神秘的:普通の認識や理論を超えて、不思議な感じのするさま。〈2〉
ほとりの希望通り、依人は集合時刻を決めてから一度自宅に戻った。
せっかくなので依人もシャワーを浴びてからラフな私服に着替えた。
約束した時間になる少し前にジャケットを羽織って外に出ると、依人以上にラフな格好をしたほとりが既にいた。
上は明るい灰色、下は紺色というスウェットで、もこもこのロングコートを羽織っている。
そういえばここで倒れていた時もこんな格好をしていた。
いかにもシャワー浴びたあとという感じで、頬は血色がよく、艶めいた髪からは甘い匂いが色濃く香っていた。
――この格好を俺に見られるのはアリってことなんだよな……。この前はいきなり自分でスカートめくろうとしてたし。なんというか、ほんとに……、
ほとりの中の基準が掴めない。
「では、行きましょうか」
「うん」
無防備なほとりの姿にドキドキしながらも、努めて平静を装って頷く依人だった。
二人で買い物している所をクラスメイトに見つかって色々勘違いされる、というラブコメ的ハプニングなどもなく、関心を引くものが視界に入るとフラフラ引き寄せられていくほとりが途中で一度行方不明になったくらいで、どうということもない買い物は済んだ。
綺麗になったほとり宅で夕食の準備に入り、何事もなく調理は進む。
ネットで見つけた良さげなレシピ通りに依人がハンバーグのタネをつくって、それをほとりが一生懸命こねている間、それ以外の付け合わせを依人がつくる。
ほとりが気合を入れてこねまくったお陰か、焼く時に形が崩れるということもなく、ちょっと拍子抜けするくらい普通のハンバーグが完成した。
「とてもおいしいですね」
口元にソースを付けながら満足げな顔をしているほとりに、「口にソース付いてるよ」と伝えながら、ふと依人は思った。不思議なもんだな……、と。
他者と必要最低限以上に関わり合うのを頑なに避けていたはずの自分が、こうして今、自分以外の他者と――それも校内でも有名な転校生の綺麗でかわいい女の子と――、少し過剰なほど月並みな時間を共に過ごしていて、それを悪くないと思っているなんて。
数か月前の自分にこのことを話しても、ラノベの読み過ぎで頭がおかしくなったとしか思われないだろう。
だって今の依人自身ですら、自分が置かれているこの状況が不思議でならない。
だから――。だからこれは、とても神秘的なことなのだ。
「お礼をさせてください」
夕食の片付けも終わって一息ついた直後、ほとりが真剣な表情で言った。
「……お礼?」
「はい。今日という日まで、私は中原さんにお世話になりっぱなしです。ですので、何か返せるものがないかと、常々考えていました」
「いやそんなこと気にしなくていいのに……。あー。正直さ、あれだよ。そのうち空野さんが『せかこめ』の続きを書けるくらいになって、俺がその続きを読めるなら、俺的にそれ以上のお礼はないと言うか。俺が空野さんに協力してるのは、結局のとこそのためみたいなところあるし……」
「はい。ですがそれは、あくまで中原さんからラブコメに関する事柄のご教授を頂く上でのお礼であると解釈しています。そして私は、それ以外についても本当にたくさんのものを中原さんに頂いております。だから、ちゃんとお礼がしたいのです」
「い、いや……ほんとに、大丈夫だから」
額に一筋の冷や汗を流しながら、若干引きつった笑みで依人は答えた。
なぜか?
ここでまず確認しておきたいのが、未だ掴めない部分も多いとは言え、一か月以上の日々をほとりと共に過ごしてきた依人は、少なからずほとりという少女の人となりを理解し始めている――ということである。
空野ほとりの行動原理、性格、そして気質。それら全てを考慮した上で、依人はほとりが手にしている〝耳かきセット〟に気付いて恐怖していた。
「先日拝読したラブコメの中で、男性の方にとって女性に耳かきをしてもらうことがご褒美になると書いてありました」
ほとりが今持っている耳かきセットは、本日の掃除中に発掘されたもので、その時のほとりが『良いものが出てきました』と、妙に嬉しそうな反応をしていた理由が分かった。
ところで話は変わるが、以前と今回を合わせて二回、夕食の準備を手伝おうと意気込むほとりに、依人は包丁だけは持たせないようにと全力で注意していた。
人体の弱点の一つである耳穴を突き刺すのに適した形の細長い棒を取り出したほとりが、とても純粋な瞳で依人を見つめている。
依人の脳裏に『あっ』というやらかしボイスと共に耳穴を貫かれるイメージが過ぎった。
「日頃のお礼として、中原さんの耳掃除をして差し上げたいです」
「…………」
校内でも有名な綺麗な女の子に耳かきをしてもらう。
あぁ、なんという貴重なリアルラブコメ体験。
これまで依人が成り行きで体験してしまっているラブコメっぽい出来事たちと比較しても、これは頭一つ抜けているのではないだろうか。
いくら命の危機があるとしても、例え依人がラブコメの主人公そのものに憧れている訳ではないとしても、おそらく善意百パーセントから来ているこの提案を――ラブコメを愛する一人の人間として断るなんてことが、果たしてあっていいのだろか?
