彼と彼女の非日常〈3〉


「それでは中原さん、今朝のことなのですが」


 当たり前のように教室を出る依人のあとに付いてきたほとりが、空き教室に到着して椅子に座るや、そう切り出した。


「あぁ……うん」

「水瀬さんが呼ぶ『依人くん』と、私が呼ぶ『依人くん』は、何が違うのでしょう?」

「しっかり朝の続きからだな」

「?」


 弁当も何も持って来ていない手ぶらのほとりは、本当にその話をするためだけに依人にくっついてきたらしい。


 いつもの調子でデイパックから弁当の包みを取り出した依人だが、一人だけ昼食を始める気分にもなれず、横の机に弁当を置く。


 そして依人は、ほとりと向かい合ってうーむと唸った。


 仕方ない。これもほとりがラブコメを理解するためには必要なこと。

 それに、協力することを依人は約束したのだから、依人にできることなら全力で応えるべきだろう。


「そうだな……。じゃあ、空野さん」

「はい」

「キャラ、って分かる?」

「キャラ……ですか?」

「そう、まあ属性って言ってもいいんだけど」

すると、何かに気付いた様子のほとりがパチリと目を瞬かせる。

「キャラの属性、ということでしょうか?」

「あーそう、そういうこと」


 少し得意げな様子で、ほとりがふんふんと頷く。


「それなら分かりますよ。ツンデレ、とかいうヤツですね?」

「ツンデレはいい例えかもしれない。ラノベとかのラブコメは、個性が豊かなキャラクターがいっぱい出てくるけど、みんなそれぞれ違う特徴とか魅力を持ってるでしょ」

「それが属性、ですよね」

「そう。その中でもツンデレが、そういう名称が定着するくらい人気なのは、ギャップっていう要素が強いからだと思うんだよね」

「ギャップ、ですか」

「うん。普段はツンツンと可愛くない態度を取ってるキャラが不意に可愛くデレるから、そのギャップの分だけ魅力的に感じる」


 顎に指を添えたほとりが、得心がいったようにふむと頷く。


「つまり、お腹が空いている時に食べるご飯ほど美味しい、というようなものですね」


 そう言ったほとりの視線は、なぜか依人の弁当に向けられていた。 


「そう、ですね……。――だから、こういうのを現実でも当てはめるのはちょっとアレな気がするけど、あえて言うなら、空野さんと水瀬さんは属性が違う」


 ほとりの視線が、依人に戻ってくる。


「要するに、水瀬さんは色んな人ともよく喋ったり仲良くしたりしてて、基本的には相手を下の名前で呼ぶことが多いイメージがあるから、別に俺を下の名前で呼んでもそこまで特別感がない。けど、空野さんはそもそも誰かと喋る機会が少ない感じで、誰かと話す時も相手のことは苗字呼びのイメージがあるから……」


