彼と彼女の非日常〈1〉


 俺の名前は中原依人、どこにでもいる平凡な男子高校生だ。


 顔も平凡だし背丈も平凡だし成績も運動神経も性格もとりあえずぜんぶ平凡である。

 そんな俺は、今日から高校二年生になる。


 空を仰ぐと一面に曇り空。肌寒い風が吹いて、桜の木から枯れ葉がひらひら散っていた。

 何かが始まりそうな予感を感じさせられた。そう、始まりの季節ってヤツだ。


「いい天気だ」


 今にも雨が降りそうな薄墨色の空を見上げて呟いた俺は、今日から始まる新しき日々に思いを馳せる。高校二年生ということは、それはつまり、先輩になるということだ。


 なんだか、あざとくて小悪魔っぽく俺をからかってまとわりついてくるような、しょうがない美少女の後輩に出会いそうな予感がするぜ。


 クラス替えでは学年で最も有名なアイドル的美少女と同じクラスになりそうな予感がするし、俺が昔男友達だと思って仲良くしていたけど実は女の子だった美少女が転校してくるような気もするし、実は俺のことが前から好きだった許嫁とかもできそうな気がする。


「やれやれだぜ」


 肩を竦めながら俺が歩いていると、「よーりとっ」という棒読み声が後ろから聞こえた。


 誰かが俺の背中をカバンで叩く。おそらく極厚のハードカバーの角だと思うが、凄まじい威力のソレがカバン越しに俺の腰にヒットして泣きそうなくらいに痛い。

 だけどここで痛がるシーンは脚本にないので、俺は痛みが顔に出ないようにしながら振り返った。


 そこには俺の幼なじみである美少女の空野ほとりがいた。


「もーっ、なんで先に行っちゃうかなぁ。今日は一緒に登校するって約束したでしょ」


 無表情で淡々と言い放ったほとりが、無表情のまま頬をぷっくり膨らませた。


 ほとりはとても可愛いが、昔から彼女と一緒にいる俺はほとりを異性として見ることが全然ない。

 ほとりはめちゃくちゃ可愛くて他の男たちからはめちゃくちゃモテる。


 毎日三十回くらいは告白されているらしい。

 これは昨年度の告白され総数を平均化した数値らしいので信用できるデータだ。平均的な女子高校生の告白され数を遥かに上回る。


 統計的にも証明されているわけだが、そんなにモテるにも関わらず、なぜかほとりはカレシができたこともなく、なぜかいつも俺の世話ばかり焼いてくる。


 なんでだろう、全く分からないなぁ。


 あと断っておくが、美少女の幼なじみがいようとも俺が平凡であることには変わりない。


 置かれている状況的には珍しいのかもしれないが、あくまで俺は平凡である。ここはとても大事なところだ。


「だって一緒に登校して友達に噂とかされると恥ずかしいし」


 脚本を見ながら棒読みで俺が言うと、ほとりが「もうっ」とさらに頬を膨らませた。

 空気を限界までパンパンに詰め込んでいるせいでふざけてるようにしか見えない。


 脚本には、『ここで主人公が幼なじみの可愛らしい仕草にドキッとする』とある。


 ドキッとする……?


