普通のオムライスとまたあした〈1〉

 十一月も半分が過ぎ去り、本格的な冬の気配を感じさせる日曜日の夕方のことだった。


 依人が食材の買い出しに行こうと家を出たら、目の前にほとりが倒れていた。


 ウソだろ……と思いながら、慌ててほとりを抱き起す依人。


 もこもこのロングコートを着込んでいるせいで膨らんで見えるほとりの体は、実際に触れて起こしてみると、驚くほど華奢で軽かった。


「空野さんっ。空野さん大丈夫っ!?」


 依人が必死で呼びかけると、閉じられていたほとりのまぶたがゆっくりと開く。


「ぁ……、なかはら、さん……」


 消え入るような掠れた声だった。


「おな、か……すき、ました……」


 死に際の言葉を残すように言って、ほとりはガクンと気を失った。


「えぇ……」




 ほとりを横抱きにして持ち上げた依人は、そのまま自分の家に運ぼうとしたが、何となくイヤな予感がしてほとりの家の扉を開くと、鍵がかかっていなかった。


 ――だから不用心すぎるって……。


 中で事故ってるかもしれないと思われたあの時とは違い、女性の家に勝手に上がり込むのはヤバいと分かっていたのだが、どうにも中を確かめずにはいられなくて、依人はほとりを彼女の家に運び込む。


