうか。
それとも元からあったが、単に行く時は依人が気付かなかっただけか。
怪訝に思いつつ引っ張り出すと、それはダブルクリップで留められたA4コピー用紙の束だった。
―――早速ですが中原さん、今から私とラブコメしてください。流れは全部ここに書いてありますので―――
思い出されるのはいつかの記憶。
依人がほとりとあの約束を交わした週明けのこと。
たった数か月前なのに、随分と昔の出来事のように感じられた。
『世界で二番目にしあわせなラブコメ』と表紙に太字で刻まれたそれをパラパラめくる。
視界に飛び込んでくるズラズラと羅列された文字列たちは、どう見ても小説で――。
作者の名前はどこにも見られなかったが、これを入れたのが空野ほとりであると確信するのはあまりにも容易くて――。
依人は冬休み前のことを思い返しながら、手にしたそれを強く握りしめた。
自宅のベッド上でひとり、依人はその小説に目を通す。
物語の大筋は、以前ほとりが語った通りのものである。
大人気ラブコメを月刊誌で連載する姉(大学生)と弟(高校生)の
しかし休載する訳にはいかない事情もあり、主人公である弟ひとりでラブコメをつくらなくてはいけないことになる。
恋愛経験皆無のぼっちでコミュ障の気もある主人公は、今まで姉の原作を何も考えず作画していただけであり、自分ひとりでラブコメの続きを描くことは絶望的に思われた。
そんな折、なんやかんやあってクラスメイトの可愛い女の子と同居することになり、さらにはその子が主人公と姉が描いていたラブコメの大ファンであることも判明する。しっかりしたラブコメの続きをつくっていくために、彼女が主人公に協力することとなり、色恋事に不慣れな二人は、不慣れななりにも色々ラブコメっぽいことを実体験しながらラブコメ作りに奮闘していくのだが――――という内容。
昔から人と関わるのが苦手で、家に籠って絵ばかりを描いていた主人公、羽鳥大地。
容姿に恵まれながらも、幼い頃から運命的な大恋愛に憧れ続けて妙な拘りを持つせいで、まともな恋愛らしい恋愛をしてきたことがないロマンチストのヒロイン、片山さより。
ライトノベルのラブコメらしい展開に忠実で、ベタなラブコメ要素を交えながらも、次第に仲を深めていく大地とさよりは微笑ましくて、普通に面白い。
要所要所で、作者がほとりであることを思い出させるような強烈な個性が見え隠れしているものの、ちゃんとしたラブコメである。
あの恐ろしいラブコメ脚本を生み出したほとりが書いたとは思えないくらい普通の――ちゃんとした、ラブコメらしいラブコメ。
そう、普通に出版されていてもおかしくないくらいの、面白く楽しく読めるラノベのラブコメらしいラブコメ――では、あるのだが……。
依人にはどうしても、この物語を純粋に楽しんで読むことができない。
なぜなら、大地(主人公)&さより(ヒロイン)のキャラが、完全にほとり&依人だからである。設定こそ現実とは色々異なっているが、大地の喋り方や性格、気質、滲み出ている雰囲気は完全にほとりで、それと同じようにさよりは依人だった。
作中のとあるシーン。
間接キスの場面を描くために、大地とさよりが間接キスを実践する展開。さよりのコップに大地が口を付けて『関節キスの何が恥ずかしいのか分かりません』などとほざく。その後、大地が口を付けた自分のコップからさよりがお茶を飲もうとして、やっぱり辞めて、顔を真っ赤にする――というシーンを読み、依人は盛大に頭を抱えた。
なんなら「゛あ゛あ゛ぁ゛っ」と声に出して悶えた。
とても身に覚えのあるシーンだった。
依人の自意識がまともに機能していれば、〝あの時〟の依人が完全にヒロイン化されている、ということになる。……なんて恐ろしい。
他にも、この数か月で依人とほとりが経験した諸々が、ほとんどそのまま、ほとりを主人公、依人をヒロインのポジションに置いて、ラブコメ化されている。
どう見ても恋夏がモデルのギャルとかも出てきたりして、ほとりが何を参考にこのラブコメを書き上げたのか非常に分かりやすい。
度々悶え死にそうになりながらも依人のページをめくる手は止まらず、物語は終盤へ。
デートをすることになり、依人とほとりが辿ったデートコースをほぼそのまま辿っていく大地とさより。
お涙ちょうだいの映画を見てボロ泣きするさより。頭を抱える依人。
今度ほとりに会ったら色々言ってやろうと胸に誓いつつも、依人は続きを読み進める。
やがてデートの帰り道、初々しく手を繋いで歩く二人。
その道すがら、さよりの古い知り合いと出くわす。
このあたりから、物語は依人の知る現実とは異なる展開へと運ばれていく。
容姿に恵まれて男子からの人気も高いさよりが色恋事に不慣れで、現実の恋愛にあまり積極的ではない理由として、それまでは『さよりが運命的な大恋愛に憧れるロマンチストだから』という風にされていたのだが、それより先に『小学校高学年の頃、色恋沙汰に巻き込まれて現実の恋愛が怖くなったから』という理由があったことが判明する。
