神秘的:普通の認識や理論を超えて、不思議な感じのするさま。〈1〉
それは期末試験最終日の試験終了後、解放感に満ち溢れながら依人がほとりと帰路に着いている時のことだった。
「中原さん、一つお聞きしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか」
「ん。いいよ、なに?」
またいつものラブコメに関する質問だろうと思って軽く頷いた依人だったが、次のほとりの口から出てきた台詞は、
「室内の清掃と整頓のコツについて、お聞かせ願いたいです」
「……」
瞬間、依人の脳裏を駆け巡ったのは三週間前のあの日。
家の前で倒れていたほとりを発見し、そのままの流れでオムライスをつくってふたりで食べたあの日の出来事である。
だが、この瞬間に依人の脳裏に蘇ったのはオムライスではなく、ぐっちゃグチャに散らかりまくっていたほとり宅のリビングルームの光景だった。
できればあまり思い出したくなかった。
あの日の別れ際、依人は『あの部屋はもう少しどうにかした方がいいかもしれない』というお節介を言って、それに対してほとりは目を泳がせていたのだが……。
「もしかして……。あの部屋、まだ全然片付いてない?」
依人が恐る恐る問いかけると、途端にほとりの目が泳ぎ始める。
「い、いえ、そんなことは……、多少はどうにかしたつもりですが、その、他の方から見るとあまり片付いていないように思われてしまうかもしれません」
依人と微妙に視線を合わせないまま、淡々と語ったほとり。
続けて思い出されるのはさらに前、本の山に埋まっていたほとりを発掘して、依人がほとりに協力することを決めたあの時のこと。
あのあと、『それでは早速、ラブコメについて中原さんにお聞きしたいことがあります』と言いながら依人をもてなそうとしたほとりだったが、そんな彼女に案内されてリビングルームに足を踏み入れた瞬間、依人は我が目を二十回くらい疑うことになった。
学校で過ごす空野ほとりの姿を見て、依人が密かに彼女に抱いていた憧れのイメージがガラガラと音を立てて崩れ落ちた瞬間だった。
そして、真っ白になった頭で硬直する依人を見て、どうやら不味いもの見せてしまったと気付いたらしいほとりが、『すみません、そんなに酷いですか……?』と首を傾げたのが追い打ちとなった。
――これは、ヤバい……。
居ても立っても居られなくなった依人は、それからほとりの生活空間の清掃を手伝った。
年頃の女の子の生活空間なので、年頃の男の子の思春期の部分を刺激するようなアレやコレも散見された訳だが、もはやそれを気にするのが問題ならないほど散らかっていた。
ほとりの反応を見るに、未だあれと同じ惨状は広がり続けているということだろう。
「……でも、なんか急な気がするけど、何かあったの?」
いきなり清掃のコツを教えて欲しいなどと言い始めたほとりに、依人は少し違和感を覚えた訳だが。
「実は、近々水瀬さんが私の家に遊びに行きたい、というようなことを言っていまして」
「あー……」
納得した。
要するに、あの部屋の惨状を目にした時の依人の反応から、ほとりも学びを得たということだろう。流石にアレを他人に見せるのはヤバい、と。
しかし、いざ自分一人でやろうとしてもどうにもならなかった、と。
「空野さんって、掃除とか苦手なの……?」
ほぼほぼ答えが出ている問いかけだが、コツを教えるならその原因を知るべきだと考えて依人は言った。
「苦手と言いますか、そういった類の作業を今までほとんどやったことがないもので……」
「…………」
空野ほとりがどこぞのお嬢様で、箱入り娘っぽいことには気づいていたが、まさかここまでの箱入りだとは思っていなかった。
きまり悪そうにしゅんとしているほとりを見て、依人は「よし、分かった」と頷く。
「やろうか、掃除」
清掃方法を口で教えてもあまり意味がなさそうだったので、帰宅後、依人は直接ほとりの家にお邪魔した。
試験日で学校が早く終わったこともあり、放課後の時間をたっぷり使ってほとり宅の大掃除は進行。
前回はほぼほぼ依人ひとりでやってしまったが、今回はなるべくほとりに助言を与えつつ一緒に進めていくことになった。
張り切って空回ったほとりが目を離した隙にやらかして仕事が増える、ということは何度かあったものの、基本的に呑み込みは早いほとりなので、掃除が終わる頃には必要最低限の清掃知識と技術は身に付いていた。
……不器用でそそっかしいという本人の気質そのものは、一朝一夕ではどうにもならなそうであったが。
すっかり片付いた部屋を見回して、依人はふぅと達成感のある息を吐いた。
十二月とは言え、休まず動き続けたため少し熱い。
さっきまで暖房が付いていたというのもあるだろう。今は換気のため窓を開けているので、ひんやりと吹き込んでくる風が気持ちよかった。
「まぁ、こんなもんかな」
「本当にありがとうございました」
依人の隣では、ほとりがふかぶかーと頭を下げている。
「今後は、日頃からあまり散らかさないように心がけて生活しようと思います」
これは、清掃が苦手なら尚更こまめに片付けた方が良いと言った依人のアドバイスに対する反応だろう。