 相変わらず本で溢れかえった廊下を抜けた先にあるリビングルームを恐る恐ると覗いた依人は、ほとりを抱えていることも忘れて頭を抱えたくなった。


「……」


 三週間前に依人が手伝って清掃したはずの室内が、ものの見事に元に戻っていた。


 ほとりの名誉のために細かく描写することは避けるが、あえて言うなら、この惨状を公開すれば学校でほとりに憧れている人物の九割くらいは確実に減るだろう、というものだ。

 ちなみに依人は九割の方である。


 その恐ろしい光景をなるべく視界に入れないようにしつつ、依人はソファの上に散らかっていた諸々を退かしてから、ほとりをその上にそっと寝かせる。

 その際にコートも脱がせた訳だが、ほとりが下に着ていたのは飾り気のない厚手のスウェットだった。


 間近で見ると、ほとりの綺麗な黒髪がいつも以上に艶めいており、シャンプーかリンスの匂いがふわふわと濃く香っていた。入浴したばかり、という感じ。


 そんな彼女の無防備な状態に依人は一瞬ドキッとしたが、周囲に散らばり過ぎている無防備過ぎる生活感に溢れ過ぎた有様が視界に入って、すぐに冷静が戻って来た。


「…………」


 すやすやと安らかな寝息を立てているほとりは、このまま寝かせておいても特に問題なさそうだが……。


 ――念のため、救急車でも呼んだ方がいいかな。


 そんな風に悩みながら、依人はキッチンスペースに移動して冷蔵庫を開けてみる。


 同級生の少女の家に勝手に上がってやりたい放題の依人だが、彼に一切の下心がないことは彼の名誉のために添えておこう。


「……」


 冷蔵庫の中には、おおよそ食べ物らしい食べ物がほとんど入っていなかった。

 あるのは水と、エナジードリンクと、栄養ゼリーに、食べかけのチョコレート。あとはコンビニで売っているようなおにぎりが二つ。ちなみにおにぎりの賞味期限は切れていた。


「…………なるほど」


 そんな呟きをしつつ、依人が「うーむ」と唸っていると、「中原さん?」という声が聞こえた。


 リビングスペースの方に振り返ると、ソファに寝ていたほとりが上体を起こしていた。


「あ、空野さん」


 首を傾げているほとりの顔色はそこまで悪くない。


 大丈夫そうかな、と思いつつ、依人は尋ねる。


「先に聞いておきたいんだけど、空野さん、どれくらいご飯食べてないの?」

「……」


 ほとりは思い出すように顎に指を添えて、数秒ほど沈黙を挟み、


「そうですね。金曜日帰って来てからほとんどご飯を何も食べてない、ような、気が、します……?」


 ハッキリしない答えだった。


「……なるほど」


 冷蔵庫からミネラルウォーターと栄養ゼリーを取り出した依人は、ほとんど使った形跡の見られないIHコンロに、埃を被っていたヤカンを水で洗ってからセットする。


「何をしてらっしゃるのですか?」

「いや、いきなり冷たい水飲むのはよくない気がするから」

「……?」


 ミネラルウォーターを人肌程度にまで温めてから、マグカップに注いでほとりの元へ持っていく。


「ゆっくり飲んで」

「ありがとうございます」


 カップを両手で受け取ったほとりは、コクコクとぬるま湯を飲んで、ふぅと息を吐く。


「落ち着きますね」

「それは良かったです……」


 ほとりが全部飲み切るのを待ってから、依人は「はい」と栄養ゼリーを渡す。


「これもゆっくり飲んで」

「ありがとうございます」


 スパウトパックの飲み口を咥えて、言いつけ通りに、ちゅる……ちゅる……と、ゆっくりゆっくりゼリーを吸い出していくほとりを見守ること、数分。


 栄養ゼリーを完食したほとりは、ふーっと満足げに息を吐いて、依人を見た。


「ありがとうございました。もう大丈夫です」

「いや大丈夫ではない気がするけど?」


 ほとんど丸二日何も食べていないっぽいのに、これだけで持つはずがない。


「この土日、マジで何してたの」

「はい。締め切りが近い原稿がありまして、ずっと執筆をしていました」


 ――おぉ……、小説家らしいエピソード……。

 ほとりのペンネームについては、先日彼女から聞いた依人だが、その名前でネット検索をかけてみると非常に多くのヒットがあった。


 調べた結果をまとめると、ほとりは、ここ数年のミステリ界では飛びぬけた注目を集める新進気鋭の作家であるらしい。

