例えばそれは、神秘的な偶然〈4〉


 その夜、依人は中々寝付けなかった。


 原因は分かっている。空野ほとりだ。

 一体どうして、あのような少女がラブコメについて知りたがっているのか、気になってしまった。


「あー、もう……」


 眠れないから、慣れ親しんだお気に入りのラブコメラノベを読もうとしても、余計に彼女の顔が脳裏にチラつく。


 翌日の依人は寝不足で、学校に着いてもいつものように本を開く気になれない。

 そしてつい、普段通り静かに読書している空野ほとりを横目で見てしまう。


 ――マジで何なんだ、あいつ……。


 今朝から何度目か分からない嘆息を、依人がまた漏らしかけたその時、視界にひょこっと恋夏の顔が入り込んだ。


「依人くん、なんか顔色悪いけどだいじょぶ?」

「あぁ、水瀬さん……。大丈夫だよ」

「そうー? てか今さ、依人くんほとりちゃんのこと見てたでしょ。昨日もなんかふたりきりで教室出て行っちゃったし、怪しいなぁっ」


 ニマニマと口元を緩ませ、何かを期待するように依人を見ている恋夏。


 そんな彼女にどう説明しようかと悩んだ依人は、はたと気付いた。


 ――俺、水瀬さんにお礼言ってないな……。


 空野ほとりという爆弾が乱入したせいですっかり忘れていたが、間抜けな依人が落としてしまった大切な本を、恋夏が拾ってくれたことは事実なのだ。


 依人は周囲の誰も聞き耳を立てていないことを確認してから、抑えた声で恋夏に言う。


「あー、俺と空野さんのことだけど」

「うんうんっ」

「昨日の朝さ、水瀬さんが拾った本を空野さんが手を挙げて受け取ってたじゃん?」

「うん、うん……?」


 目を輝かせていた恋夏の頭上に、疑問符が踊り始める。


「あの本、実は俺のやつで」

「え……? ん? どゆこと?」

「えー、と、俺、ああいう本を読んでるのがクラスのみんなにバレるのが恥ずかしくて、それを察してくれた空野さんが代わりに受け取ってくれた、みたいな感じ」


 とりあえず、そういうことにしておく。この説明なら恋夏も納得するだろう。


「昨日の昼休みのあれは、俺が空野さんからその本を受け取ったってだけだから、本当に大したことは何もなかったよ」

「ふーん、そうだったんだ」

「だからあれを拾ってくれてありがとう、って水瀬さんに言いたくて」

「え? あぁっ、うんっ。ほんとにただ拾っただけなんだけどねー。ていうか今思ったら、あたしもあそこでタイトル読み上げない方がよかったのかな……?」

「あー、まぁ」


 依人は苦笑する。

 あそこでタイトルが読み上げられなかったら、ほとりが前に出ることもなく、依人と彼女が奇妙な関わりを持つこともなく、今の依人がこんなにモヤモヤした気持ちを抱えることもなかった。


「あはは、あたし空気読めなくてごめんね」


 恋夏は小さく両手を合わせて、


「でも、なんか嬉しいな」

「……なにが?」

「あたし、依人くんってもっと小難しくて硬い本ばっか読んでると思ってたから、ああいう軽いマンガみたいな……ラノベ、っていうんだっけ? そーゆうのも読むんだなって思うと、なんか親近感あるよね。あたしも少女漫画とかめっちゃ読むしっ。これでちょっとは依人くんと仲良くなれるかな?」


 ふふっと口元をほころばせる恋夏の天使具合に、依人は天を仰ぎ、目頭を押さえた。


 ――オタクに優しいギャルすぎる……。


「どうしたの依人くん!? ドライアイ!?」

「むしろ心は潤ったかも」

「どゆこと?」


 むむっと眉根を寄せる恋夏に、「ごめんなんでもない」と、依人はいつもと変わらない愛想笑いを浮かべた。




 それからも依人の日々には空野ほとりの影がチラつき続けた。


 学校にいる時、ふと視界に掠ったほとりの姿に意識を奪われ、

 バイト中、長い黒髪の客の後ろ姿を見た時は一瞬ほとりかもしれないと思い、

本屋を訪れた時、この中に空野ほとりの書いた本があるのかな……などと考えたりして、


 一体お前はどこの恋する乙女かと、夜中に布団を被って呻き叫んだりもした。


 しかし時の流れというのは万能なもので、空野のほとりに乱された依人の心も、日を経るごとに落ち着きを取り戻していった。


 稀に恋夏に話しかけられて世間話を振られる以外は、誰とも事務的な会話以上の言葉を交わさず、空野ほとりはもちろん誰とも大した関わりを持たない、平穏で平坦な愛すべきひとりの日常。


