オタクに優しいギャルはオタク以外にも優しい〈1〉
とても冷え込む十一月下旬のある夜、バイトを終えて帰宅中だった依人は、駅前でばったり恋夏と出くわした。
「あれぇーっ、依人くん? 依人くんだーっ」
呼びかけられて、漕いでいた自転車を止める依人。
赤色基調の派手なダッフルコートをまとった恋夏が、編み上げのロングブーツをタタッと鳴らしながら駆け寄ってくる。
「こんな時間になにしてんのー?」
自転車に跨っている依人を見て問いかける恋夏。
依人は、恋夏のコートの裾から伸びている生足に視線を吸い寄せられる。
シミ一つなくなめらかで肉付きのいいふとももに、男のサガ的な意味で気を取られたことは否定できないのだが、それよりも、よくそんなノーガードでこの寒い中を歩けるな、という畏敬の方が大きかった。
極寒の中、生足を出して歩いているおしゃれな女性は度々見かけるが、ギャルという生き物は凄い寒さ耐性でも持っているのだろうか。
そんな思考を脇へやりつつ、恋夏と顔を合わせて依人は答える。
「俺はバイトの帰り、かな」
「あっ、バイト! そういやバイトやってる的なこと言ってたもんね。こんな時間までやってるんだ、すご」
ほーっと感心したような白い息を吐く恋夏。
現在の時刻は二十二時の十五分を過ぎたあたりで、依人はほんのついさっき――二十二時までバイトをしていた。
「何のバイトなの?」
「あー……カフェ、的なところ、かな」
依人がバイトをしているのは、小さな個人経営のブックカフェである。
とても良い雰囲気の場所であり、高校の入学直後に依人がそこで働く機会を得られたのは中々に幸運な偶然だった。
「え、カフェ!? 店員ってこと? 依人くんが? なんかカッコいいかも!」
「あー……、うん」
曖昧な笑みを浮かべて依人は頷く。
恋夏がどうこうという話では全くないのだが、バイト先の詳細をこれ以上探られる前に、依人は話題の矛先を変える。
「水瀬さんは何してたの?」
「あたし? あたしはねー、友達と一緒にご飯食べてたんだけど、ずっと喋ってたらこんな時間になっちゃった」
楽しいハナシしてるとホントすぐ時間過ぎちゃうよねー、と言いながら笑っている恋夏は、ふと気になったように依人に尋ねる。
「依人くんの家ってここらへんなの? あんま見かけたことない気がするけど」
「まぁここら辺ではあるけど、自転車で十分くらいはかかるかな」
依人が住むマンションは、今まさに視界に入っている駅の二つ隣の駅が最寄り駅となっている。
学校へは電車で通学している依人だが、この付近にあるバイト先には自転車で行くことが多い。
学校も自転車通学できる距離にはあるのだが、朝から自転車を漕ぐのは疲れるので基本的には電車通学である。
「そうなんだっ。あたしの家はこっから近いよー。じゃあ案外依人くんと家近かったんだねーっ!」
「そうみたいだね」
単に相槌を打つように、曖昧に笑う依人。
そして依人が、「それじゃあ、また学校で」と自転車のペダルに足を掛けると、
「えーっ! もう行っちゃうの?」
喋り足りないという顔で、恋夏が不満そうに言った。
「え」
まさか止められるとは思っていなかった依人の動きが固まる。
「あっ、そだ。もう夜も遅いしひとりで帰るの寂しいから送ってってよ。あたし、もうちょっと依人くんとお喋りしたいし、いいでしょ?」
精神的にも物理的にも距離が近かった。
だが依人は知っている。こんな自分にも距離が近くて気さくな恋夏は、他の人物に対しても同じように接しているのだ、と。
この前読んだラノベにも、オタクに優しいギャルは例外なくオタク以外にも優しいのだから、自分だけが特別扱いされていると勘違いしてはいけないと書かれていた。
危なかった。
