彼の現実〈1〉

 柚月はバレーボール部で、たまに練習試合などを行う朝ヶ丘高校バレーボール部の九重さんと仲が良く、九重さんと恋夏の仲もまた良いために、その繋がりを通して知り合った――などという話を、依人はただ聞き流して曖昧な笑みを浮かべていた。


「いやさ、マジでびっくりしたわ。まさか恋夏ちゃんと依人が友達だったなんてね」


 柚月が笑顔で依人を見る。――まるで、過去のことなんて何もなかったかのように。

 あの時、依人の目の前で、教室のど真ん中で、皆が見ている前で、柚月は泣いた。それから依人が柚月に話しかけようとしても、柚月は露骨に逃げるようになって、話しすらできなくて。

 その内、依人の父親が柚月の母親に無理やり手を出したという風評が広まって、あたかもそれまで依人に原因があるかのように――。依人は何も知らなかったのに――。


 段々と、仲の良かった他の友達まで、依人を避けるようになった。


 一体何がダメだったのだろう、と未だに思う。


 父親が浮気をしたことをその時はまだ何も知らずに、いつも通り明るく柚月に話しかけてしまった依人が悪いのか。

 その場で泣いた柚月が悪いのか。


 事情を何となく把握したのち、柚月のメンタルが整わない内に焦って追い打つように話しかけようとした依人が悪いのか。

 そんな依人から逃げた柚月が悪いのか。


 きっとどっちが悪いとかそういう話ではなくて、でも、ただ、単なる事実として、それが偶然の流れだったとしても、あの時形成された周囲の〝空気〟ってヤツは――。


 依人が〝悪〟で、柚月が〝善〟だと、そう告げていて、依人は孤立した。


 結果、依人は現実に必要以上に干渉することをやめて、その方が楽だと気付いてしまって、周囲を――現実を、緩やかに拒絶した。


 依人の母親は仕事の関係で地元を離れることができなくて、引っ越すとかそういうこともなくて、柚月の家もどこかに引っ越すということはなくて。

 依人と柚月は中学校まで同じところに通っていたが、結局、あれ以降二人がまともに言葉を交わすことはなかった。


 柚月の家庭がどんな風に落ち着いたのか、依人は知らない。

 でも、たまに学校で見かける柚月は、いつの間にか普通の青春を過ごしているように見えた。

 

 高校生になって、依人が離れた場所でひとり暮らしをするようになってからは、もちろん顔を合わせる機会なんてある訳がなかった。

 こういう大きな街で居合わせる可能性は、そりゃ無い訳ではないだろうけど、まさかこんな形で再会することになるなんて思ってもみなかった。


 何年振りかは分からないけど、少なくとも四年以上。

 そんな年月を挟んで、依人に笑いかけてくる柚月の笑顔は、あまりに〝普通〟だった。


「依人ってばこんなめちゃくちゃカワイイ子と休日にデートとか、案外やってんだねぇ」


 ポンポンと柚月が依人の肩を叩く。


 あまりに大きな衝撃だったせいか、何事もなかったかのように笑っている柚月に現実感が湧かず、まるで悪い夢の中にいるようで、思ったよりは冷静な対応ができた。

否、冷静というより、自分自身をどこまでも客観視して裏から操っている感覚。


「まぁ、うん。……小林さんも、元気そうだね」

「いや小林さん、って!」


 ケラケラと柚月が笑う。


「依人にその呼び方されるのは違和感しかないって! まぁ、うん、色々あって、話すのはだいぶ久しぶりだけどさ、普通に柚月でいいよ。あの時みたいにさ」


 あの時みたいにさ――?


 そんなに軽く流していいものなのか。依人と柚月にとって――〝あの時〟は。


 恐ろしい勢いで底冷えしていく感覚があった。冬の冷気が体の内側を突き刺すような。


 漏れ出そうになったドス黒い感情を冷たい笑みで覆い隠して、依人は言う。


「まぁ、そうだな、柚月」


「うん、そうだよ、依人」


 曖昧なナニカで覆い隠された依人と柚月の再会は――少なくとも表面上は、ただ久しぶりに再会してお互いを懐かしむ昔馴染みのモノとして、可もなく不可もなく過ぎた。




「幼なじみなんですね、小林さんとは」


 恋夏、柚月と別れて、依人とほとりの帰り道。


「まぁ……うん、そういう風にも言えるかな」

「可愛らしい方でしたね」

「……そうだな」

「……?」


 自らの返事に棘があったことは自覚できたが、今の依人にはそれを取り繕う余裕も持てなかった。


 不思議そうに、どこか不安そうに、ほとりがこちらを見ているのが分かる。


 けれど、依人はほとりと視線を合わせられない。


 今、ほとりといつものような会話をできる気がしなかった。

 無理に言葉を交わせば、また険のある台詞を吐いてしまいそうで、怖かった。ほとりは何も悪くないのに。


 居心地の悪い空気は続いて、きっと気を使ったのであろうほとりは、何かと依人に話しかけてきた。


 気を遣うなら、何も喋らずにそっとしておいてほしかった。

 でも、そんな依人の口に出さない主張はほとりに通じず、ほとりは依人に声をかける。


 気遣って声をかけるにしてもほとりは下手くそで、「中原さんの好きな色は何ですか?」とか「明日の夜は何を食べるご予定ですか?」とか「日本の歯医者の数はコンビニの数より多いらしいですよ」だとか、微妙にズレた反応に困るようなことばかり言ってくる。