 一週間も過ぎる頃には、依人の日常はほぼほぼ元の姿に戻っていた。




 そして、依人が空野ほとりの頼みを断ってからちょうど九日後――。


 少し曇って肌寒い土曜日の朝、依人が買い出しに行こうと家を出たタイミングで、隣の部屋、つまり空野ほとりの住居から、ドドドドッ! と、雪崩のような騒音が響いてきた。


「えぇぇ……」


 依人は困惑の顔で、空野ほとりが住まう408号室の扉を見つめる。


 ――中で一体なにが……。


 只ならぬ物音だったので、気にならざるを得ない。


 気になったものの、依人は408号室に背を向けてエレベーターに向かう。


「…………」


 が、どうにも心配の念がぬぐい切れなかったので、「あーもう」と煩わしい思いで呟きながら、依人は踵を返してほとり宅のインターホンを押す。


 ピンポーン。


「…………」


 返答はない。もう一度押してみる。


 ピンポーン。……ピンポーン。ピンポーン、ピンポーンピンポーン……。


「……………」


 返答はない。


 ――大丈夫か、これ?


 このマンションに据えられている部屋はひとり暮らし用のものであり、つまり、おそらくほとりも依人と同じくひとりで暮らしているということだ。


 もし中で何かが起こっているとして、ほとりを助けられる者はいない。……ここにいる依人を除いて。


 しかし、中の様子を確かめようにもカギを開けてもらわないことにはどうにも――

 ガチャリ、と。何とはなしにドアノブを引いてみれば、抵抗もなく扉が開いた。


 ――カギかかってねぇし……。


 ひとり暮らしの少女が不用心すぎると呆れながら、依人はそっと中を覗いてみる。


「えぇ……」


 依人の視界に飛び込んできたのは、衝撃の光景だった。


 廊下一帯を覆うようにして、多種多様の書物が積み上げられている。


 文庫本、ハードカバー、大判、雑誌、漫画、専門書、児童書、絵本、新聞紙、コピー用紙の束――。

 とにかくありとあらゆる形式の本がうずたかく積み上がって廊下を埋め尽くしていた。


「なんじゃこりゃ……」 


 夥しいと形容したくなる本の山の隙間から、廊下に面して扉が開け放たれた部屋の様子がチラリと見えた。

 部屋の中は本の大洪水が起こっており、その上から覆いかぶさるようにして書棚が倒れこんでいた。依人の脳裏に、先ほど聞いた雪崩のような騒音が蘇る。


 まさか――


「おーい! 空野さん!?」


 焦った声で依人が呼びかけると、ガサッと微かな物音が本の洪水部屋から聞こえてきた。


 ――おいおいおい、マジか。


 依人は急いで靴を脱ぎ中に上がり込むと、廊下を埋め尽くす本の塔の隙間を縫うようにしながらその部屋に辿り着き、中の様子を窺う。


 奥の壁に面して巨大な本棚が三つ並べられており、そこにはぎゅうぎゅうに本が敷き詰められていた。

 それと同じ本棚が左側の壁にも並んでいて、右側にも同様の本棚が並んでいるのだが、今はその内の一つが倒れ、中に収められていたと思しき数多の本を吐き出している。


 恐らく元から床にも大量の本が置いてあったのだろう。

 じゃなければ、ここまで床一面を覆う本の山が生まれることはない。――いや、冷静に分析している場合じゃない。


 依人は大量の本を掻き分けながら倒れた棚の所まで行き、どうにかそれを起こして壁へ追いやり、本の山に埋もれている空野ほとりを発掘することに成功した。


 ――マジで埋まってたのかよ……。


 ドン引きしながら、依人はほとりを抱き起す。


「……生きてる?」


 見たところ外傷はなく、ほとりの目はパッチリと開いている。

 彼女は寝間着姿で、触れ合っている部分から薄い布一枚越しに女の子の肌のやわらかさと体温を感じた。


 上衣の裾がめくれて、白くて細い腰回りと形の良いおへそが覗いている。

 普段は着やせしているのか、その胸元を押し上げる膨らみは予想外に豊かで主張が激しい。


 童貞の依人に耐えられる光景ではなく、バッと慌てて目を逸らす。


 ――ラブコメかッ!