「なるほど、理解しましたよ」


 こくこくと頷いて、ほとりがどことなく嬉しそうに依人を見た。


「だから、私が中原さんと一緒にいればみなさんから注目が集まって、私が中原さんを下の名前で呼ぶと照れてしまわれるのですね。特別感が出てしまうから、ですね?」

「…………そうです」


 至極まじめな表情で淡々と分析されて、妙な恥ずかしさに耐えきれなくなった依人は顔を片手で覆った。

 指の隙間から覗くと、ほとりはまた首を傾げて依人を見ていた。まるで小鳥のように。


 ――ギャップ、か……。


 転校して来てからしばらく、まるで誰とも関わりを持とうとせず、ひとり静かに本を読んでいた頃のほとりと、こうして今目の前にいるほとりには、ギャップがある。


 それはもう、恐ろしいくらいのギャップが。


 なんというか、バカ真面目というか、ポンコツというか、天然というか、なんというか。


「また一つ、分かることが増えた気がします」


 この三日。たった三日とは言え、隣で彼女の表情を見続けたからだろうか。

 その瞬間、ほんの微かに、ほとりの口元が緩んだのが分かった。


「やはり中原さんは頼りになりますね」


 あの時見た、分かりやすい笑みとはまた違うけれど、それは確かに微笑みで――


「まって」


 思わず、心の声がそのまま口から飛び出した。


「? 何を待てば良いのでしょうか?」

「……何も待たなくていいです」

「……?」


 ――それは卑怯だろ……。


 ほとりが何も意図していないのは分かるが、つい文句を言いたくなる。


 よろしくない。非常によろしくない。

 あくまで依人とほとりは単なる協力関係なのだから、この感情はよろしくない。


 依人はすうはぁと呼吸を整えて、落ち着きを取り戻す。

 その時、くぅぅ……と、子犬の鳴き声のような音が響いた。


「……」


 お腹に手を当てながら、ほとりが我が身を見下ろす。


「失礼しました。いつもは本を読んでいるので大丈夫なのですか」


 腹の音って読書の有無で鳴ったり鳴らなかったりするのだろうか……。

 などと、そんなことが気になりながらも依人は尋ねる。


「空野さんっていつも昼ごはん食べてないよね。今日も何も持ってきてない感じ?」

「はい、そうですね」

「それで一日ちゃんと持つの?」

「本を読んでいれば、持ちますね」

「……あの、一応言っとくけど、読書は栄養にならないからね」

「はい、分かっています」


 真面目な顔で頷いたほとりが、依人の弁当をジッと見つめながら言う。


「どうぞ、中原さんは私を気にせずに食べてください」

「……うん」


 ほとりの視線を感じながら、依人は弁当の包みを開き、箱の蓋を外した。

 昨日の夕食の残りと冷蔵庫にあったものを適当に詰め込んだ中身が露わになる。

 豚の生姜焼き、卵焼き、プチトマト、ブロッコリー、ウインナー、白米、など。


 くうぅぅ……と、またほとりのお腹が鳴った。

 ほとりの目は弁当の中身に釘付けだった。


「…………」


 ――食べづらいわッ!