ラノベを読んでいなかったら恋夏が自分のことが好きなんじゃないかと勘違いするところだった。良かった。ラノベを読んでいて良かった。ありがとうラノベ。
まぁそのラノベにおいては、みんなに優しいギャルはオタクの主人公のことが特別に好きだったわけなのだが……。
現実にあり得ないその展開は置いておくとして。
そんな思考を巡らせながら、断り切れない雰囲気を感じた依人は、苦笑混じりの曖昧な笑みを浮かべて頷く。
「わかった、いいよ」
それにしても陽キャってすごい生き物だな……と、慄く依人だった。
手で押す自転車を挟んで恋夏と並び、街灯が照らす夜道を歩く依人。
何気ない雑談が続く中、ふと思い出したように恋夏が言う。
「依人くんってさ、もしかして中学の時は別のとこ住んでたんじゃない?」
「そう、だけど……。なんで……?」
若干の警戒を滲ませながら、依人は恋夏を見る。
「いやほら、依人くんってさ、一年の初めの時、どこの中学から来たのか聞かれて北中って言ってたでしょ?」
「よく覚えてるね……」
「でもここら辺って北中っていうといっこしかないんだけどさ、そこ出身の子たちに聞いてもみんな依人くんのこと知らないって言ってたから。だからもしかして、もっと別のとこの北中なんじゃないかなー、って」
その通りだった。
中学生の頃はまだ実家に住んでいた依人は、この街の中学校に通っていた訳ではない。
依人の実家はこの街から電車で四十分ほどかかる場所にあり、そこまで遠くもないのだが、その近辺には、依人が今通う朝ヶ丘高校と学力も設備も同程度の高校が存在する。
そして朝ヶ丘はどこの部活が強いなどの目立った特徴もなく、だからわざわざ通学時間を四十分も増やしてまで朝ヶ丘高校に入学する者は、依人の中学では他にいなかった。
初めはただ、知り合いのいない高校に入ろうと思っての選択だった。
通学時間が四、五十分というのは、全然通えない範囲ではない。
しかし、三年以上経ってなお、未だに新しい父親や義妹と馴染むことができず、実家で過ごす日々に息苦しさを覚えていた依人が『ひとり暮らしをしてみたい』というようなことをこぼすと、それを聞いた母親が『依人が本当にそうしたいなら、いいよ』と了承した。
母親が自分に対して、再婚したことによる後ろめたさを感じていることを、依人は理解している。
母親が、高校生の依人のひとり暮らしを了承したことが、決してそれと無関係ではないことを、依人は理解している。
あの時期、依人以上に精神的に参っていた母親が再婚したことが、決して悪いことではなかったことを、依人は理解している。
それらを理解した上で、依人は母親と義父が働いて稼いだお金で、こうして今、ひとりで暮らしている。
「――依人くん? おーいっ、依人くーん?」
ふと気が付くと、自転車を挟んで右側にいたはずの恋夏が左側のすぐ隣にいて、依人の顔を覗き込んでいた。
「ごめん、ちょっとぼうっとしてた」
「だいじょうぶ?」
「うん、平気。それでなんの話だっけ?」
「あれだよ。依人くんがどうやってほとりちゃんと仲良くなったのか、って」
「え」
ぼんやりとしている間に、かなり話の方向性が変わっていた。
高校入学以前のことを聞かれるよりはマシだが、これまた対応に困る話題である。
「家がめっちゃ近いってのは聞いたけど、でもそれだけじゃないんでしょ?」
「……。家が近いって話、したっけ……?」
「うん」
どのようにして話題が移行されたのかは覚えていないが、どうにも依人は思考の深みに意識を奪われてだいぶ無警戒に会話をしていたようだ。
恋夏の反応を確かめるに、そこまで妙なことは言わなかったと自分を信じたいが……。
「あー、そうだな……」
返答の仕方に悩んでいると、不意に恋夏が声量を抑えて、秘密めかした喋り方で言う。
「ぶっちゃけさ、聞いてもいい?」