「……ドキッ」


 とりあえず口に出してみた。


「あーっ、依人いま、私にドキッとしたでしょーっ?」


 無表情のほとりが俺を指差す。


「は、はぁ? そんなわけねーし。お前みたいなやつにドキドキなんてしねーよ」

「……私はいつも、依人にドキドキしてるんだけど、な」

「……え? なんだって? 至近距離で呟かれたにも関わらず、なぜか聞き取れなかったんだが」

「う、ううん! 何も言ってないよーっ! ……依人の、ばーか」


 一切抑揚のない声調でそこまで一息に言い切ったほとりが、顔の前でブンブンと手を振って、俺の先を行くように走っていく。

 ひらひらとなびくほとりのスカート。

 スカート丈は校則をしっかりと守っているようで、ひざ下丈まである。


 脚本には、『ここで主人公が幼なじみのパンチラを見て鼻血を吹き出す』とある。


「………………」




 ――――――――――――……………………


 ――――――――…………


 ――――……




「……空野さん待って。ほんとに待って」


 ついに限界を悟った依人が、待ったをかけた。


「なんでしょう、中原さん?」


 パタパタ走っていたほとりがピタリと立ち止まって振り返り、依人の前まで戻ってくる。


「…………あのさ」

「はい」

「これ、なに」


 今更、という感じではあるのだが、依人は手元のA4コピー用紙の束を見下ろす。

 表紙には『ライトノベルラブコメ実体験用試作脚本』と大きく太字で書かれてある。


 ページをめくると、ツッコミどころしかないストーリーが描かれた文字の羅列がズラズラと並んでいる。

 脚本というよりは台本っぽいのだが、主人公の台詞や動きだけでなく心情まで事細かに描かれており、ほとんど一人称視点のラノベのようである。


 総枚数は五十枚ほどあって、依人が目を通したのは三枚目まで。

 この続きを見るのがもう怖い。


 ちなみに今の季節は秋であり、間違っても始まりの季節ではないし、依人は今日から二年生にもならない。

 まだあと五か月くらいは高校一年生でやっていくつもりである。


 本日は、ほとりがラブコメについて理解するのを依人が手伝う、ということが決まった土曜日から二日後の――月曜日だ。


 この土日の二日間、依人は、ラブコメの疑問について質問しまくってくるほとりへの対応をしていた訳だが、その前に、目を塞ぎたくなるレベルで散らかり汚れまくっていたほとりの生活空間の清掃なども手伝っていた。


 なぜ依人がほとりの部屋の掃除まで行ったのかというと、見ていられなかったからである。

 あまりにも色々酷すぎたし、ほとりの言動の節々から香り立つポンコツ臭と、現実として目の前で展開される彼女の生活力の無さの証明は、こいつをひとりで放っておくとマジでいつか死ぬんじゃないか? と思わせるほどで。


 ほとりがひとり暮らしを始めたという九月の初めから今に至るまで約二か月、どうやって今日まで無事に生きてきたのか――それはまさにミステリーであった。


 結果、今の依人には、学校の者たちが空野ほとりに抱いているであろう〝神秘的で高潔で物静かな清楚孤高文学美少女〟というイメージは、ひと欠片たりとも残っていなかった。


 ここだけの話、依人は、空野ほとりという少女の――皆から注目を浴びまくっても、媚を売るでもなく、他者の目を気にするでもなく、真っすぐ自分を貫き続ける在り方に密かな憧れめいた感情を抱いていた。


 ……のだが、もはやそんな憧れは見る影もない。


 色んなことが一気に起こり過ぎて精神的にも体力的にも疲れ果てた依人が、昨夜、空野ほとりに協力を約束したことを既にだいぶ後悔し始めながら眠りに就き……、


 そして目覚めた今日の朝。


 学校の支度を整えて依人が家を出ると、目の前にほとりがいた。


「おはようございます中原さん、一昨日と昨日は本当にありがとうございました」


と、礼儀正しく頭を下げたほとりは、依人に押し付けるようにコピー用紙の束を渡してきた。


「早速ですが中原さん、今から私とラブコメしてください。流れは全部ここに書いてありますので」

「…………え」

「中原さんが主人公をやってください。私は最後に負ける予定の幼なじみヒロインをやります」

「……え?」

「では、よろしくお願いします」

「え」


 困惑が止まらない依人に対して、ほとりは依人が手にするコピー用紙の束を目線で示し続けていた。


 依人が恐る恐る用紙の束をめくってみると、


『シーン1:主人公がひとりで家を出て通学路を歩く』とあった。


 これを俺がやればいいの? と、依人がほとりに視線で問いかければ、ふんふんと大変勢いの良い頷きが返ってきた。


 ……ので、依人はとりあえず脚本を片手にひとりでマンションを出た。


 そのあとは、もはやどこから突っ込めばいいのか分からない脚本に依人の思考が停止し、やけくそ気味に脚本の流れに従っていたのだが――――。


 …………これ、なに。マジでなに。


 謎のラブコメ寸劇を中断したのちにほとりに問いかけると、こんな答えが返ってきた。


「やはりラブコメを理解するには、実際にこの身で体験してみるのが一番だと思いまして、今の私が考えるライトノベルのラブコメの全てをここに詰め込みました」

「…………」


 頭が痛い。

 こめかみを押えて空を仰ぐ依人に、ほとりが首を傾げる。


 突っ込みを入れたい箇所がざっと三十以上は見つかるのだが、ひとまず依人はほとりに聞いてみる。


「空野さんは、ラノベのラブコメを何だと思ってるの?」

「ライトノベルのラブコメを、ここではメインターゲットを10代から20代の男性に据えたイラスト付き娯楽小説の中でも、恋愛要素を交えたコメディ作品、と定義しますが」

「……はい」

「これと言って特徴がなく消極的で鈍感な男性主人公が、俗に美少女と呼称される容姿端麗で個性的な女性ヒロイン、男の娘と呼称される見目が女性にしか見えない男性も稀にヒロインに入りますが、そういった様々な美少女たちとの交流を経て、全員から好意を向けられるも、最後はぽっと出のヒロインと結ばれて幼なじみヒロインを泣かせる話です」

