彼の現実〈2〉
依人とほとりがデートをした翌日の月曜。
依人は朝起きて、ひとりで朝食を取り、ひとりで学校に行き、授業を受け、休み時間にはひとりで本を読み、ひとりで昼食を取り、放課後はひとりでスーパーに寄ったのちに帰宅した。
さらに翌日の火曜日、依人は朝起きて、ひとりで朝食を取り、ひとりで学校に行き、授業を受け、休み時間にはひとりで本を読み、ひとりで昼食を取り、放課後はひとりで直帰したのち、バイトに行って働いてから夜遅くに帰宅した。
学校で見かけるほとりは、時折何か言いたげな様子で依人の方を見やっているものの、決して近付いてくることはなかった。
依人がいなくても、学校でのほとりはもうひとりではなくて、休み時間や昼休みをクラスメイトと過ごしているようだった。
火曜日には、恋夏たちと一緒に下校している姿も遠目に見かけられた。
水曜日の昼休み、例の空き教室にて依人がひとりで過ごしていると、恋夏がやって来た。
「ねぇ依人くん、ちょっといいかな」
「……なに?」
依人はイヤホンを外して、本を閉じる。
恋夏は椅子に座っている依人を見下ろすように立ち、大きな心配と、ほんの少しの怒りを混ぜたような表情をしていた。
「ほとりちゃんと何があったの?」
「……水瀬さんには関係ないよ」
「ほとりちゃんにも、そう言ったの?」
「……っ」
「関係あるよ」
恋夏はハッキリと言う。
「ほとりちゃんはあたしの友達で、あたしは依人くんとももっと仲良くなりたいもん」
恋夏のゆるぎない視線にまっすぐ見つめられて、居心地が悪くなった依人は目を逸らす。
「ほとりちゃん、すっごく落ち込んでたよ。『また、空気の読めないことをしてしまいました』って、言ってた。『私には関係のないことなのに、差し出がましい真似をして中原さんを不快にさせてしまいました』って。詳しく何があったかまでは聞かなかったけどさ、日曜のあのあとになんかあったんだろうなってのはあたしも分かるよ。あの時、依人くんもユズもちょっと変だったもんね」
ユズも――というその言葉に依人は引っかかりを覚えるも、恋夏の台詞は続く。
「ユズに聞いても誤魔化されちゃったし、二人の個人的なことだからあたしも強引に知ろうとは思わないけど、まぁホントに色々あったんだろうなってのは分かるよ。なのに、ほとりちゃんがそこに変な触れ方をしちゃったのかもしれない、よ? でも、でもさ……」
そこで口を閉ざした恋夏に依人が視線を戻すと、彼女は泣きそうな顔をしていた。
「――関係ない……は、違うよ」
「っ」
「関係ないだけは、違うよ。ほとりちゃんは依人くんのこと心配してたのに、もしかしたらほとりちゃんがちょっとへたっぴだったのかもしれないけど、でも、それでも……。関係ないって一言で全部終わらせちゃうのは、あたし、すっごく悲しい……」
恋夏の言葉尻が震えて、依人を見つめるその瞳が潤むように揺らいだ。
「…………分かってるって」
依人の台詞も、また震えていた。
だが、そこに込められた感情の大半は苛立ちで――
「分かってるよ。俺だってそんくらい」
依人はほとりに、言ってはいけないことを言った。
あぁ、分かってる。
そんなことくらい――分かってる。
「分かってるよ。俺が悪かったことくらい」
しかし依人は――今まで、必要以上に他者と関わることを避け続けてきた中原依人は、それが分かっても、じゃあどうすればいいのか分からない。
――ほとりに謝ればいい?
あぁその通りだろう。正論だ。最もな正論だ。
依人が読むラブコメにも――否、この世に存在する物語の全てにおいて、いくらでも出てくる展開――すれ違う二人がお互いの非を認めて和解するという展開。和解した二人は、前よりも深い絆で結ばれるという、しあわせですてきな
あぁ王道だ。正道だ。全く以って正しいやり方だ。
これまでラブコメの中ですれ違うキャラたちを、依人が何度見守ってきたと思ってる。
中原依人に、分からない訳が無い。
ずっと――ずっと、そういう〝王道〟に憧れてきたのだから。
あの日、あの時、一体何が間違っていたのだろうと未だに思う。
家族、友人と、周囲の全てとすれ違ってしまった依人の現実は、結局何も変わってない。
正しい道はそこにある。
依人が読んできたラブコメの中には、そういう道が示されている。
……でも、そこに示されているのは、物語の世界に生きる彼らと彼女らの道筋であって、中原依人の道筋ではない。
――そして、現実と
どこまでも都合よく事が運ぶ物語と、この不条理だらけの現実は、決定的に違う。
だから――。
中原依人には、自分が進む正しい道のりの進み方が分からない。
そもそも、そんな道がある保証もない。
依人だって恋夏が言っていることの自覚は十二分にあって、『じゃあどうすればいいか?』を日曜の夜からずっと悩み続けている。ずっと、ずっと、ずっとずっとずっと――。
――ほとりに謝ればいい。
――でも、謝るって言ってもどうやって? 謝ったそのあとは? 全てがすべて元通りになるのか? ほとりを傷つけた自覚はあっても、申し訳ないという気持ちは本当でも、ほとりに対して抱いたこの苛立ちと不快の感情は決してウソではなくて、それはまだ無くなっていないのに。ただ謝って、本当にそれで全て解決するのか?
――じゃあ、どうすればいい?