 硬く重厚な雰囲気と隙の無い推理構造が売りで、熱狂的な支持をしているファンも多いとか、なんとか。


 ――あぁ、本当にすごいんだな。


 その時は、とても自分と同じ年代とは思えないほとりに畏敬を覚え、彼女を遠い存在に感じたものだが……。


「じゃあ、その締め切りがヤバすぎてご飯を食べる暇もなかったってこと?」

「いえ、締め切りにはまだ余裕があるのですが」


 ――ならどういう訳だ……。


「執筆に夢中になるあまり休息と食事を忘れていました。とても筆が乗っていたので、手が止まらなかったのでしょうね」

「なんで他人事みたいに言ってんの?」

「そして先ほど原稿が書き上がったので、何か食糧を買いに行こうと家を出たのですが、思ったより体力の限界が近かったようで倒れてしまいました」

「…………休憩と食事は、ちゃんと取ろうね」

「はい、反省しています。中原さんには大変ご迷惑をおかけしました」

「……まぁ、うん、そうだな。反省、しよう」


 ――マジでいつか俺の見てない所で死んだりしないだろうな……。


 ほとりに対して日々感じている心配が、増々加速した依人であった。




「空野さん、ってさ。自炊はしないんだよね」


 キッチンの使用感から分かっていることだが、依人は改めてほとりに尋ねた。


「はい。ひとり暮らしを始めた頃に何度か挑戦してみたのですが、私が料理をすると食材に申し訳が立たなくなることを理解して、諦めました」

「……潔いな」


 一体どんな料理をつくったのか非常に気になる所ではあるが、一旦それに関するツッコミは置いておくとして。


「……じゃあ、さ」

「はい」

「えー、あのさ、えっと」

「はい……?」


 言い淀む依人に、ほとりが首を傾げた。


 そして、いくつかの葛藤の末、ようやく意を決した依人が口を開く。


「俺が、なんかご飯つくろうか?」


 ほとりは、パチクリと目を瞬かせる。


「中原さんが、ですか?」

「あぁ、うん。まぁ」


 すると、何かが引っかかったらしいほとりが首を捻って、ハッと目を見張った。


「中原さん、私、知ってますよこれ」

「…………え、なに」

「ラブコメでは定番として、ヒロインが主人公に手料理を振舞うというイベントがありますが」

「……」

「同様に、料理のできる男主人公キャラがヒロインに手料理を振舞う機会もままあります」

「……」

「これは、それを実際に疑似的に体験させて頂けるという、そういうお話ですね」

「…………」


 本当は、あまりちゃんとしたものを食べていなさそうなほとりの体調面を気遣ってのことだった、のだが。


「その通りです」


 そういうことに、しておいた。




「空野さん、何か食べたいものとかある?」

「私の希望に沿っていただけるのでしょうか?」

「元々食材買いに行こうとしてたとこだったし、特に今日作るもの決めてたわけじゃないから、まぁ、空野さんの希望があれば」

「分かりました」


 コクリと頷いたほとりは、「少し考えさせてください」と言って黙りこくってしまう。


 顎に手を添えたほとりが真剣な表情で悩むこと、しばらく。


 不意に顔を上げて、依人を見つめたほとりは言う。


「オムライスが、食べたいです」

「……」

「ダメでしょうか?」

「いやいいよ。つくろうか、オムライス」


 依人が微苦笑気味にそう返すと、ほとりの顔がパッと明るくなった。

 とても小さい表情の変化だが、どうやら喜んでいるらしい。


 ほとりの分かりにくい表情も、最近は何となく掴めるようになってきた依人である。


「じゃ、俺は材料買ってくるから空野さんは休んどいて。疲れてるだろうし」


 ほとりは少し考えるように依人をじっと見たあと、こくりと頷く。


「では、お言葉に甘えさせていただきます。ありがとうございます」


 そうしてソファに横になろうとしたほとりを見て、依人はあることに気付く。


「あ。ここのカギ、どうしようかな……」


 出る時はほとりにカギをかけて貰うとしても、ここに戻ってくる時、疲れて寝ているであろうほとりをインターホンの音で起こすのが忍びない。そう思ってこぼれた言葉だった。


「でしたら」


 ソファから降りたほとりがスウェットのポケットに手を突っ込んで、首を捻り、脇にあったコートのポケットを全て確かめてから首を捻り、それから少し瞑目して、ハッと目を開くと、散らかりまくった部屋の中から迷わずカギを探り当ててきた。