「空野さんは、一体何のラノベを読んで勉強したの?」


 その中に、幼なじみヒロインが泣いた作品があったことは間違いないだろう。


「色々読みました」

「色々……。いや、確かにそういう要素が含まれてるラノベが無いって言ったらウソになるんだけどさ……」

「はい」

「正直、空野さんが考えてるラノベのラブコメのイメージは、少し古い気がする」

「古い……ですか?」


 頷いた依人は、現在時刻からそろそろ学校に向かわないとまずいことを確認して、歩き始める。

 ほとりは依人の隣にてこてこと続いて、熱心に依人のことを見つめている。


「…………」


 なぜだろう、依人には前方不注意でほとりがすっころぶ未来が確信できてしまった。


「空野さん、前見て前」

「あ、そうですね」


 視線を前方に向けて、チラチラと依人に目線を送るほとり。


「それで、私の持つイメージが古いというのは、どういうことでしょう?」

「あぁ、うん。たぶん空野さんが読んだのってちょっと前の作品が多かったのかもしれないけど、今のラノベって、けっこう昔とは毛色が違うのも多いっていうか」

「ふむ」

「これはラノベに限らずだけど、以前の男向けのラブコメって言えば、一人の男主人公に対してヒロインがたくさんいて、主人公が一体どのヒロインを選ぶのか、みたいな要素があるのが多いんだよね」

「今は違うのですか?」

「最近だってそういう作品はあるけど、今は初めから主人公が誰と結ばれるのか分かりやすく提示されてるのも増えてきてるというか、何ならほぼ最初から恋人同士みたいな関係になってるのも多いし」

「読者はそれのどこに面白さを見出すのですか?」

「えー、もちろん作品による部分も大きいけど、主人公と可愛いヒロインがイチャついてるのを見て楽しむというか……」

「なるほど、そういうのを楽しむ方々がいらっしゃるのですね」


 懐から取り出したメモ帳に何やらメモを取り始めるほとり。

 ほとりが転ばないかハラハラしながら、依人は続ける。


「他には、別に主人公が平凡で鈍感で消極的、っていうのに当てはまらない作品も多くなってきてる気がする。斜に構えたような捻くれ主人公とかが流行ってた時期もあるけど、今はそういうの以外にも、主人公がリア充でイケメンなハイスペックキャラだったり、隠れイケメンだったり、実はすごい特技を持ってたり、自ら積極的に動いていったり、みたいに色々あったり。あとは、昔のラノベのラブコメは主人公が中高生ってのがほとんどなんだけど、最近は大学生とか社会人とか中高生以外の主人公も結構いるイメージがあるし」

「…………なるほど?」


 メモを取っているほとりの首の角度が、どんどん傾いていく。


「あとは可愛いヒロインが出てきても、必ずしも主人公のことを好きになるって訳じゃなかったり、ヒロインが別の男を好きだったりすることもあるし、ヒロインが二人以上いても、単に誰を選ぶとかそういう話じゃなかったりすることもあるし」

「…………」


 限界まで首を傾けたところで固まったほとりが、ジッと依人を見上げる。


「中原さんは、本当によくご存じですね。ライトノベルはいつから読んでいるのですか?」

「俺は小六の時からだけど、それ以前に出たヤツも買って読んだりはしてるから」

「だから昔の作品についても知っているのですね」

「うん、そう」と、依人は頷く。「それで、空野さんは『せかこめ』の続きを書くためにラブコメについてよく知りたいと思ってるんだよね」

「はい、そうです」

「あれは結構昔のラノベなんだけど、あの時代に出てきたモノとしては少し異色っていうか、ラブコメの主人公とヒロインみたいな関係のキャラが、何組も何組も出てくるでしょ」

「確かに、そうかもしれません」


『世界一しあわせなラブコメ』は、青春群像劇だ。


 様々な悩みを抱えた様々な年頃のキャラたちが入り乱れ、各々が繰り広げるラブコメ模様が交錯した末に、とある騒動がなんかいい感じに収まった時には、皆が前よりしあわせになっている――という魔法のような作品である。


「だから、空野さんがあの作品の続きをちゃんと書けるようにするためには、昔のラノベばかり勉強していても難しいんじゃないかな、というか」

「中原さんの言う通りですね」

「かと言って最近のラノベも勉強すればそれでいいって訳でもなさそうだし……」

「はい」


 こっくんと、威勢よく頷いたほとりに、依人は恐々と尋ねる。


「…………ラブコメは、理解できそうですか、空野さん」

「正直に言わせていただきますと」

「……うん」

「今の中原さんの話を聞いて、余計に訳が分からなくなりました」

「正直は、美徳だと思うよ……」

「お褒めにあずかり光栄です」


 正直、依人にもラブコメが何なのかよく分からなくなってきた。


「……まぁ、少しずつ理解していけばいいんじゃないかな」

「はい。中原さんがいてくださって、私は非常に心強いです」


 ――俺には不安しかないんだけど……。


 先は果てしなく長そうだな、と思う依人だった。

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