普通のオムライスとまたあした〈2〉


「間接キス、ってありますよね」

「え」


 昼食中は一切言葉を発さないほとりなので、食事中は喋らないというマナーを守っているのだと勝手に思っていたのだが、どうやらそういう訳でもなかったらしく。


 最初の『おいしい』という感想以降は、しばらく無言だったほとりが、急にそんなことを言い出した。

 依人が使っているスプーンをじぃっと見つめながらの、発言だった。


「ラブコメだと非常によく出てきますよね、間接キス」

「…………そうですね」

「私、思うのですが、間接キスとはそこまで気にするものなのでしょうか」

「そりゃ、人によると……思うけど?」

「はい、その通りだと思います。ですが、ラブコメに出てくるキャラはおおよそ総じて間接キスを恥ずかしがっているんですよね」


 ほとりは依人が使用中のスプーンを見つめて、


「確かにスプーンやお箸、ストローなどを使いまわすのは、忌避感を覚える人が多いというのも頷けます」


 コクコクと頷くほとりは、今度は依人が使っているコップに視線を移す。


「ですが、ペットボトルやコップを経由した軽い間接キスでも、ラブコメのキャラは少し不自然なほど、その行為を重要視しているように思われます」


 うーむ、とほとりが唸る。


「学校の教室でも、異性同性間を問わず、そのような行為に及んでいる方々は散見されますが、特別恥ずかしがっているようには見られません」


 依人も、恋夏とはじめとするクラスの目立った陽キャたちが、特に気にせず回し飲みしている光景はたまに見かける。

 ……が、依人はそれよりも、空いた時間には基本的に読書に夢中になって我を忘れるほどのほとりが、そういう時でも自身の周囲で起こっている出来事をしっかりと把握しているらしい、ということの方が気になる。


 先日そのことについて尋ねてみたのだが、ほとり自身もよく分かっていないらしく、首を捻りながら「その情報が必要になると、何故か思い出せるんですよね」と言っていた。

 怖い。


 だがひとまず、そんなほとりの謎については置いておくとして。


「ですので、ラブコメ的に間接キスという行為は、何かしら重要な意味を秘めていると思われるのですが、それについて、中原さんのご意見を頂戴したいです」


「あー……」


 ――空野さん、俺をラブコメの専門家か何かだと思ってる節あるよな……。


 ほとりがラブコメを理解するために協力することを了承した時は、日常的にこんな質問されるようになるとは思っていなかった。


 では、一体どういう形で協力することを想定していたのかと言われると、特に何か明確なイメージがあったわけでもないのだが。


「そう、だな……」


 どう答えたものだろうかと考えながら、依人はコップのお茶を飲む。

 ほとりの視線は依人のコップの、ちょうど口を付けたあたりに注がれている。

興味津々だった。


 ――やりづれぇ……。


 正直に言ってしまえば、そんな疑問を抱いたことすらなかった。

 もう、それは、そういうもんじゃないのか。


 しかし、それが単なるラブコメのお約束なのだと答えるのは簡単だが、そんな思考放棄のような返答は、ラブコメを深く愛する依人のプライドが許さない。


 真面目に考える。


 なんだ? ラブコメ的に間接キスが秘める重要な意味とは……なんだ?


 そんな風にして思考の海に沈む依人の隙を突くように、そぉっと依人のコップに手を伸ばすほとり。

 その様は、いけないことだと理解しつつも、親の目を盗んで親の私物に手を出す子どもの動きによく似ていた。


「……」


 なんとなくやりそうだと予感していた依人は、ほとりの手が届く前に自分のコップを避難させる。


 ハッ、と。イタズラがバレた子どものように依人を見るほとり。


「ダメですか、中原さん」

「ダメです」

「お願いしても、ダメですか」

「……ダメです」

「お願いします中原さん」

「今ダメって言ったよね?」

「しかし、これは私がラブコメを理解するためにも必要なことだと思うんです」


 訴えかけるように、ねだるように、純粋な瞳でほとりが依人を見つめる。


「くっ……」


 ほとりが本気でラブコメを理解しようとしていることは、依人も理解するところである。


 そんなほとりを尊重し、ほとりのためにも、自分のためにも、心から協力したいと思ったからこそ、依人は今、こうして彼女と一緒にいる訳だ。


 だがしかし、これはそう易々と許可していいことなのか?


 思い返せば、小学生の終わりから、女友達はおろか同性の友達もおらず、ラノベの世界に浸り続けて生きてきた依人には経験値が足りない。


 ラノベのラブコメばかり読んできた依人の価値観で言えば、間接キスはなんかよく分からんけど重大なことっぽい行為。

 しかし、現実のクラスメイトたちをはたから見ている分には、そう大したことでもないと思われる行為。


 ……どうするのが、正解だ?