 内心で叫ぶ依人は耐えきれなくなり、控えめにほとりに聞いてみる。


「……食べる?」

「いえ、それは中原さんの昼食ですので」

「じゃあ、空野さんも購買とかで何か買ってきたら?」

「そうできたらよかったのですが、残念なことにお金がありません」

「サイフ……持って来てないの?」

「はい、家に忘れてきました」


 堂々と言われる。


「…………じゃあ、俺が貸すから何か買ってきなよ」


 ポケットから財布を取り出して千円札を差し出すと、ほとりは目を丸くした。


「いいのですか?」

「ちゃんと返してくれるならね」

「もちろんです。では、ありがたくお借りしますね。この恩は必ずお返しします」


 恭しい態度で千円札を受け取ったほとりは立ち上がると、依人にペコリと頭を下げてから教室を出て行った。

 ほとりがいなくなった教室で、いつもと同じひとりの空間に変な物足りなさを感じながら、依人は箸を手に取って呟く。


「なんだかなぁ……」




 いつもと同じように耳にイヤホンを詰めて音楽を聴きながら、依人はのんびり昼食を進めた。そして、中身の八割ほどを食べたくらいのタイミングで、ほとりが戻ってくる。


 その手には、購買で売っている定番の焼きそばパンが一つだけあった。


 ――あ、ここで食べるのか。


 イヤホンを外しながら、依人はそんなことを思った。


 ほとりが出て行った時の流れを思い返せば不自然なことではないが、依人は勝手にもうひとりで昼を過ごすものだと思い込んで、先に食べ始めていた。


 ――食べるの待っといた方がよかったかな……。


 普段からひとりで過ごす時間が長いせいか、こういう所で気が利かないな……と、自嘲をこぼしてしまう。


「ごめん、先食べてた……」

「いえ、全然お気になさらないでください」


 ふるふると首を振るほとりが本当に気にしていないことは分かるが、依人はなんとなくモヤモヤした気分になってしまう。


 依人の前の椅子に腰を下ろしたほとりは、しっかり手を合わせて「いただきます」と口にしてから、いそいそとパンの包装を開いている。

 普通サイズの焼きそばパンが一つだけ。


 本当にそれだけで足りるのだろうか、と思いつつ、依人も食事を再開した。


 小さな両手でパンを持ち、小さな口でちまちまとパンをかじるほとり。

 ただパンを食べているだけと言えばそうなのだが、こういった何気ない所作から、ほとりの育ちの良さを感じることは多い。


 だが、それと引き換えに彼女の生活能力がほとんど皆無であることを依人は知っている。


 ――お嬢様、っぽいよなぁ……。


 箱入り娘、というワードが頭に浮かぶ。

 だが、だとすれば、そんな彼女がどうして普通のマンションで一人暮らしなんかをしているのか。


 気にならない、と言えばウソになる。

 しかし、わざわざ依人が踏み入って聞くようなことでもない。


 そうして、お互いが無言のまま依人とほとりの昼食は進んでいく。


 妙な気まずさを覚えつつも、ちょうど依人が弁当を空にした時、


「……あっ」


 パンを半分まで減らしたほとりが、ポツリと呟いた。

 一体どうしたのかと思っていると、顔を上げたほとりが深刻そうな顔で言う。


「大変です中原さん」

「どうしたの」

「飲み物を買うのを、忘れてしまいました」

「……」


 焼きそばパン一つだけを持って帰ってきた時点でなんとなくそんな気はしていたが、やはりそうだったか。


「……これ飲んでいいよ」


 依人は、食後に飲もうと思っていた紙パックの野菜ジュースをほとりに渡す。


「これは中原さんの飲み物では……?」

「まぁ俺は水筒も持って来てるから」


 言いながら、依人はデイパックから水筒を取り出す。


「しかし……」


 ほとりは少し困ったように眉を寄せながら、既に片手に受け取っている紙パックのジュースを見た。そして、深々と依人に頭を下げる。


「何から何まですみません。それでは、中原さんのご好意に甘えさせていただきます」

「うん」


 ほとりは片手にパンを、もう片方の手に紙パックのジュースを持って、紙パックを持ち上げたかと思うと、スッと下に降ろして、今度はパンをジッと見つめる。

 それからまた、紙パックに視線を移した。

 ……ストローで空ける飲み口が塞がったままの、紙パックを。


「………………俺が空けるよ」

「すみません。お願いします」


 依人ならパンを咥えたままストローを突き刺すところだが、ほとりにはそんな品の無いことは思いつきもしなかったのかもしれない。

 そんな風に思って、依人はほとりから受け取った紙パックにストローを刺し、ほとりに返そうとしたのだが……。


 手渡そうとした紙パックから伸びるストローを、あーんと口を開けて直接咥えようとしたほとりを見て、依人は咄嗟に叫びそうになった。


 ほとりの艶めいた唇と、白い歯が目に焼き付く。


「あ。すみません、つい」


 ――つい、ってなんだ!?


 ちょっと無防備過ぎやしないだろうか。他のことも含めて、色々と心配になってくる。

 今度はしっかり手で取った紙パックのジュースを、ストローからちゅるちゅると吸い始めるほとり。


「………………」


 なんなのだろう、これは。


 落ち着かない。これまで過ごしてきた毎日とは、まるで違う感覚があった。

 ぼんやりと無言のまま、依人はほとりの食事風景を見守る。


 ふと窓の外を見やれば、今朝は曇っていた空が綺麗に晴れて、澄んだ青空が覗いていた。


 黙々と食べ進めて食事を終えたほとりは、丁寧に両手を合わせてから、依人を見る。


「中原さん」

「……なに?」

「先ほどの休み時間に読んだライトノベルの中で、よく分からないことがいくつかあったので、お聞きしてもよろしいでしょうか?」

「いいよ……。俺に答えられることなら」

「はい、ではお聞きしたいのですが。『バカップル』って、なんですか?」

「……。あー、うん。そう、だな……。えっと。例えば――」


 なんだかなぁ……と、そう思う。

 果たしてこれで、いいのだろうか。


 依人の説明を真剣な様子で聞きながら、ふんふんと頷いているほとり。


 ラブコメが理解できないから教えて欲しい、だなんて。

 一見ふざけているようにも聞こえる文言だが、この少女は至って真面目な訳で、だからこそ、ラブコメの中に出てくるバカみたいなことでもこうして素直に疑問をぶつけてくるし、その理解に繋がりそうなことなら実践してしまうのだ。


 空野ほとりは、母が遺した作品の続きを書こうと、本気でライトノベルのラブコメを――、依人が好きなソレを理解しようとしていて、そのために、依人を頼っている。


 まぁ。少なくとも悪い気分では……、ないかな――と。

 それだけは、確かだった。




 昼休みが終わりに近付き、依人とほとりは教室に戻った。

 だが、ほとりと並んで教室に入った依人は、微かに違和感を覚える。


 ――なんだ……?


