例えばそれは、神秘的な偶然〈3〉

 元々ほとりに接触しようと思っていたのだから、依人が彼女の誘いを断る理由はなかった。

 しかし、彼女の狙いが全く読めない。


 依人は警戒心を最大にまで引き上げて、隣を歩くほとりを見る。


 まさかとは思うが、彼女は依人があの本の持ち主であると知っているのだろうか。

 だが、依人が読んでいる本の詳細を誰かに話したことはないし、普段から本ばかり読んでいるという理由だけで判断されたとも考えにくい。


 廊下を並んで歩く依人とほとりにはすれ違う生徒たちの視線が集まり、非常に気まずい。


 ほとりは相変わらず何も気にしていない様子だ。

 どうにも掴み切れない少女である。


 互いに会話がないまま、依人とほとりは渡り廊下を渡って第二校舎に入り、その四階隅に位置する空き教室に入った。


 物置代わりにされて雑多な物々が散乱している少し埃っぽい場所だが、あまり人が来ないため、依人がいつも昼休みを過ごしているのがここだった。


「ここなら静かに話できると思うけど」


 ほとりはペコリと頭を下げる。


「はい、案内して下さってありがとうございました」


 依人は雑に並んでいるイスの中から比較的綺麗なものを二つ引っ張って来て、その片方をほとりの横に置く。


「座ったら?」


 話をするなら落ち着いた方がいいと思い、依人も椅子に座る。


「はい、ありがとうございます」


 ほとりはまた行儀よく頭を下げて、スカートを手で伸ばしながら腰を下ろす。

 ピンと背筋が伸びた姿勢で、膝の上に手を置いて、ほとりがまっすぐ依人を見つめた。


 あまりに純粋な視線に、依人は気恥ずかしくなって顔をそらす。


 ――ほんとに何なんだ……。


 流れのままここまで来てしまったが、自分が置かれているこの状況が未だに呑み込み切れていない。


 依人は外していた視線をほとりに戻す。


 こうして間近で見ると、空野ほとりが如何に浮世離れした少女なのか実感できる。


 理想的につくられた人形のように端整な風貌と、抑揚の少ない表情、その身にまとう捉えどころのない神秘的な気配。

 今ここで彼女に、「実は私、宇宙人なんです」と言われても、思わず信じてしまいそうな――そんな計り知れなさがある。


 そして一体どこから取り出したのか、手に持った〝あの本〟を依人に向かって見せつけたほとりは、淡々と告げた。


「それでは早速お尋ねしたいのですが、これは中原依人さんの持ち物ですね?」


 有無を言わさぬようなほとりの静かな迫力に圧倒されて、依人はぎこちなく頷いた。


「そ、そう、なんだけど……、どういうこと? 空野さんはそれが俺のだって分かってて、今日の朝手を挙げたの?」

「いえ、あの時点では分かっていませんでした」

「は……?」

「実は私、ラブコメ、それも特に、ライトノベルのラブコメについて関心があるんです」

「…………は?」


 ぽっかーんと、間抜けに口を開ける依人。


「私は、俗に言うライトベルに分類される書籍の中でも、ラブコメというジャンルに基づいて執筆されている作品についてよく知りたいと思っているのです。ですので、今朝、そこに類されると思しきこの本の所有者がクラスメイトにいるかもしれないと分かったので、あぁ、ちょうどいいかな、と」

「………………は?」

「つまるところ、こういう本に詳しい人が身近にいるのであれば、教えてもらいたいと思った次第です」

「……なにを?」

「ラブコメについて、です」

「…………ちょっと、待って、くれ」

「はい」


 依人はほとりに掌を向けて目をつむり、たった今流れ込んできた情報の波を整理する。


 たった今、ほとりが言ったことをそのまま受け入れて、まとめるとするなら。


 まず、空野ほとりは何らかの理由によって、ラノベ系のラブコメについてよく知りたいと思っている。

 ……となるとつまり、彼女は今の段階では、そういうジャンルについてほとんど何も知らないわけだ。

 その上で、自分ひとりではどうにもよく理解できないから、詳しい誰かに教えて欲しいと思っている。


 そして、その誰かにうってつけの人物が同じクラスにいそうだったから、今朝あんなことをして、その誰かとの繋がりをつくろうとした……と?