 すると、悩む依人に付け入る隙を見出したのか、ほとりが追撃をしかける。


「お願いです中原さん、私と間接キスしてください」

「ラブコメでもまぁそんな台詞出てこないよ?」


 なんだか真面目に考えている自分がバカらしくなり、依人はコップをほとりに差し出す。


「もう好きにしてください……」

「ありがとうございます」


 恭しい所作で依人のコップを受け取ったほとりは、両手で包むように持ったそれを持ち上げ、ふちのあたりを真剣に見つめた。


「…………」


 神妙な雰囲気があった。


 まるで、今からとんでもないことが始まるのではないかと思わせる張り詰めた空気。

 ゴクリ、と。どこかから固唾を呑む音が聞こえてきそうだった。


 ――なんだ、これ……。


 かろうじて内心で突っ込む依人だが、鼓動の速度はドキドキと加速していた。

 なんだか、とてもいけないことをやっているような気分にさせられる。


 これが噂に聞く背徳感だろうか……と、依人がぼんやり考えていると、特に躊躇もせずほとりがコップに口を付けた。


「あ」


 そのままコクコクとお茶を飲んで、口を離し、ふぅと一息ついて、コップを置いたほとりが、依人を真剣に見つめて、艶々と潤っている唇を開いた。


「これは」

「……」

「普通のお茶ですね」

「そりゃそうだろ……」


 呆れる依人の体から、知らずに入っていた力が抜ける。

 なんだか無駄に疲れた気がする。


 コップを見て不思議そうに首を傾げているほとりに、何か物足りないと感じる依人。


 ――なんだ。一体何が足りないんだ……。


 そして、ついに気付く。


「分かった……っ」

「何がですか?」

「ラブコメのキャラが、間接キスを恥ずかしがる理由は」

「理由は……」

「そっちの方が、かわいいからだ」

「かわいいから、ですか……?」


 どんどんと首が傾いていくほとりに、依人は解説する。


 そう、今のほとりの間接キスに足りなかったのは――恥じらい。


「ラブコメにとって重要な要素の一つには、ヒロインのかわいさ、というのが挙げられる」

「ふむ」

「そして、ラブコメのヒロインが顔を赤くして恥ずかしがっている所は、かわいい」


 それ以上の理由はいらない。頬を赤らめて恥ずかしがっている女の子はかわいい。

 かわいいものは、かわいいのだ。


「間接キスは、そういう演出をつくりやすい行為の一つなんだよ」

「では、つまり、ラブコメに出てくるキャラの多くが間接キスを恥ずかしがるのは……」

「…………作者と読者の趣味?」


 そこまで言って、一体俺は何を力説してるんだろう……と、我に返る依人。


「なるほど……」と、深く納得している様子のほとりを見て、本当にこの説明で良かったのかと若干後悔する依人は、一度落ち着きを取り戻そうとして、ほとりから返してもらったコップを口元へ持って行ったのだが――。


 それが、たった今ほとりも口を付けたコップである事実を思い出し、手を止める。


 ――いや、現実で間接キスとか、別に大したことじゃないし……。


 そう自分に言い聞かせ、改めてコップに口を付けようとした依人は、唇に触れる寸前でそれを止めてテーブルに置き直す。


 ――うん、まぁ、別に今はのど乾いてないしな。うん。


 そして、そのままコップに手を伸ばすことなく、依人は残りの食事を続けるのだった。




 ほとりの皿に盛り付けられたオムライスはそこそこ量があり、依人は彼女が完食できるのか地味に心配していた。

 しかし、時間こそかかったものの、ほとりは出された分を全て問題なく平らげた。空腹が極まっていたというのもあるだろうが、普段のほとりの昼食の少なさや、元々は昼食すら食べていなかったらしい事実を思えば、少し意外だった。


 ――小食ってわけでもないのか……?


 洗い終えた食器類から順にほとりに手渡して、キッチンペーパーで水気を拭き取ってもらいながら、思わず彼女の顔をじっと見てしまう依人。


 まんまると透き通った宝石のような瞳と、依人の瞳が重なる。


「……?」


 首を傾げるほとりに、依人は「ごめん何でもない」と首を振り、顔を正面の蛇口に戻す。


 そしてふと、ほとりが何気ない口調で言った。


「なんだかこうして二人で夕食の後片付けをしてると、同棲中のカップルみたいですね」


 い、いきなり何言って――と、動揺しかけた依人は、ほとりの何かを試すような表情を見て、悟る。


「……それ、空野さんが読んだラブコメの台詞か何か?」

「はい。と言っても、ライトノベルではなく漫画ですが」


 どうやら最近のほとりは、ラノベ以外のラブコメ作品にも手を出して勉強に励んでいるようである。依人も趣味としてはラノベが中心だが、漫画も読むしアニメも見るし、いわゆるノベルゲームのようなものをすることもある。