「これをどうぞ」


 まるで無警戒にカギを渡してきたほとりに、やっぱり無防備すぎるよな……と思いながらカギを受け取って、依人は先ほど覚えた心配を口にする。


「空野さん」

「はい?」

「普段家を出る時、ちゃんとカギはかけてるよね」

「もちろんです。オートロックではないと分かってからは、しっかりかけています」

「でもさっき俺が入った時はかかってなかったけど」

 するとほとりは、少し気まずそうな顔で、

「先ほどは、意識が朦朧としていましたので……」

「…………」


 さらに心配が積み上がる依人だった。




 依人が近所のスーパーで買い物を終え、一度自宅に寄って夕食の準備に必要そうなものを集めてからほとりの家に戻ると、ソファの上で小さな寝息を立てるほとりの姿があった。

 仰向けになって、胸の前で両手を組み合わせるという個性的な眠り方をしている彼女は、そこだけを切り取って見れば、まるで神秘の森の深奥に横たわる眠り姫のようである。

 本当に綺麗な少女だ。壮麗で、崇高さすら滲み、凛と澄んでいる。


 …………まぁ、あくまでそこだけを切り取ってみれば、の話なのだが。


 眠り姫を取り囲むように広がっているこの部屋の残念な惨状に、依人はだいぶ惜しいものを感じながらキッチンに移動する。

 その時、依人の立てた物音がキッカケになったのか、むくりとほとりが起き上がる。


 ほとりはぼうっと惚けたような顔で部屋の中を見渡し、やがてその目線が依人に向けられる。

 パチリと、ほとりの目が大きく開いた。


「中原さん、おはようございます」

「うん、おはよう空野さん。調子はどう?」

「元気になりました」


 頷いたほとりはソファから降りて、てこてこと依人がいるキッチンにやって来る。


「オムライスをつくるのですよね? 私もお手伝い致します」

「いや――」


 手伝いは大丈夫、と言いかけた依人は、こちらを見上げるほとりの無垢な瞳を見て口をつぐんだ。

 その瞬間、依人は家事を手伝うと申し出る幼い子どもを見る時の親の気持ちを理解した。


 完全に、理解わかってしまった。


 絶対に一人でやった方がスムーズだが、この純粋な厚意を無下にする訳にはいかない。

 ここですげなく突っぱねてしまえば、子どもは人に向ける思いやりの心を失い、捻くれた性格になってしまうかもしれない。

 子どもの健全な成長のためにも、ここは素直にその厚意を受け入れるべきだろう。


 などと考える依人だったが、ほとりと依人は同年代である。

 何なら、まだ依人は知らない事実だが、ほとりの誕生日は依人より早いのでほとりは依人より年上である。


「じゃあ、えっと、そう、だな……」


 依人は自宅から持ってきた米びつと、キッチンにある最新型の炊飯器を交互に見やって、言った。


「お米、研いでもらおうかな」

「はい、分かりました。任せてください」


 ぐっと気合いを入れるように拳を握るほとり。


 不安だ……と、思う気持ちを抑えきれない依人であった。




 二人で入るとそこそこ窮屈なキッチンに並んで立つ。

 細く小さな手でシャカシャカと米をかき混ぜているほとりを見守りながら、依人は水を入れた鍋をIHコンロにセットする。


「中原さん、オムライスをつくるのではないですか?」


「そうだよ。でも米が炊けるのを待つ時間が余りそうだから、コンソメスープでもつくろうかな、と」


 ほうっと感嘆の息を吐いたほとりが、依人を見上げる。

 依人の自惚れでなければ、どうやら尊敬っぽい念を向けられている感じである。


 依人を見つめるほとりの目が心なしキラキラと輝き、手は完全に止まっている。


「……空野さん、手を動かして」

「あ、すみません」


 シャカシャカと米研ぎを再開するほとりを見守りつつ、依人はスープとチキンライスの両方に入れるつもりの玉ねぎと人参を洗い始める。


「水借りるよ」

「はい」


 洗った人参と玉ねぎの皮を剥きながら、依人は、一生懸命米を研いでいるほとりに言う。


「空野さん、もういいと思うよ」


 もはや研ぐではなく洗浄する領域に入っていたほとりにストップをかけて、研いだ米を炊飯器にセットして早炊きするようお願いした。


「早炊きでいいのですか?」

「うん。普通に炊くと結構時間かかるし、どうせ今日はチキンライスにするから」

「チキンライスだと……早炊きでもいいのですか?」

「早炊きにするとちょっと硬く炊けるっぽいんだけど、チキンライスにする時は硬いお米の方がいいから。ただまぁ、最近の炊飯器は優秀だから、俺も普通に炊いた時と早炊きの違いがあんま分かんないんだけど」

「ほぉ……」


 今度は、依人と炊飯器の両方に感心の目を向けるほとり。


「中原さんも最近の炊飯器も、すごいんですね」


 ――その褒め方、俺と炊飯器が同列みたいでちょっとアレだな……。や、別に炊飯器がどうとかそういう話ではないんだけど……。




 その後、ほとりにサラダ用のレタスをちぎってもらってプチトマトと一緒に盛り付けてもらったり、食器の用意をしてもらったり、使用が終わった器具を洗ってもらったりしつつ、依人はコンソメスープとオムライスの調理を進めた。


 完成したオムライスを皿に盛ったあと、脇に置いておいたコンソメスープを温め直して、二人分のカップに注ぐ。


 食卓に並んだオムライス、コンソメスープ、サラダを見て、中々良い感じにできたなと依人は自賛する。


 オムライスは、しっかりと火を通した卵でチキランスを包み、トマトケチャップをかけたオーソドックスなスタイルである。

 おしゃれカフェで出てくるようなふわとろ半熟タイプのオムライスは依人にはつくれない。

 あと、卵で包むのに失敗して形が若干崩れているが、気にしてはいけない。そう、気にしてはいけない。


 食卓を挟んで依人の向かいに座ったほとりは、オムライスと依人に対して交互に、チラチラと忙しない視線を飛ばしている。。


「……」


 依人は今なら、ほとりの心が読める気がした。


「じゃ、食べよっか」

「はい食べましょう」


 いただきます、と二人で揃って手を合わせて、依人は懐かしい感覚を覚える。


 ――久しぶり、だな……。こういうのは。


 最近はほとりと一緒に昼食を取っている依人だが、やはりそれぞれが別のものを食べるのと、こうして同じ食卓を囲むのとじゃ、色々違ったものがある。


 依人がひとり暮らしを始めたのは高校生になってからだが、最後に誰かと食卓を囲んだのはもっと前の話である。


 過去、両親が離婚して、周囲の環境がそれまでとガラリと変わってしまって、友達がいなくなって、母親が再婚して、ほとんど他人でしかない人たちが自分の家族になって――。


 そんな荒れ狂うような日々の中で、依人はどこまでも子どもだった。


 ライトノベルとの出会いがあったお陰で、依人の心が限界を越えて追い詰められることはなかったものの、それでも、自分を取り囲む現実を認めることができなくて、依人はそれらを拒絶し続けた。

 ――否、拒絶し続けている。


「……中原さん、食べないのですか?」


 オムライスをスプーンで掬った状態で、ほとりが首を傾げていた。


「いや、食べるよ」


 自嘲を呑み込んだ依人は曖昧な微笑を浮かべて、オムライスを口に運ぶ。


 依人が最後にオムライスをつくったのは、確か夏休みの最中だったが、その間に依人の料理スキルが激変した訳でもないので、特にあの時と変わらない味。

 可もなく不可もなく、何ならちょっと不可寄りの、普通の域を出ない手作り感溢れるオムライス。


「――とても、おいしいです」


 コクンと喉を鳴らしたほとりが、依人を見て、そっと頬をほころばせた。


「――――」


 ――自分のつくった料理を褒められるのって、けっこう嬉しいもんだな……。


「ありがと」


 思った以上に自然に笑えた依人は、もう一度スプーンで掬ってオムライスを食べる。


 その味がさっきより美味しく感じられたのは、神秘的な現象だった。

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