 内心で自分に突っ込んで平静を引き寄せていると、ほとりが勢いよく上体を起こした。


「のぉわっ!?」


 ほとりの頭突きせんが如きの額軌道をギリギリのところで躱す依人。


「………………」


 息が触れ合いそうなほどの至近距離で、長いまつ毛に縁どられたまぶたの下、涼しげな瞳がジッと依人を見つめていた。


 感情の読めないほとりの表情に、依人は困惑気味に尋ねる。


「……大丈夫?」

「大丈夫です、本がクッションになってくれましたので」

「いや、本ってけっこう硬くない?」


 そこでほとりは、初めて中原依人という存在を認識したように目を丸くした。


「……そういえば、どうして中原さんがここに?」

「いや、すごい物音がして、カギが開いてたから……」

「カギが、開いていたんですか?」少し驚いたようにほとりが言った。

「あぁ、うん」

「おかしいですね。そんなことはないと思うのですが……」 


 ほとりは不思議そうに首を傾げ、一瞬、まぶたを閉じた。そしてすぐに目を開く。


「カギが開いていたとのことですが、中原さんがウソを吐いているということはないですよね? 中原さんがウチの合鍵を持っているということは――」

「ないないない」


 ぶるんぶるんと首を振る依人。


「そうですか。ではもう一つお聞かせください。このマンションの部屋にはオートロック機能が付いていますか?」

「いや、ウチのマンションにオートロックはないけど……」

「了解です。謎は解けました。カギが開いていたのは、私がこの部屋をオートロック付きと思い込み、カギをかけ忘れていたのが原因ですね」

「えぇ……」

「前の住まいと同じ感覚でいたので、勘違いしてました」

「……え、じゃあ、なに? 引っ越ししてきてからずっと、カギを開けっぱなしで暮らしてたってこと?」

「そういうことになりますね」

「家に帰る時、おかしいとは思わなかった?」

「私を認識して勝手にロックが解除されているものかと」

「そんな高性能はここにねぇよ」


 思わず素で突っ込んでしまった。


「…………あの、さ」

「はい、なんでしょう」

「なんで本に埋まってたの?」

「私の見立てだと、本棚に本を詰めすぎたのと、上の方にある本を無理やり取ろうとしたのがいけなかったのでしょうね。急に倒れてきてびっくりしました」


 あまり驚いた感じではない口調で言ったほとりは、依人に向かって深々と頭を下げる。


「中原さん、助けてくださって本当にありがとうございました。身動きが取れないまま死を覚悟していたところでした」

「あぁ、うん。どういたしまして……」


 実際、シャレにならない状況ではあった。見ようによっては完全にギャグだが、それも彼女が今無事でいるから言えることだ。


 ――なんていうか……、空野さんって……。


 思わず、ジッとほとりを見つめてしまう依人。


 依人の視線に、ほとりがきょとんと首を傾けたその時、


「……あっ。それは――」


 依人は、ほとりの背後に落ちている一冊に気を取られた。


「……? これですか?」


 ほとりが振り返って、その本を手に取った。


『世界一しあわせなラブコメ』――〝せかこめ〟と略されることが多いソレは、古いライトノベルだ。

 賞賛の比喩でもなく依人の人生を救った作品であり、依人がラブコメラノベにハマるキッカケともなったシリーズである。ほとりが手にしているのはその一巻だった。


 だから思わず声が出た。


 ライトノベルのラブコメについて知りたいと言っていたほとりだが、まさかこの作品を持っていたとは。

 だが、このシリーズに目を通すのであれば、一つ留意しなければならない点がある。


 ラブコメの良いところを全て詰め込んだような最高の作品ではあるのだが……。

 むしろ、だからこそと言うべきか――。


「あの、空野さんって、それ読んでるの?」


「えぇ、読んでます」


「じゃあ、まぁ、一つお節介で言っとこうと思うんだけど、そのシリーズって完結してないんだよ。……というか作者が亡くなってるから、もう完結しない。だから――」


「えぇ、知っていますよ」


「あ、知ってたか……」


「だって私の母ですから」

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