例えばそれは、神秘的な偶然〈1〉


 二学期の中間試験も終わり、気付けば冬の気配が忍び寄り始めていた。 

 そんな日に日に気温が下がっていく十月の下旬。


 よく晴れた朝、いつもより早く登校した依人は図書室でひとり本を読んでいた。

 登校後、時間に余裕がある時は図書室に赴いて本を読むのが依人の習慣だった。


 ここ最近はどんどん寒くなってきているが、窓から差し込む陽光が燦々と室内を暖めており、他の利用者もほぼいないため、とても居心地が良い。


 ――いい朝だ。


 ペラリとめくったページに目を落とし、依人は満足げに微笑む。


 めくった先のページには、『キミと会えてよかった』と、涙ながらに主人公に抱き着くヒロインの描写があった。劇的な出会いを果たし、初めは互いに反発しあっていたふたりは、数々の困難やすれ違いを乗り越え、まさに今結ばれんとしていた。


 きっと、出会ったのがこのふたりだったからこそ辿り付けた結末。意図せずとも、お互いがお互いを支え合う理想の関係。これを運命と言わずして何と呼べばいいのだ。


 やはり物語の世界は良い。不条理に無秩序で、煩わしい現実とは違う。


 うんうんと頷いて、依人は見開きの片側にある挿絵へ視線をやった。


 頬に涙を伝わせ、それでも幸せの笑みを口元に滲ませるヒロインと、それを優しく微笑んで胸に受け止める主人公。


 確かなものが積み重ねられた先のクライマックス、精緻でありながら軽快に心を震わせる情緒豊かな描写、幸せな温かさに彩られた美しくも可愛らしい一枚絵。

 それらの全ての要素が上手く絡み合い、主人公とヒロインの魅力をこれでもかと押し上げている。


 文章とイラストの調和。

 ライトノベルという媒体の真骨頂がここには詰まっている。


 感動のあまり、思わず涙ぐむ依人である。


 中原依人は、俗に言うライトノベル――略してラノベと呼ばれるような書物を読み漁る重度のラノベオタクであった。


 周囲の者たちは、依人が読書好きで普段からひとりで本ばかり読んでいることは知っているが、彼が読んでいる本のほとんどがライトノベルである事実は知らない。


 さらに言えば、依人が好き好んで読んでいるのがラノベの中でも〝ラブコメ〟というジャンルに属される作品――それも、甘々なイチャラブシーンが多めの作品であるという事実は、もちろん知らない。


 そして依人も、別にそういった作品を好んでいる自分を恥じている訳ではないし、何なら愛してすらいるほどなのだが、なるべくそれを知られたくないと思っている。


 ひとりで過ごすことに不満を抱いていない依人とは言えど、彼は思春期真っ盛り。

 他者から自身に向けられるイメージを全く気にしない、という境地にまでは辿り着けていない。


 誰とも慣れ合わず、ひとり孤高に読書を嗜むクールな自分。

 思春期の彼は、そういう自分にちょっとした満足感や誇りみたいなものを抱いていた。


 残念ではあるが、仕方ないことである。だって思春期なので。


 故に、そういう自分がいつも読んでいる書物が、目に通すだけで口内が甘ったるくなるほどのイチャラブシーンがふんだんに詰め込まれたラブコメラノベ、となってくると、なんというか、イメージが崩れる。


 クールで孤高な中原依人のイメージがなんか、こう……。


 こんなことを考えている時点で既にクールも何もあったもんじゃないことはさておき、やはりはたから見られる印象というのは、思春期男子学生にとっては非常に大事なことなのである。マジで。現代人にとってのスマホくらい大事。