 教室の――より具体的に言うならクラスメイトたちが依人とほとりを見る雰囲気が、昼休みが始まった時とは少し違う感じだった。


 朝から昼休みが始まるまで、依人とほとりには、あたかも二人の関係を探るような、怪しむような、その真偽を確かめるような、そんな落ち着かない視線が集まっていた。


 だが、今は――。


 この雰囲気を無理やり言葉で表現するのなら、まるで生温かく見守るような……。


「依人くん依人くん」


 依人が席に着くと、気配を殺すようにしてそろそろと恋夏が近づいてきた。

 身を屈めて依人と視線の高さを合わせた恋夏が、口元に手を添えて、こそっと囁くような声音で言う。


「依人くん。あたしもだけどさ、みんなが朝からごめんね。居心地悪かったでしょ? でもやっぱり、気になっちゃうんだよね。こういうのはどうしても、ね」


 恋夏が言わんとすることを理解して、依人は「あぁうん」と、苦笑する。


 仕方のないことだ。

 依人とほとりの関係を気にしてしまう彼ら彼女らの気持ちは、依人にも理解できる。


「でもねもう大丈夫。少なくともウチのクラスのみんなには、ちゃんと言っといたから」


 ――は……?


 曖昧な苦笑を浮かべていた依人の顔が、凍り付く。


「なに、を……?」


 恐る恐る依人が尋ねると、恋夏がうんうんと頷いた。

 あたしはちゃんと分かってますよ、と言わんばかりに。


 ――だから、何を言ったんですか……。


「あたしもみんなも、なるべく野暮なことはしないようにするから。だから安心して」


 恋夏はグッと、依人を鼓舞するように前に出した両手を握る。


「あたしは応援してるからね。がんばってねっ」

「…………」

「あ、やば。ほとりちゃんこっち見てる」

「え」


 ほとりの席を見ると、確かに彼女はこちらに顔を向けていた。

 恋夏はにこやかな笑顔でほとりに手を振る。まるで、あたしは敵じゃないから安心してねー、とでも言うような仕草だった。


 しかしほとりはよく分かっていないようで、きょとんした顔で首を傾げている。

 そして午後の授業の開始を告げるチャイムが鳴り、教室に先生が入ってくる。


「んじゃねっ」


 しゅたっと軽快に手を振って、恋夏は自分の席に戻っていった。

 そんな彼女の背中と、クラスメイトたちを見やって、依人は思う。


 ――なんだかなぁ……。


 依人とほとりの関係が周囲から完全に誤解されていることは、まあ、仕方ない部分もある気がする上に、自ら進んで否定するのも自意識過剰っぽくてイヤなので、ひとまずは置いておくとして。


 ちょっと理解があり過ぎじゃないだろうか……と、そう思うのだ。


 ラブコメにありがちな展開に沿うのであれば、ここらで依人に嫉妬や揶揄い、嫌味の一つや二つでも飛んできそうなところだが、恋夏を筆頭にそんな気配はまるでなく。

 クラスメイトたちの視線は、野暮なことはするまいと、ただ生温かく見守るようなもので……。むしろ何か裏があるんじゃないかと、依人の方が性格悪く疑ってしまいそうになるくらいである。


 ――ウチのクラスって、もしかして良いヤツしかいないのか……?


 前々から思っていたことだが、尚のことそう思った。


「…………」


 ――あーもうっ。なんだかなぁ……っ!


 ひとりでも穏やかでもない新しい時間を過ごしている自分に、なんとも言えないソワソワとくすぐったい気持ちを覚える依人であった。

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