「……なに、を?」
「依人くんとほとりちゃんって、もう付き合ってるの?」
「…………」
〝もう〟という二文字が添えられた意図が気になる所だが、依人はシンプルに否定する。
「つ、付き合ってません、けど??」
「なんで敬語? でもまだ付き合ってないんだ。そっかぁー」
――まだ、ってなに……。
あっさりと、からかうような感じでもなく、いずれ依人とほとりが付き合う未来が来ると疑ってすらいない口調だった。
周りからそのように思われていると察していながらも、自ら進んで否定するようなことはしていない依人だが、ここまで言われてしまえば訂正するしかあるまい。
「あの、水瀬さん」
「ん?」
「俺と空野さんは、別に、そういう関係ではありませんので」
「だからなんで敬語? もしかして依人くん照れてる?」
「照れてないです」
「いやめっちゃ照れてるじゃん! 依人くんかわいーっ」
今度はしっかりからかうように、けらけらと笑い始めた恋夏に、思わず『て、てれてねーし!?』と男子小学生みたいな反応をしかけた依人だが、何とかその台詞を呑み込んで自身を落ちつかせる。……冷静になれ。
空野ほとりと中原依人は――〝そういうのじゃない〟
これは照れ隠しでも何でもなく、単なる事実だ。
そうだ落ち着け。
何もムキになって否定することでもない。今まで読んできたラブコメを思い出せ。こういうのはムキになって否定すればするほどそれっぽくなってしまうのだ。
ほとりと自分がそうじゃないことは、自分自身がしっかりと理解しているし、きっとそれはほとりも理解している。
それさえ分かっていれば、周囲がどう思おうと何を言おうと、何も問題はない。
そこまで高速で思考を進めた依人は、ふっと息を吐いて、静かに吸って、曖昧な笑みを恋夏に向ける。
「まぁ、最近は確かに空野さんと一緒に過ごすことは多いけどね」
「ほんとそうだよねー。なんかほんとに急だったもん。だから一体何があったのかな、って。あっ、そうそう! だからそれを聞きたかったのーっ。依人くん、どうやってほとりちゃんと仲良くなったの? やっぱり二人とも本が好きだから話が合ったとかなのかな」
「う、うん、まぁ……そんな感じ、かな?」
そもそもの要因としてはライトノベルなので、何も間違っていない。
「そっかぁ。あたしもほとりちゃんと仲良くなりたいんだけどなー。本かぁ。あたしもラノベってヤツ読んでみよっかな。他の本よりは読みやすそうだし! ねーっ、依人くん! 依人くんのオススメとか教えて欲しーなーっ」
グイグイと迫ってくる恋夏に依人はたじろぐ。
――ちょ、近い……ッ!
恋夏に他意が無いとは分かっていても、それと彼女の積極的な距離感に冷静な対応をできるか否かは別問題である。
だが、人は時としてピンチにチャンスを見出す。
依人の脳裏に過ぎるのは、先日、ほとりの家でオムライスをつくった時の出来事。
夕食後に食器を洗っていたあの時、ほとりが依人に語っていた漫画の内容は、恐らく少女漫画のもの。そして恋夏が、『少女漫画とかめっちゃ読む』と言っていた記憶も、確かに依人の脳には刻まれていた。
恋夏が今にも依人に触れそうな距離まで接近した瞬間から、およそ0.2秒。
「――そういや空野さん、この前少女漫画の話もしてたような」
この窮地から抜け出すため、依人が早口にそう告げて、
「えっ! マジ!?」
興奮した恋夏がさらに依人に身を寄せ、反射的に身を引いた依人が自転車に引っかかりガッシャーンッ! と音を立てながら盛大に転倒。
「わぁぁぁぁあああっッ!? ごめん依人くんだいじょうぶっ!?」
依人を心配する恋夏の叫び声が、夜の街に高く響いた。
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