我ながらお母さんみたいな台詞だと思って、昔母親に似たようなことを言われて反抗していた自分のことを思い出す。自嘲と苦笑が同時に漏れた。
とても素直なほとりに、またこぼれかけた自嘲を依人が呑み込んだ時、くぅぅ……という、いつかも聞いたような小さな音が鳴った。
ほとりが冷静に我が身を見下ろし、お腹に手を添える。
「失礼しました。そういえば、今日はお昼を食べていませんでしたね」
今日の学校は午前中に終わり、帰宅したその流れで掃除を始めてしまったので、昼食を取るタイミングが無かった。
窓の外を見やれば、茜色の空と、今にも沈みそうな太陽が見えた。冬の日入りは早いので、まだ夕食の時間には早いのだが――。
「……今日さ、また前みたいに俺が夕食つくろうか?」
以前約束したことを思い返しながら依人が控えめに提案すると、ハッとほとりが顔を上げた。
「つくって欲しいです」
つつっと距離を詰めて、間近から依人を見上げるほとり。
「わ、わかった。じゃあ、つくるか」
ほとりの勢いに気圧された依人が思わず身を引くも、それと同時に目を見張ったほとりがスススっと遠のいていく。
「空野さん……?」
やけに距離が遠くなったほとりに、依人は疑問を抱く。
「いえ、お気になさらないでください」
「……? えーっと、じゃあ何つくろうか。空野さんは何食べたい?」
「ハンバーグがいいです」
ほぼ即答だった。
以前オムライスと答えた時は長考を挟んだほとりだが、今回の返事は早かった。
しかしハンバーグか……と、依人は思う。
あの時ほとりにも言ったことだが、依人が以前にハンバーグをつくった時は上手く形がまとまらずに崩れてしまった。
味は悪くなかったが、あれはハンバーグではなくハンバーグの欠片の寄せ集めだった。そしてそれ以降、依人はハンバーグに挑戦していない。
しかし、なぜかいつもより遠い距離から期待の視線を送ってくるほとりに、別のメニューを提案し直すことはできず、依人は頷いた。以前の失敗を活かして頑張るとしよう。
「でもハンバーグなら材料買いに行かないとな」
依人宅の冷蔵庫にある材料でハンバーグは作れないし、ほとり宅の冷蔵庫にはそもそも食材らしい食材が入っていない。
「スーパーに行くなら、今度は私も一緒に行きたいです」
硬い意志と強い関心を感じさせる口調でほとりが言った。
「以前拝読したラブコメで一緒にお買い物している描写が楽しそうだったので、ぜひ私もやってみたいです」
相変わらずのほとりに、依人は仕方ないと言いたげな微笑を無自覚にこぼして、「じゃあ、そうしよっか」と、ほとりに近付く。
より正確には、ほとりに近付いたというよりも玄関がある方へ進んだだけなのだが、それはともかくとして、距離が詰まった分だけほとりが依人から離れた。
「…………」
――え。
もう一歩、試しにほとりに近付いてみると、同時にほとりが一歩下がる。
「……」
「…………」
――え、避けられてる? 今から一緒にスーパー行くのに?? なんで???
意味不明が過ぎた。本当に意味が分からない。
だが意味は分からずとも、ほとりに避けられているっぽいと思うだけで、依人の心臓に氷柱で突かれたような痛みが走る。
――け、けっこうクるな、これ……。
自分でも予想外にショックが大きかった。
「俺……、何かした?」
「はい、お掃除を手伝ってくださいました」
「……それ以外は?」
「今からハンバーグをつくってくださるということで、とても嬉しいです」
「嬉しいならよかったです……」
「はい」
「……で、今からスーパー行くんだよね?」
「はい、行きたいです」
「……じゃあ、行こっか」
「待ってください」
依人の接近を押しとどめるように、ほとりが片手を突き出す。
「その前に、まず準備を整えるべきだと思います」
「準備……?」
「はい。中原さんにも一度ご自宅に帰って頂いて、そのあとでまた集合してから一緒に行きましょう」
「…………なんで?」
思わずそんな疑問の声がこぼれた。
今の依人とほとりは学校に行った時と同じ制服姿であり、このまま外へ出ることに何の問題も見当たらない。デートをしに行く訳でもあるまいし。
そこで依人ははたと気付く。――あぁそうか、と。
ラブコメの深い理解を追い求め、それに関する実体験にもこだわっているほとりのことだ。単に買い出しに行くというだけのことでもデートと同等に考えているのかもしれない。
そうだ。
諸説はあるにしても、男と女が二人で外に出かければそれはもう――。
などと、依人が理解のある(つもりの)思考を高速で巡らせていると、ほとりが言いにくそうな表情で、細々と言った。
「その……、お掃除をがんばって汗をかいてしまったので、一度シャワーを浴びさせて頂きたいです……」
「…………」
――あーーーっッッ!
瞬間、ほとりの言動の謎が解け、デリカシーがなかった自身の言動を振り返って頭を抱え込む依人。
だがそれと同時に、こうも思った。
散らかしまくった部屋の惨状やそれに伴う諸々を見られたり、お腹が鳴る音を聞かれたりしても特に気にしていなさそうなのに、汗をかいた状態で依人に近付くことは避けようとするほとりは、やっぱりまだよくわからない――と。
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