例えばそれは、神秘的な偶然〈5〉
「…………………………………………………………………………………………え?」
「この作品の作者が、私の母なんです」
抑揚の少ない表情で淡々と言ったほとりは、手にした本を掲げる。
「私もその事実を知ったのは最近なのですが……」
ほとりは、動きが完全に停止している依人を見て、コクンと頷く。
「そうですね。中原さんには助けて頂いた恩もあることですし、お教えしましょう。どうして私がラブコメについて知りたがっているのか、お気になさっていましたよね」
「――――――」
今なお思考がショートしている依人を置いて、部屋を出ていくほとり。
そしてすぐに戻って来た彼女は、大きめの段ボール箱を抱えていた。
「半年前、私は実家でこれを見つけました」
依人の前に腰を下ろしたほとりは、その中から古びたノートを何冊か取り出す。
「他にもありますが、このノートは『世界一しあわせなラブコメ』のプロットです。私はこれを見て、母がライトノベル作家であったことを知りました。そして、今まで全くと言っていいほど触れてこなかったライトノベルのラブコメというジャンルに、強い関心を抱きました。そして、母が執筆したこの作品について調べていく内に、これが未完のまま終わったシリーズであることを……知りました。――ですが、ここにあるノートには、シリーズ完結までの展開を示した丁寧なプロットが記されているんです。プロットについてはご存じですか? 簡単に言うと、作品の設計書みたいなものですね」
ほとりは台詞を続ける。淡々と、しかし強い意志を宿して。
「私、これを元にこのシリーズを完結させたいんです。私がこの手で、母の代わりに続きを書きたいんです。ですが、私は確かにプロの作家をやらせて頂いている身ではありますが、書いているのは推理モノばかりで、ラブコメなんて書いたことがありません。嗜んだ経験もありません。となれば学べばいい話なのですが、私にとってライトノベルのラブコメは難しすぎるようで、恥ずかしながら全く理解が及びません」
だから――と、ほとりが依人を見据える。まっすぐと、どこまでも純粋な瞳で。
「誰かに、ライトノベルのラブコメを愛している誰かに、直接――教えて頂きたいのです」
「………………」
やめてくれよ……と、依人は思う。
一体、一体どんな偶然が重なれば、こんなことが起こるのだ。
『世界一しあわせなラブコメ』は、かつての依人を救った作品である。
小学五年生の時、依人の父親が浮気をした。しかもその浮気相手が、依人の幼なじみの少女の、母親で――。
それを起因とした出来事により、依人は孤立した。
依人自身が何かをした訳でもないのに、今まで仲の良かった友達は全員依人の側から離れて、家庭も無茶苦茶になり、両親は離婚した。
友情が恋情が愛情が、そもそもの人と人との関係が、依人には何も分からなくなった。
さらに追い打ちをかけるように、小学六年生の終わり、依人の母親が再婚した。
あんなに仲の良かった両親の仲が壊れて、気づけば母親は新しい男をつくっていた。
もう周囲の誰も信じられなくなった。
そうして失意のどん底に落ちて、楽しいことが何もなかった依人に、毎日の生きる楽しみを与えてくれたのが『世界一しあわせなラブコメ』だった。
本の中の世界には、現実のような無茶苦茶な理不尽や煩わしさが何もなくて、安心してそのしあわせな優しい世界に浸ることができた。
今の依人のクラスメイトたちが本当に良い奴らなのは、はたから見ていれば分かる。
しかし依人には、彼ら彼女らとの距離を近づける一歩を踏み出すことができない。
恋夏のように向こうから一歩近づいてきてくれても、その分だけ一歩引いてしまう。
それはもう、熱いものに触れた瞬間手を引っ込めてしまう反射のようなものだった。
そしてそれは、空野ほとりに対しても同じこと。
――だから中原依人は、ひとりで過ごすのである。
そういう生き方こそが今の自分には一番合っていると依人は理解しているし、そんな穏やかな日々を愛してすらいる。
だけど――。
ライトノベルのラブコメというジャンルを、依人はそれ以上に愛しているわけで。