 依人はあまり感じの悪くならないように努めて、当たり障りのない相槌を打ち続けた。


 そして、自宅の最寄り駅に着いて、通学路としても使う歩き慣れた道を、依人とほとりは並んで歩く。

 日は既に暮れていて、辺りは暗く、酷く冷え込んでいた。


 ようやく、それぞれの自宅前まで帰ってきたところで、「……じゃ、今日はお疲れ様。楽しかったよ」と、平坦に告げた依人が、手早く自宅の扉を開けようとした時――


「あの、中原さん。少し、よろしいでしょうか?」


 ほとりに呼び止められて、「……なに?」と、依人は振り返る。



「不躾な質問になってしまいましたら、大変申し訳ないのですが……。中原さんは、小林さんのことが好き……なんですか?」



「は――?」


 予想の斜め後ろから殴り付けられた気分だった。


「……なんで、そうなるんだよ」

「い、いえ……、もし、そうだとしたら、大変申し訳ないことをしてしまった、と、思いまして」

「は……? え、いや。空野さんが何言ってるのか、マジで分からないんだけど」


 それを覆い隠す余裕もなく、キツイ口調になった。


 ビクリと肩を震わせたほとりに途方もない罪悪感が湧き上がるも、それ以上にほとりに対する不可解と不快が勝った。


 一体、何をどう思考してそんな結論に至ったのか。

 意味不明だ。

 どうして――。よりにもよって、空野ほとりがそれを言うのか。


 空野ほとりが中原依人に、よりにもよって――。


「すみ、ません……。ただ、私は、中原さんが、小林さんのことを下の名前で呼んでいたので、もしかしたら、特別な間柄だったのかもしれない、と……」

「いや、だからただの幼なじみだって」

「は、はい……。それは、分かっているのですが、しかし、中原さんが他の方を下の名前で呼んでいるのは聞いたことが無かったので……特別なことなのかな、と」

「だから幼なじみだって言ってんじゃん。それ以上に変な意味なんてないから」

「しかし、小林さんと顔を合わせてから中原さんの様子がおかしいので……」

「……っ」

「もしそうだとすると、本日は私の都合で付き合って頂いたのに、私と二人でいるところを小林さんに見られてしまったのは、中原さんにとってはあまり喜ばしくないことだったのだろうと思いまして、大変申し訳ないと」


「――いやだからさ」


 自分でも驚くほど、冷え切った声が出た。


 パッチリと目を見開いたほとりが、呆気に取られた顔で固まっている。


 だが、もう既に開きかけていた依人の口は止まらず――、


「マジでそういうんじゃないし、そもそも空野さんには〝関係ない〟話だから、別に気にしなくていいよ」

「は……、はい……。差し出がましいことをしてしまい、申し訳ありませんでした」

「――っ」


 深く深く頭を下げているほとりを、依人はまともに見ることができなかった。


 自己嫌悪で死にたくなる。何をほとりに謝らせているんだ、自分コイツは。


「……今日は、ありがとうございました。それ、では……、〝またあした〟学校で――」


 ほとりがそう告げた瞬間、依人は――――


 ――――あ、これはダメだ。


 明日、ほとりと顔を合わせられる気がしない。


 ほとりが悪くないのは分かっている。そんなことは分かっている。


 ただ、帰り道にずっと続けられたほとりの空気の読めない発言の数々に、依人が小林柚月のことを好きなどというズレた解釈をした今のほとりに、依人が抑えきれない苛立ちを感じていたのも、事実だった。

 そして何より、また今のように、ほとりを傷つけてしまうかもしれない自分のことが怖くて――怖くて、たまらなかった。


「あのさ、空野さん」

「はい……? なん、でしょうか」

「…………明日からさ、一緒に学校行ったりご飯食べたりするの、やめていいかな。……ちょっとひとりになりたいから」

「え……、それは一緒に帰るのも……ですか?」

「そんなのさ――。……いやまぁうん、そうだよ」

「――」


 ほとりは、しばらくポカンとした表情で目を丸くしたあと、おずおずと頷いた。


「…………中原さんが、そう、おっしゃるのなら、了承いたします。では、目安としてはいつ頃まで――」


「――ごめん。じゃあ」


 依人は既に取り出していたカギを扉の鍵穴に差し込んで、逃げるように自宅の中に入る。


 結局最後まで、依人はほとりとまともに目を合わせることができなかった。


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