そこまで考えて、よし――と、その選択を心に決めた依人は、ほとりに言う。
「その申し出はすごくありがたいし嬉しいんだけど耳掃除はこの前したばかりで耳掃除ってあんまやりすぎるのもよくないと聞くので遠慮させていただきます」
罪悪感を覚えながらも堂々とウソを吐いた依人に、ほとりは「そうですか、ならしょうがないですね……」と、しょんぼり肩を落とす。
そんなほとりに決心がぐらっと揺らぎかけるも、しかし流石に命の危機までは見過ごせない依人であった。
「では、これだけでもやらせてください」
耳かきセットを下げたほとりが代わりに取り出してきたのは、ちょっと高級そうな雰囲気のあるハンドクリームだった。
「中原さんの手が随分と荒れているようなので、気になっていました」
「あぁ」
ほとりに言われて、依人は自分の手を見下ろす。
秋から冬に移ろって乾燥していく中、日常の水仕事をする度に荒れていることに気付いてどうにかした方がいいとは思っていたが、結局放置してしまっている状態の両手。
「ここにおかけになってください」
「え、あ、うん」
ほとりに促されるままソファに座る依人。
「手を出してください」
依人の正面に膝立ちになったほとりが、ハンドクリームと一緒に持ってきていた化粧水を自分の手に出して、依人の右手を包むようにした。
冷たい液体をすり込むように、ひんやりとしたほとりの指先が絡みついてくる。
続けて左手も同じようにされて、次はハンドクリームを依人の右手の甲に出したほとりが、ぎゅうと強く依人の右手を握り込む。
「…………え、えっと、空野さん?」
依人の手を包むように握った状態で固まったほとりに、依人は困惑の声を落とした。
「はい?」
「い、いや、なんで握りっぱなしなのかな、と……」
「あぁ、はい。ハンドクリームを温めています」
「温めた方が……いいの?」
「はい。それにしても、中原さんの手は私と違って温かいですね」
じんわりと痺れるように、依人の手とほとりの手が、冷えたクリームと一緒に温まっていく感覚が分かった。
化粧水の時よりも入念に、手全体の隅々までクリームがのばされていく。
ほとりの小さくて細い指にグッグッと圧をかけられて、何やらマッサージっぽいことまでされていた。
――待って……、なんか、これ、やばい……っ。
依人の手をグニグニしているほとりの艶々した黒髪とその生え際が、綺麗なつむじが、とてもよく見える。
ほとりの手が触れている事実を否が応でも意識させられ、触れ合っている部分を通して感じる彼女の熱が、依人の心臓の鼓動を恐ろしい勢いで加速させている。
今すぐにでもこの場から逃げ出したい衝動に駆られるが、一生懸命グニグニやっているほとりを見ると、このままジッとしている以外の選択は取れそうにない。
正面のほとりから目を逸らしながら無心に努めて、ただ時間が過ぎるのを待つ。
やけに長く感じられた数分の後、ようやくほとりが右手から手を離した。
「いかがでしょう」
ふーっとやり切った感のある息を吐いて、ほとりが依人を見上げた。
「な、なんか……すごい、良くなった、気がする……」
お世辞でもなく、右手と左手の感覚がまるで違っていた。
血色が良くなっている。ほとりの体から香っているのと似た甘い匂いが自分の右手からも香って、なお体が熱くなる。
「良かったです。では次は左手ですね」
「え、左手も……?」
「右手だけというのもおかしくないですか?」
そりゃそうだ。
そうして左手をほとりに取られる。右手にやったのと同じように、ほとりは依人の左手の甲にクリームを乗せて両手で包み込んだ。
「っ……」
変な気分になりそうだった。
目の前にいる彼女が、〝ひとりの女の子〟なのだと改めて突き付けられている感覚。
平静を失いかけた依人は、気を紛らわせようと口を開く。
「空野さんはさ……、こういう手のケアとか、ちゃんとやってるの……?」
「はい。自身の体のケアは怠っていません」
――カラダ……。
というそのワードに依人の思春期が弾けかけたが、必死に理性を引き寄せて抑え込む。
ほとりの言った通り、彼女の髪質や肌はとても綺麗なものだ。
散らかりまくっていたこの部屋の惨状を思い出して、自分以外のケアは酷いものだったのに……と思ったが口には出さない。
「中原さんの肌は乾燥しやすそうですね。髪も少しパサついているようですし、もう少し気を使ってお手入れした方がいいかもしれません」
「あー……でもそういうのはあんまよく分かんなくてさ」
すると、依人を見たほとりがぱちくりと目を瞬かせた。
「中原さんでも分からないことがあるんですね」
「いやそりゃあるでしょ」
あまりにも無垢に驚いた顔をしたほとりが可笑しくて、思わず笑ってしまう。
するとそれに釣られるように、ほとりも微笑をこぼした。
「そうですよね。では今度、教えて差し上げます」
「うんありがと。じゃあ……、教えてもらおうかな」
「はい、任せてください」
その時、ほとりの微笑みを見て依人の胸中に湧き上がった感情はとても不思議で難解な色合いをしていて――やっぱりそれは、神秘的と呼ぶほかになかった。
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