 まぁ、好むジャンルの傾向としては、共通してラブコメ要素が強いのだが。


 ほとりは、この前読んだという漫画作品について概要を語り始めているが、どうにも少女漫画っぽい内容だった。


 依人はラブコメと聞くと、男性主人公に対して可愛く魅力的なヒロインが出てくるような、恋愛要素ありきのエンタメ作品を思い浮かべてしまいがちだが、少女漫画だってラブコメと呼んで何も差し支えない作風だろう。


 男と女でも、女と男でも、男と男でも、女と女でも、もちろんそれ以外のどんなパターンだって。

 要するにそこにラブとコメディさえあれば、ラブコメは成立するのだから。


「――料理上手な主人公が、そうして学園の王子様の胃袋を掴んでしまうのですが、今日中原さんの手料理を頂いたことで、少しその気持ちが理解できた気がします」

「えー……、どういうこと?」

「私、少し大げさな表現だと思っていたんです。胃袋を掴む、というのが。……ですが、やはり手料理で相手の気を引ける、というのは強力なアドバンテージになるのでしょうね。私が自炊を行えないというのも一つの要因だとは思いますが、中原さんに用意して頂いた今日の夕食は非常に満足できました」

「そ、それは、どうも……」


 こうも手放しで褒められてしまうと、反応に困る依人である。

 謙遜でもなく、そこまで大した料理をつくったとは思えないのだが、満足してもらえたのなら作り手冥利に尽きる。

 ここは素直に感謝を受け取っておくとしよう。


「中原さんは、毎日ご自身で料理をつくっていらっしゃるのですか?」

「うん、まぁ、基本的には」

「それは、すごいですね」


 素直に感心したような反応を見せるほとりに、依人はつい苦笑を漏らす。

 依人の自炊のモチベーションは、親の仕送りにあまり頼りたくない、という反骨精神めいた節約意識から来ている。だから、この賞賛は真っすぐ受け取ることができなくて、依人は曖昧な笑みで誤魔化した。


 しかしながら、ほとりはそんな依人の対応の差異は気に留めなかったようで、変わらぬ調子で質問を重ねてくる。


「普段は、どういうお料理をつくっているのですか?」

「ほんとに大したものはつくってないんだけど、まぁ、そうだなぁ。肉と野菜を切って炒めただけの肉野菜炒めとかはけっこうつくるかな、楽だし。あぁでも、カレーとかも案外楽だったりはする」

「カレー……」

「土日の昼とかは焼きそばとか焼うどんとか、よくつくるよ。スバゲッティとかは昼も夜もつくるけど」

「スパゲッティ……」

「この前はハンバーグに挑戦してみたけど、上手く形がまとまらなくてボロボロに崩れたから今度はもうちょっと上手くやりたい感じが……」

「ハン、バーグ……っ」


 と、そう呟いたほとりの手の動きは完全に止まり、視線は依人に吸い寄せられている。

 探偵でなくても、今のほとりの気持ちを推理することは容易いだろう。


「………………今度機会があったら、また、今日みたいにつくろうか?」

「いいのですか?」


 目を丸くして、その中に期待の色を覗かせるほとり。


「いいよ」と、微苦笑気味に頷いた依人は、どうにもこれを素でやっているっぽいほとりを見て、色んな意味で恐ろしい少女だ……と思うのであった。




 夕食の片づけを済ませたあと、依人はほとり宅からお暇するべく玄関にいた。


 元来綺麗好きな依人としては、ほとりが生み出した芸術とでも呼ぶべきあの惨状も片付けたい衝動に駆られていたのだが、今はもう夜だし、ほとりの疲れも残っていそうなので、帰宅することにした。


「中原さん、本日は本当にありがとうございました」


 深々と頭を下げているほとりに、依人は「うん、どういたしまして」と返す。


 そして、「じゃあ」と言いながら扉を開きかけた依人だが、そこではたと立ち止まり、お節介だと分かっていながらも言わずにはいられないことをほとりに告げる。


「あー、空野さん」

「はい」

「時間があるときでいいと思うんだけど、あの部屋はもう少しどうにかした方がいいかもしれない」

「……どうにか、とは、片付ける、または清掃する、という意味で合っていますか?」

「合ってます」


 瞬間、ほとりの顔に衝撃が走る。ガーンという効果音でも聞こえてきそうな顔だった。


「が、がんばって、みます」


 若干視線を泳がせながら頷くほとりに、依人はふっと無自覚の微笑をこぼす。

 それはまるで、手のかかる妹を見る兄のような、仕方ないと呆れながらも、それでも確かに、慈愛と形容する他にない感情で薄っすらと彩られた――そんな小さな笑みだった。


 自分がそんな風に笑っていることに気付かないまま、依人は控えめに手を挙げる。


「じゃあ、またあした」


 そんな依人を見て、ほとりもまた、そっとやさしげに微笑んだ。


「はい、またあした」

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