 だから――


「――ねぇ依人くんちょっといい?」


 そんな風に突然女子から話しかけられて、依人は死ぬほどビビった。


 のわぁぁああああああぁぁああっ!? と、叫びそうになった衝動を、「のっ」だけ口に出したところでせき止めて残りは胃の奥へ呑み下し、冷や汗を垂らしながら振り返った。


 そこにいたのは、依人が所属する一年Dクラスの委員長だった。


 名前は、水瀬みなせ恋夏こなつ


 明るい色に染められたミディアムショートの髪を外に軽く巻いて動きを入れ、爪にはキラキラと鮮やかなネイル、耳にはシルバーのシンプルなピアスが光る。

 ナチュラルさを意識したようなメイクと、改造を加えて着崩された制服は、ティーンズ向けのファッション誌にでも載っていそうなくらいバッチリ決まっていた。


 いかにも今どきのギャルだった。すさまじく、ギャルだった。


 学園モノにありがちな真面目メガネのおさげヒロイン系委員長キャラとは対極に位置するような外見だが、しかし先の紹介の通り、彼女はクラス委員長である。


 恋夏の存在を認識した瞬間、依人は最速で本を閉じた。


 教室でラノベを読む時は、挿絵のあるページはさりげなく周囲を警戒しながら目を通すのだが、図書室だったので完全に油断していた。


 家の外で本を出す時、依人は紙のカバーを付けるのが常なので、表紙から読んでいる本が知られることはないのだが、挿絵を直接見られてしまうと話は別である。


 額に浮かぶ冷や汗が増量中の挙動不審な依人を見て不思議そうに首を傾げた恋夏は、「あ、ごめん、今大丈夫だった?」と確認してくる。

 恋夏の視線は依人の顔に向けられており、本には一切興味がなさそうである。


 問題なさそうだ、と依人は安堵する。


「あ、あぁうん大丈夫。それで、俺に何か用……? 水瀬さん」


「よかったー。そんでねこれなんだけど、依人くんに書いてほしくて」


 恋夏は一枚の紙とボールペンを差し出す。


「進路希望調査のやつ、依人くんまだ出してなかったでしょ?」


「……あっ」


 そう言えば、今日が締め切りの調査書が先週配られたことを思い出す。


 恋夏の手を煩わせてしまって申し訳ないと思いながら、依人は紙とペンを受け取る。


「ごめん忘れてた……」

「いーよいーよ、あたしもよく色々忘れたりしちゃうしね」


 からっと気さくに笑う恋夏の人の良さに温かいものを感じながら、依人がペンをノックするとふわっと甘い匂いが香った。なんだこれ……と、ペンを見下ろす依人。


「あっ、そのペンね、チョコのにおいがするの。かわいいでしょー?」


 一体ペンにチョコの匂いを付けて何の意味があるのか、と思ったが、とりあえず「そうだね」と頷いて、依人はペンを紙に走らせる。


「でっしょー? ほかにはね、赤ペンにはいちごの匂いついてたり、青のはせっけんの匂いしたりすんだよー」


 図書室なので、抑えた声で会話を行う依人と恋夏。


「そんなのがあるの? 全然知らなかった」

「あれ依人くんって左利き?」

「うん」

「依人くんってカノジョとかいるの?」

「いないよ」

「じゃあいい感じの子とかは?」

「いないかな」

「ふむ、依人くんって一日にどれくらい本読むの?」

「平日なら一日に一冊くらい」

「え? ウソ? そんな読めないでしょ」

「読めるよ」

「やば、超能力じゃん」

「そんなすごいもんでもないけどな……、ちゃんと読んでれば」

「あー、あたし小説苦手だからなーマンガは読むんだけど」

「読みやすい本とかも結構あるよ」

「お、じゃあおススメとか教えてよ」

「たぶん俺の読んでるのは水瀬さんにあわないと思う」

「えー、そんなの見てみないと分かんないじゃん」

「でも、ほかの人に聞いた方がいいと思うよ」

「けちー」


 そこで会話は途切れ、依人も調査書の空欄を埋め切った。

 依人は借りたペンと合わせてそれを恋夏に渡そうとしたところで、彼女がジッとこちらを見つめていることに気が付く。


「えーと……、水瀬さん?」

「依人くん、ってさ」

「なに」

「ちゃんと反応はしてくれるんだよね」

「なんの話……?」

「なのになんで仲良くなれないんだろ? ふしぎ」


 首を捻っている恋夏に、だからなんの話だ、と依人は眉をひそめる。


「依人くんってほとりちゃんと似てるよね」

「え、どこが」

「ほら、いつも本ばっか読んでるし」

「いや……、そこだけ見れば似てるのかもしれないけど」


 だがそんなことを言えば、読書好きはみんな依人と似ていることになってしまう。

 まさかあの空野ほとりがラノベを読んでいるということもないだろうし、以前クラスメイトに好きな本のジャンルを聞かれてミステリーと答えたあとすぐ読書に戻っていたし。


「でもほとりちゃんはさ、なんか本読んでるとき話しかけちゃいけない感すごくて、なのに見るときはずっと本読んでるからそもそもあんまりまだちゃんと話せたりしてないんだけど、依人くんはちゃんと話しかけたらイヤな顔せずに応えてくれるじゃん?」

「まぁ、うん」

「あたし、誰かと仲良くなるにはおしゃべりが一番だと思ってて、大体の子とはなんか喋ってるうちに気付いたら仲良くなってて、いっしょに遊び行ったりすんだけど、なんか依人くんとはずっと出会ったばかりの知り合いのまま、って感じがする」


 だから不思議、と恋夏は首を傾げた。


「あぁ」


 なんとなく、恋夏の言いたいことが分かった。


 水瀬恋夏は魅力的な少女だ。

 可愛らしく、愛想がよく、明るく、楽しく、親しみやすく、人が良い。だから男女問わず彼女と仲良くしたがっている者は多くて、彼女もそれを拒もうとしないから、すぐに仲良くなれるのだろう。