多感が極まって皆が色恋事に興味を持ち始める第二次性徴期――思春期真っ盛りのその時分、さよりは痴情のもつれに巻き込まれ、現実の色恋事に関わるのを避けるようになる。
そんな頃、さよりはラブコメという物語の世界に出会う。
そしてさよりは、ラブコメの世界に憧れるのだ。――私もこんなすてきな恋愛がしてみたい、と。
「…………」
そこで依人は、ページをめくる手を止めた。
ほとりに、依人の過去について話したことはないはずだ。
なのに、きっと依人をモデルにしたのであろうこのさよりという少女は、その過去までどこか依人と似ている。偶然……だとは思う。だけど、だけどそれは――。
依人はページをめくる。
――中でも、さよりが一番の憧れを抱いたのは、大地とその姉が描いたラブコメの世界。とてもすてきで、楽しくて、しあわせな、やさしい世界。
現実の色恋事は怖いけど、どうしようもなく、さよりは
大地とさよりがデートの帰りに出くわしたのは、そんなさよりの過去に深く関わった一人の少女。
少女はさよりに言う。全部お前のせいだ――と。
全部、全部、全部ぜんぶ、お前が悪いのに、どうしてお前はそんなに楽しそうにしているのか、と。男の子と手なんか繋いじゃってさ。お前にそんな資格があると思うの?
かくしてさよりは、受け入れ始めていた現実を再び拒絶する。
部屋の中に籠って、頑なに大地と顔を合わせようとしない。
ドア越しに、さよりは言う。
――現実と
――どこまでも都合よく事が運ぶ物語と、この不条理だらけの現実は違う。
――現実に、ラブコメみたいな都合の良いしあわせは、どこにもないんだよ。
ドア越しに、大地は言う。
――本当に、そう思うのですか?
――あなたと一緒に過ごすようになって、ラブコメという物語をこの手で紡ぐようになって、一つ、分かったことがあります。
――それは、現実にもしあわせな
――確かに、現実と物語の間には違う所もたくさんあります。
――でも、それでも、現実の中には物語があって、物語の中には現実があるんです。
――以前にも申し上げたように、私は昔から人と関わるのが得意ではありませんでした。
――ですが別に、私はひとりで過ごす日々を、それでも構わないと思っていました。
――だってその方が楽でしたし、それに、私にはちゃんとした稼ぎがあって、ひとりでもしっかり生きていけるという自信がありましたから。
――でも違いました。本当の意味でひとりになってみて、私は気付きました。私には、ひとりで出来ないことがこんなにもたくさんあったのだ、と。
――ラブコメ作りについてあなたに協力してもらうことになったのは、本当にただの偶然です。このままではダメだと理解して、でもどうしたらいいのかは分からなくて、そんな時たまたま、あのような〝偶然〟が目の前に落ちてきて、そこでようやく気付いたんです。
――あぁ。ひとりで分からないのなら、誰かに教えてもらえばいいのだ、と。
――だから私は、あの時勇気を出して、あなたに協力を申し出たんですよ?
――たぶんアレは、私が現実から逃げてひとりで過ごすようになって以来、初めて、自ら誰かの元に踏み入った出来事でした。
――でもその時は、特に踏み入った自覚なんてなくて、ただ単に、ひとりだと無理だから協力してもらおうと思っただけでした。
――それからあなたと一緒に過ごすようになって、それが楽しくて、ラブコメというものも少しずつ理解できるようになって、今まで以上にその物語を楽しく読めるようになって、そして、ようやく気付いたんです。
――私はきっと、ラブコメというものを最初に読んだあの時から、ずっと、私は知らずの内に、そういう世界に憧れていたのだ、と。だからあの時、途切れてしまったその世界を、今度は自分の手で続けていきたいと、自分の手でつくってみたいと思ったのだ、と。
――それに気付くと、今度はもっともっと、現実の世界に興味が湧いてきました。
――ラブコメの世界で楽しげに笑うキャラたちと同じように、私も、現実で他の皆さんと楽しく笑ってみたい、と。
――でも、今まで現実から逃げ続けていた私には、現実の人たちと仲良くなる方法が分からなくて、どうしようと悩んでいたところに、あなたが言ってくれました。
――『それでいいじゃん』と。ただそのまま、自分の気持ちを伝えてみたらいいのだ、と。
――それでも不安が残る私に、『絶対大丈夫』だと言って、自信を与えてくれました。
――すると、私の世界は大きく変わりました。――大きく、変わったんです。
――あぁ、なんだ。現実にもちゃんとソレはあるじゃないか、と。
――ただ、今まで無いと決めつけていたのは、ソレを見ようとしてこなかったのは私の方で、本当はずっとずっと、ソレはそこにあったんだ、と。
――あなたが教えてくれたんですよ? 他でもない、あなたなんです。
――綺麗ごとだと思いますか? 単なる偶然だと、運よく私が、たまたまその時の都合に良い環境に恵まれただけだと、そう思いますか?