そして、『世界一しあわせなラブコメ』はその中でも最も大切な作品であるわけで。
『世界一しあわせなラブコメ』――せかこめが、シリーズ未完のまま作者が亡くなってしまったことを知った時、依人がどれほど深い悲しみを覚えたか。
塞ぎ込んでいた自分を救ってくれた――あのしあわせに満ちあふれた世界で生きる彼らと彼女らの結末を見届けられないことを、これまでの依人がどれほど――。
そんな作品の作者に娘がいて、同じクラスに転校してきて、自宅の隣に引っ越してきて、母の代わりにその続きを書きたいからラブコメを教えて欲しいと頼んでくるなんて。
神様がふざけて調子に乗っているのかと思うくらい――奇跡的な偶然の積み重なり。
ここまでくれば、それは偶然というよりむしろ――――
思わずその大げさな単語を頭に浮かべかけて、依人は自嘲する。
――否、これは単なる偶然だ。
そう。ここは現実で、これは偶然。
それでもしかし、ここまでの偶然を目の前に積み上げられて、それを無視するのもラブコメラノベを心から愛する一人の人間として如何なものか。
…………上等だ。
それに、別に空野ほとりと友人になったりする、という話でもないのだ。
あくまでも単なる協力関係。
依人が手を貸すことで、あの作品のラストを――例えそれが作者の違う形だったとしても――見届けられるかもしれないのであれば――――、
〝あの世界〟に確かに生きる彼らと彼女らが、きっと、どこまでもしあわせに笑って迎えるのであろう
依人は口を開く。
「……空野さん、いくつかいい?」
それがどんなに手を引っ込めたくなるような痛みを伴う熱さでも、我慢して、そこに触れ続ける。
「はい、なんでしょう?」
「空野さんのお母さんは、これを空野さんが完結させることを、望んでるのかな」
「はい。母は、私がこれの続きを書けば喜んでくれると思います。少なくとも、絶対に怒ったりはしません。そういう人なので」
「じゃあ――。もし空野さんが、ラブコメを、ちゃんと理解できたらさ……」
「はい」
「この作品を、最高の形で完結させられるのかな」
依人はほとりを見据えた。
その時、ぱちくりと目を瞬かせたほとりは、依人を見て――そっと微笑んだ。
依人が見ていた限り、ずっと抑揚が少なく感情が読めない表情を浮かべていたほとりが、確かに口元をほころばせて、やさしい笑顔で――――
「はい、必ず」
「――――」
依人の胸が熱くなる。不思議とその熱さは痛くなかった。むしろ、温かい。
例えばそれは、この世を巡り巡る神秘的な偶然。
不思議なこともあるもんだと思いながら、依人もまたささやかに笑って手を差し出した。
「俺にできることなら、何でも協力するよ空野さん。これでもラノベのラブコメはだいぶ読み込んでるからさ」
「…………あの、この手は?」
不思議そうに首を傾げて、依人が差し出した手をじっと見つめるほとり。
「え、いや。だから、俺が、空野さんがラブコメを理解するのを、手伝うって、話……」
「よろしいのですか?」
「よろしいも何も……」
――今、完全にそういう流れだったんじゃ……。
「私の記憶が正しければ、中原さんは先週私の申し出を断りましたよね?」
「う、うん、だから、今の空野さんの話を聞いて、協力しようって、思ったって話……」
「なるほど、そういうことですか。理解しました」
「…………」
微妙にテンポが嚙み合っていなかった。
自分の中でひとり勝手に盛り上がって先走ったことが恥ずかしくなって、顔に熱を感じながら手を引っ込めようとする依人。
その手を、追いかけるようにほとりが両手で掴んだ。
ひんやりとなめらかな小さい手が、依人の手をぎゅうと包む。
「ありがとうございます。とても、嬉しいです」
先ほどの笑みは何だったのか、また感情の読みづらい静かな表情でほとりが言った。
「これからよろしくお願いします、中原さん」
「あ、あぁ、うん、よろしく……」
ほとりに手を握られてトクトクと加速する鼓動を煩わしく感じながら、
――大丈夫か? これ……。
依人はこれから始まる新しい日々に、不安の思いを馳せるのであった。
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