 でも依人は、例え相手が誰であっても関係なく、一定以上の距離を保ち続けている。


 恋夏の疑問に対する答えは単純だ。


 とても恐縮なことに、恋夏が依人と仲良くしたいと思ってくれていても、依人が恋夏と仲良くしようとしていないから、仲良くならない。たったそれだけの理由。

 ヒトとヒトが仲良くあるためには、お互いがお互い共それを望んでいる必要があるというその真理を、依人はよく理解している。


 少し胸が痛んだ、彼女の無邪気な好意を踏みにじっている事実に。


「同じクラスでまだ一緒に遊びに行ったりいけてないの、依人くんとほとりちゃんだけなんだよねー」


 じぃーっ……と、恋夏が依人を見つめていた。


 それだけの人数と交友関係を保ってまだ増やそうとしている恋夏には畏怖しかないが、心苦しいことに依人にそのつもりはない。


「ごめん、俺けっこうバイトとかで忙しいから」


 愛想笑いと、建前。


「えーっ、でもシフトがない日とかはさすがにあるでしょ?」


「まぁ、ちょっと」


「むー」


 依人の建前は恋夏も察しているだろう。

 さすがに彼女もこれ以上の無理強いは諦めたのか、ふっと表情を緩めた。


「ま、しょうがないか。でも依人くんも、なんかあったら遠慮せずに声かけてよね。困ってることでも一緒に遊ぼうでもなんでも、貸し一つであたしは出動したげるから」


 気持ち程度胸を張って誇らしげに、冗談めかして恋夏が笑った。


 依人も笑顔をつくってそれに応じる。


「うん、ありがとう。調査書の方も助かった」


「うんうん、どういたしまして。じゃねーっ」


 ひらひらと調査書を振って恋夏が出ていくのを見送り、依人はふうと長く息を吐いた。

 精神的な疲労があった。愛想笑いを浮かべ続けたせいで、微妙に頬が突っ張っている。


 恋夏が悪いという話ではない。

 依人が人と関わるのに向いていないという、ただそれだけの話なのだから。


「…………」


 そして、疲れた心を癒すように、依人は再び本を開くのだった。




 放課後、残りページが少しだった本を教室に残って読み切っていたため、いつもより少し遅い時間に依人は帰宅した。


 学校に程近い場所に位置する一人暮らし用マンションの――我が家である407号室の扉を開こうとした時、隣の408号室の扉が開いて、中から手提げカバンを腕にかけた制服姿の空野ほとりが出てきた。


 彼女と目が合って、依人は軽く会釈する。

 すると、ほとりも礼儀正しく頭を下げて、そのままエレベーターがある方へ歩いて行った。


 偶然、としか言いようがないのだが、中原依人と空野ほとりの住まいは隣り合っている。


 あれは、夏休み明け最初の休日のことだ。


 依人宅の隣に引っ越し業者が夥しい量の段ボールを運び込んでいる場面を目撃し、一体どんな人物が引っ越してきたのだろうと思っていたら、まさかの先日転校生として紹介があった空野ほとりだった。


 既に依人のことをクラスメイトとして認識していたらしいほとりは「偶然ですね。お隣同士よろしくお願いします」と頭を下げてきて、依人も驚きつつ、「よろしく」と社交辞令を返した。

 その時は、まるでベタなラブコメの冒頭みたいだな、なんて思ったりもした訳だが、それ以、降彼と彼女の間で言葉が交わされたことはない。


 たまに顔を合わせても、今のように無言で会釈を交わす程度である。


 結局のところ、そんなもんだった。




 帰宅後、通学バックの中身を開いた依人は頭を抱えていた。


 バッグの底に、裂けたような小さな穴が開いていたのである。

 長らく使っていたものなので、ついに限界が来たのだろう。 


 だが問題はそこではなく、無くさないようにと奥底へしまい込んでいた本が一冊、どこにも見当たらないという点だった。


 それはまさに今朝図書室で依人が読んでいたラノベであり、依人にとって非常に大切な一冊。

 量産されているものであれば、無くしてしまったことを残念だと思いつつも買いなおすことができたのだが、不運極まることにアレは筆者のサインが入った一冊なのである。


 SNS上で行われたとある企画に当選して手に入れたものだが、絶対に無くさないようにしようと奥にしまい込んだことが逆に仇になるとは。


「最悪だ……」


 しかも、バッグに空いた穴はちょうど文庫分一冊のみを狙ったように通すようなもので、もっと盛大に空いてくれていたら他の荷物も落ちて気付けたかもしれないのに、とバッグを恨む。

 あまりにも悪い偶然が重なっていた。


 しかし悔いていても落とした本が帰ってくる訳じゃない。


 依人は重々しいため息を漏らしつつ、学校からこの家の間のどこかにはあるはずだ――と、ラノベ捜索のために家を出た。

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