――そうかもしれません。
――今の私の周りにいてくださるのは、とてもすてきな方たちばかりですから。
――けれど私は、あなたがいなかったら、そんなすてきな、とてもしあわせな偶然に気付くことができなかったんですよ?
――だから。――だから、あなた……なんです。
――それでも結局、現実は現実で、物語は物語だよ。
――この現実は、いつでもそんな都合のいい偶然に巡り合えるわけじゃない。
――都合の良い物語の世界とは、やっぱり違う。
――それこそ、私は違うと思います。
――先ほど私は言いました。現実の中に物語があるように、物語の中にも現実があると。
――はい、もちろん違う所はたくさんあります。でも、似たような所もたくさんあります。
――私は、ラブコメという物語をこの手で紡ぐようになって、それを理解しました。
――あなたは、この世に出ている物語が全てだと、人の手によって創作された
――違いますよ。
――私には、作る側の人間だからこそ、分かることがあります。
――最後のしあわせな結末までたどり着けなかった創作の物語は、いくらでもありますよ。
――単なるバッドエンドとしての結末という話ではありません。ハッピーエンドを目指してつくり始めたはずなのにどうにも立ち行かなくなってしまって、完結までたどり着けなくて、この世に出なかった物語は、きっと、この世に出てきた物語の数以上にあるんです。
――すれ違い続けたまま、正しい道のりを見つけられずに、見つけてもその道を進むことができずに、不幸のまま終わることすらできなかった物語が、たくさんあります。
――最近はネット上の創作投稿サイトなどの中でその一端が見えるかもしれません。『エタった』と俗に言われるその物語は、もう永遠に続かないかもしれないその物語の世界が、しあわせに完結した物語の何倍も何十倍も存在するなんて話は、その界隈だと有名です。
――そして、そんな風にネット上にすら出てこなかった未完結の物語だって、あるんです。
――だから、その〝しあわせ〟を手に入れることができたヒトたちは、現実と同様に、物語の中でも、奇跡なんです。そしてソレは、偶然だけのものじゃありません。現実の中でも、物語の中でも、そういうしあわせな奇跡は、それに関わるヒトたちが、最後まで決して諦めなかったからこそたどり着いて、手に入れることができたものなんです。
――はい、綺麗ごとです。とってもとってもすてきな綺麗ごとだと、私は思います。
――だから……。だからあなたは、それが好きなのではないですか? そういう世界に憧れたのでは、ないですか? 少なくとも私はそうですよ。だからソレが、好きなんです。
――だって、だって、そうでないと、あんな風に泣けるわけないと思います。あんな風に、本気でラブコメという物語のことを愛せるわけが、ないと思います。
――だって、だからこそ私は、あなたに協力を求めたんです。
――もしラブコメが――物語の世界が、そんなに都合よく事が運ぶ世界なら、私がソレをつくるために、あなたを頼る必要なんてどこにもなかったはずなんです。
――だから。
――しあわせな結末を迎えられる物語は、そして、しあわせに辿り着けた現実も。
――現実も、物語も――ソレは両方、奇跡なんです。
――ソレは尊くて、かけがえのない、とってもすてきな奇跡なんです。
――全部、あなたのお陰です。
――全部、全部、全部ぜんぶ、あなたが私の側にいてくれたから、気付けたことなんです。
――ほら、あったじゃないですか。私たちのソレは、ちゃんとここにありますよ。
――単なる偶然から始まった、私があなたと過ごしたこの短い日々はきっと、他のどんな奇跡にも負けないくらいの――――――――――――――
「――――――――」
視界がぼやけて、続きを読むことができなかった。
依人が握りしめたページはクシャクシャになって、ポタポタと垂れた雫がインクの文字を滲ませている。
酷く情けない嗚咽を漏らしながら、依人は思う。
――あぁ、なんて。
――なんて素直で、なんて卑怯で、なんて綺麗な綺麗ごとだろう。
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