「……こういう感じ?」

「はい、その通りです。どなたも中々手を挙げそうになくて、もしかしたら別のクラスの方の持ち物かもしれないとも思ったので、水瀬さんが預かってしまう前に私の手元に置いておいた方が、色々やりやすいかな、と」

「あの……いろいろ言いたいことはある……んだけど」

「はい」

「とりあえずまず、なんでそれが俺のだって分かったの?」


 どうにもほとりは、本の持ち主が依人だと確信して手を挙げた訳でもないらしい。


 それならば、一体どうやって――。


「分かりにくいですが、ここに薄くインクが掠れたような跡があるのが、分かりますか?」


 片手で本を持ち上げたほとりが、被せられた紙のカバーの一点を指差す。


「え……? あ、あぁ、うん、確かに」

「これはボールペンのインクの跡です。そしてこれは、本を開いた時にちょうど左手の小指が当たるような位置に付いているんです。中原さんは、左利きですよね?」

「……そうだけど」

「日本語は、横書きにおいて文字を左から右に書くのが通例です。だから、左利きの方が紙に文字を書こうとすると、どうしても左手にインクが付いてしまうんです。このカバーに付いたインクは、そうして左手に付着したインクがさらに移ってしまったものだと考えられます。よって、この本の持ち主は左利きの可能性が高い、という話です」

「…………」


 依人は言葉が出なかった。

 まるで、名探偵の推理に追いつめられる犯人のような気分に陥ってしまう。


 だからだろうか、あたかも言い逃れめいた台詞がこぼれる。


「ま、待ってくれ。確かに俺は左利きだけど、それだけで俺のだって判断するのはおかしくないか? 左利きのヤツなら他にもいるかもしれないし」

「そうですね。でもこのインク、嗅ぐと微かに甘い香りがするんです」


 そこで依人は、昨日、調査書を書くために恋夏から渡されたボールペンが、甘い匂いを香らせていたことを思い出す。


 ほんの少し掠れたインクから匂いを嗅ぎ取るなんてどんな嗅覚してるんだ、と突っ込みたいところではあるが、依人はほとりの言葉の続きに耳を傾ける。


「これは、水瀬恋夏さんが使っているボールペンのインクですね。そして昨日の朝、水瀬さんが、『依人くんまだ調査書出してないみたいだから書いてもらってくる』と言いながら、ペンを持って教室を出て行ったのを、私は見ていました。中原さんは朝のHR前、図書室で本を読んでいることがあるそうですね」


 いつも本に没頭しているくせして、どうしてそんな場面だけはしっかり見ているのか、この少女は。


「で、でも、それなら、そのインクは水瀬さんの手から付いたってことも……。今朝拾ったって言ってたし」

「はい、だから確認しました。今朝拾って付いたのであれば、あの時も手にインクが付いたままだった可能性が高いです。ですが水瀬さんの手は、綺麗でした」


 そういえば、ほとりは本を受け取る時、熱心に恋夏の手を調べていた。


 ということはつまり、ほとりはあの一瞬の内に、今説明してみせたような推理を組み立てたということか……?


 それと同時に、依人は気付く。

 今朝、ほとりは確かに恋夏から本を受け取ったが、その際に一度もその本が自分の所有物であるとは明言していなかった。


 依人はもう畏怖ですらなく、純粋な恐怖を抱いてほとりを見た。


 ――マジで何なの……。


「もしかして空野さんってさ、裏では探偵やってたり、するの?」


 引きつりかけた笑みを浮かべ、半分冗談めかして尋ねてみた依人だが、


「いえ、探偵はやっていませんが」

「……が?」

「僭越ながら、推理小説を執筆する作家として何冊かの本は出版させて頂いています」

「…………作家?」

「はい」

「プロの?」

「そうですね」

「…………」


 ほとんど表情を変えずに淡々と語ったほとりだが、依人の見立てだと、ウソを言っているということはない。


 ――どう見てもウソじゃないだろこれ。


 この少女が言っていることは、すべて本当だ。

 つまり、〝ラブコメについて知りたい〟という彼女の言葉も、冗談でも何でもない訳で。


「これは、中原さんにお返ししますね」

「あ、あぁ、ありがとう……」


 ほとりから両手で渡された本を、依人も両手で受け取る。


「では改めてお願いしたいのですが。中原さん、私にラブコメについて教えてくれませんか?」

「どうして、そんなにラブコメについて知りたがってるのかは聞いてもいい?」

「中原さんが引き受けてくださるのなら、お教えします」

「……なるほど」

「引き受けてくださいますか?」


 そっと首を傾けて、まっすぐ依人を見つめるほとり。


 依人は、その透き通るような視線を見つめ返して、「……ごめん」と頭を下げた。


「悪いんだけど、そういうのなら俺以外を当たってほしい」

「そう、ですか。……こちらこそ、急に無理を言ってしまって申し訳ありませんでした」


 そっと目を伏せたほとりは、静かに席を立った。


「では、失礼致しました」


 依人に向かって深く丁寧にお辞儀をしたほとりは、教室を出ていく。


「…………」


 誰もいない教室にひとり残された依人は、はぁ……と吐息を漏らした。


 隣の家に引っ越してきた転校生の美少女に、偶然のキッカケから特別なお願い事をされるなんて、そんなのまさに、思わず笑ってしまうくらいベタでありきたりで王道の――


「ラブコメかよ」


 そしてそれを断った自分に、依人は自嘲をこぼした。

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