例えばそれは、神秘的な偶然〈2〉


 依人の捜索は陽が落ちるまで続いたものの、結局落とした本が見つかることはなかった。


 翌日、憂鬱に落ち込み切った状態で登校した依人は、自席に着いたあといつものように本を読む気にもなれず、ぼんやりと窓の外を眺めていた。


 落としたことも死ぬほど悔やまれるが、何よりサインを書いた作者に申し訳なかった。


 ――マジでどうしよう、帰りに警察とか行ってみようかな……。


 そんなことを考えている内に時は過ぎて、朝のHRの時間がやってくる。


 担任の教師が教壇に立って、全員揃っている生徒らを見渡し、「よし、全員来てるな」と名簿表の出席確認欄にチェックを入れていく。

 その時、「はいはーい」という明るい声がして、手を上げながら水瀬恋夏が前に出て行った。


「せんせ、みんなに言いたいことあるからちょっといいー? すぐおわるから」

「おういいぞ」


 先生と入れ替わって教壇に立った恋夏が片手に持つ――紙カバー付きの文庫本を見て、依人は目を剥いた。


 間違いない。アレはまさしく、昨日依人が無くした本だ。


「これ、今日の朝来たら教室に落ちてたからウチのクラスの誰かのだと思うんだけどー、誰のですかーっ?」


 フリフリとにこやかに文庫本を振る恋夏が、依人には天使に見えた。

 勝手に通学路のどこかに落としたものだと思い込んでいたが、どうやら教室で落としていたらしい。


 恋夏は恐らくその中身を既に見ているであろうが、今手を挙げれば、依人がラノベオタクだとバレるのは彼女に対してだけで済む。

 あの本を依人が読んでいたと恋夏に知られるのはだいぶアレなのだが、彼女なら依人の趣味を露骨に否定したりしないだろうし、お願いすれば黙っていてくれるだろう。


 今ならまだ首の皮一枚で繋がる。そう思って依人が手を挙げようとした瞬間――


「んーとね」


 恋夏が本の中身をペラペラめくる。


 「タイトルは『実はエロ漫画家のオレが箱入り清純無知なお嬢様の家庭教師になってエッチじゃない性知識を教えることになったんだが?』……ってやつ? これタイトルなのかな。なんかカワイイ絵も付いてるやつ!」


「ぶッ――――」


 依人は盛大に吹き出しそうになった口を全力で押さえつける。


 恋夏に一切の悪気がないことは分かるし、拾ってくれたことについては感謝しかないが、依人には彼女が悪魔に見えた。


 呪文のように一息でタイトルを読み上げた恋夏は首を捻り、教室が笑いに包まれる。


「だれだよそんなん読んでるやつー」とはやし立てる男子。「ちょっとやだーっ」と、苦笑を浮かべる女子。「お前らのじゃないん?」と、チャラ男がからかうように笑って、いつもオタク話に花を咲かせている男子たちに確認している。「いや僕らラブコメ系はあんま見ないし」「え? エロ本じゃないのアレ」「タイトル的にはラノベ系のラブコメかな、ちょっとエロは入ってるかもだけど」「ラノベって?」「あーライトベルって言って――」


 などなど、口々に会話が飛び交い始める。


 依人が所属する一年Dクラスは、非常に仲が良いクラスである。委員長の恋夏によるところが大きいのだろうが、一見住む世界が違うタイプの者たちの間にも壁がない。


 自分が知らない異文化にも寛容な彼ら彼女らは、恋夏が手に持つ本に対してあからさまな嫌悪などは浮かべていないのだが――。


 それはそれとして、今の依人がこの場で手を挙げるのはハードルが高すぎた。


 ――いや、無理だろ……。


 ここで手を挙げてしまえば明日から依人は『教室の隅でひとり本を読んでるヤツ』から『教室の隅でひとりエッチなサブカル小説を読んでるヤツ』にジョブチェンジしてしまう。


 …………地獄か?


 いやだがしかし、あのサイン本は一人のファンとして決して失ってはならないものだ。


 確かにタイトルはちょっと……だいぶ、かなり……アレだが、中身はむしろ清々しいくらいのピュアなラブコメだし、主人公とヒロインのいじらしくも愛すべき交流の日々が楽しく丁寧に描かれているのだ。

 素晴らしいものだと断言できるし、依人が非常に気に入っている作品である。


 故にこそ、依人がここで体面を気にしてあの本を見捨てることはあってはならないのではないだろうか? 

 今この瞬間、依人はラブコメラノベを愛する一人の人間として、その心意気を表明すべきなのではないか? 


 そう――。

 何も恥ずべきことはない。他の者にどう思われようとも、依人ひとりが己に誇りを持ってさえいれば、何も問題ない。

 

 …………よし、手を挙げよう。……挙げてやる。


 依人が勇気を振り絞って、震える手を恐る恐る上げようとしかけたその時――



「はい」



 依人のものではない静かな声が、凛と響いた。


「――――」


 騒がしさに満ちた教室が、シンと静けさに覆われる。

 荒々しく波打っていた湖面を、空から落ちたたった一滴の雫が鎮めるように。


 空野ほとりが、手を挙げていた。


 さすがに恋夏も意外だったようで、目を丸くして口を開いた。


「え、えっと、ほとりちゃんの……なの? これ」


「一応、見せて頂いてもよろしいでしょうか?」


「あ、うん、どぞどぞ」


 ほとりは、自身に集まる視線の波はどこ吹く風な様子で、悠々と前へ進み出る。


 恋夏から本を受け取ったほとりは、何度か本を裏返したりして確認したのち、今度は本を片手にしたまま恋夏の手を取った。


「ほとりちゃん……?」


 いきなりほとりに手を握られて困惑顔の恋夏。


 ほとりは、交互に恋夏の右手と左手を丁寧に握ってから、コクンと頷いた。


「はい、問題ありません。ありがとうございました、水瀬さん」


 ほとりは楚々と頭を下げて、本を持ったまま自席に戻っていく。


 クラスメイトたちが呆気にとられてほとりを見ている中、依人の戸惑いはそれどころではなかった。


 ――いったいどういうつもりだ……?


 あれは間違いなく、昨日依人が落とした本である。


 なのに、何故、空野ほとりは確信した様子であの本を受け取ったのか。

 しかも、明らかに空野ほとりのイメージとはそぐわないあの本を。


 本当に訳が分からなかった。




 依人がその訳を知る機会は、早々に訪れた。


 依人がほとりに疑いの目を向け続けた午前が終わり、昼休みのこと。

 どこかのタイミングで空野ほとりに接触しようとしていた依人は、今しかないと考えた。


 ほとりに攫われたあの本を見捨てるという選択肢はない。必ず救出せねばならない。

 そう意気込んで空野ほとりの元へ行こうとした依人だったが……。


 ――は?


 ふと気づけば、依人の目の前に空野ほとり本人が立っていた。


 昼休みになれば昼食も取らずに本に没頭し続ける彼女のいつもとは違う行動に、教室のあちこちがざわつき始める。


「中原さん、少しお時間をいただいてもよろしいでしょうか?」


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