しかし今、恋夏がここに来てくれたお陰で、依人はようやくそれが分かった気がした。
――現実と物語は違う。
だから、現実に生きる依人の先に、最善で王道で正しい道があるとは限らない。
――中原依人は、正しいことを正しいようにやれる恋夏のような人間ではない。
でも、だけどせめて、最悪にはならない道のりなら――――。
「水瀬さんが来てくれてよかった」
「え?」
依人の言葉に、恋夏が目を丸くした。
「空野さんには本当に悪いと思ってる。酷いことを言って、申し訳ないって」
「じゃ、じゃあっ――」
「うん、だから水瀬さんからそう伝えといて」
「え……?」
「俺がごめんって言ってたってさ。あと、俺はもう空野さんに言われたことも気にしてないから、空野さんもホントに気にしなくて大丈夫だって」
「そっ、……そんなの――ッ!」
恋夏が悲痛な声を上げたのと同時、依人は席を立ってカバンを肩に掛ける。
「じゃあもうすぐ昼休み終わるし俺トイレ行きたいから。じゃあ、空野さんのことはよろしく。この貸しはジュースとかでも奢ってその内返すよ」
「――――ッ」
恋夏が何かを言った気がするが、依人はそのまま振り返らず教室を出た。
さらに翌日の木曜日、依人はなぜか昨日までより酷い気分で朝起きて、ひとりで朝食を取り、ひとりで学校に行った。
恋夏が昨日の言葉をほとりに伝えたのかは不明だが、昨日までのように、彼女が何か言いたげな様子で依人の方を見やるような気配は見られなくなっていた。
恋夏は何度か依人に声をかけようとしてきたが、依人はそんな彼女からさりげなく距離を取った。
放課後。
ほとりは帰宅する様子も見せず、クラスメイトたちと楽しげに談笑していた。
帰り支度をしながらそんな光景を目に留めて、依人はふと思う。
ほとりがラブコメを理解できるようになるために、依人が協力するというあの約束。
アレも別に、もう依人が教える必要性はないだろう。
今のほとりは、依人とラブコメ談義ができるくらいには普通のラブコメ読者としてラブコメを理解して楽しめるようになっているし、そもそも今の彼女であれば、依人以外のラブコメラノベのオタクとの繋がりをつくることくらいできるだろう。
ウチのクラスにそのような人物はいないっぽいが、他所のクラスや学年にいけば絶対誰かはいる。
別に依人は単なるラブコメ好きなだけで、特別な何かを持っている訳でもないのだし。
明日から始まる冬休みも明けて、気持ちが落ち着いたらほとりにそのことを伝えよう。
そんなことを考えながら、依人はほとりに背を向けて、教室をあとにした。
翌日の金曜日。
午前に修了式が行われ、成績表も配られたらいよいよ冬休み。
クリスマスイブの今日、わいわいと賑やかにこれからの予定を話し合っているクラスメイトたちを横目に、依人はまっすぐ帰宅した。
今日は元々バイトのシフトは入れていなかったのだが、先日店長に頼まれて午後一杯はバイトの予定である。
帰宅後、支度を整えて依人がバイトに向かおうと家を出ると、ちょうど目の前にほとりが立っていた。
まさに今帰って来た所という感じで、依人と顔を合わせて目を丸くしていたほとりは静かにお辞儀をした。依人もまた、無言のまま会釈を返す。
それ以上、依人がほとりと顔を合わせ続ける必要はないはずだった。
しかし、依人はその場から動けない。
依人の目から見るほとりの顔色はどこか優れなくて、それが気になってしまったから。
立ち去らない依人を不思議に思ったのか、そっと首を傾けたほとりが遠慮がちに言う。
「……中原さんは、これからお出かけですか?」
ほとりの声を聴くのは、随分と久しぶりな気がした。
その声が寂しそうに聞こえたのは、依人の自意識のせいだろうか。
「あぁ……うん。今からバイト、かな」
「そうですか。それは、お疲れ様です」
「まぁ、うん。空野さん……、なんか顔色悪そうだけど、大丈夫……?」
「そう、見えてしまいますか? そうですね……、執筆に集中していてあまり寝られていないので、そのせいかもしれません」
「あー……、また締め切りとか?」
「はい、そのようなものです」
人気の新人ミステリ作家として名高いほとりが、以前、締め切り前に執筆に集中し過ぎて倒れていたことを思い出す。
「……そっか、がんばって。でも体調とかにも気を付けて」
「はい。お気遣いありがとうございます」
ほとりがペコリと頭を下げる。そこに区切りを見出した依人は「じゃあ」と手を挙げる。
「俺、バイト行くから」
「はい、がんばってください」
そして依人はほとりに背を向け、マンションを降りる。
自転車を漕いでバイト先に向かいながら、依人は思う。
――あぁ、これでいい。
きっと、ここ数か月の距離感が近過ぎたのだ。
毎日一緒に登下校してお昼を過ごして、休日を一緒に過ごすこともあって、あまつさえ一緒に部屋の掃除をして夕食をつくって食べることもあって、デートまでして――。
なのに、依人とほとりは友人でも恋人でもない。
なんて歪で異常な関係だろう。
現実との干渉を避けて、ラブコメという非現実的な世界に浸り続けてきた依人と、同じくこれまでずっとひとりで過ごしてきて、そんなラブコメを知りたがるほとりだったから、お互い無意識の内に勘違いしていた。その異常性を気に留めていなかった。
だから、あんなことになった。だから、これでいい。だから、これからは――――
単なるクラスメイトとして、単なるご近所同士として、単なる知り合いとして――。
これでいいのだと、何も間違っていないのだと――依人は自分自身に、言い聞かせる。
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