彼女の日常

 空野ほとりが転校してきてから、約一か月が過ぎた。


 その間、文化祭という青春一大イベントがあり、盛況の内に終わった訳だが、依人の学園生活に変わりはなかった。

 どこか神秘的な美しい少女の転校、高校初めての文化祭――その程度のことで、依人の完成された日常は揺らいだりしない。


 午前、授業の合間にある休み時間。


 自席で本を開いていた依人は、離れた位置にある空野ほとりの席を横目で見やった。

 そこには依人と同じように自席でひとり本を開き、黙々とページを繰っているほとりがいる。

 教室内には多くの生徒がいて、今もざわざわと賑々しいが、誰も空野ほとりに近付いていこうとはしない。


 空野ほとりは、いついかなる時も本を読んでいる。


 朝学校に来ては本を読み、授業の合間に本を読み、自習の時間に本を読み、昼休みには昼食も取らずに本を読む。

 放課後にもたまに自席でひとり本を読んでいるが、大抵の場合は終礼が終わった途端に教室を出ていく。


 学校にいる時のほとりは、学生としての義務を果すこと、そして本を読むこと、このたった二つの要素で構成されていると言ってもいい。


 まるでどこかの誰かのようである。


 どこかの誰かと違うのは、そのような目立たない振る舞いをしていても、空野ほとりは非常に人目を惹き付ける、という点だ。

 しかし同時に、近寄りがたくもあるのである。


 空野ほとりは浮世離れした美人であり、決して周囲に流されず、誰にも靡かず、自分のペースで壮麗怜悧と立ち振る舞う。

 繊細なバランスで成り立っているその様は儚げな魅力を持つ氷雪細工のようで、少しでも素手で触れたら熱で溶けて崩れてしまうんじゃないかと思わずにはいられない。


 ここまでくると、『近寄りがたい』というよりも『近付いちゃいけない』という神聖な気配すら感じられる。


 しかしそれでも勇気を出してそこに踏み入る者はいる。

 実際、彼女の転校直後は、休み時間になるや否や本を開くほとりに近付いて、距離を詰めようとする者が大勢いた。


 この頃となってはその数もだいぶ減ったが、未だ空野ほとりという少女のことをよく知らない他クラスの生徒などは、稀にこの教室を訪れて彼女に話しかけたりする。


 まさに今も、二つ隣のクラスの男子生徒がほとりに声をかけんとしていた。

 読書中のほとりに。


 やめておけばいいのに、という視線が教室中から集まっている事実に、彼は気付かない。


「ねぇ、空野ほとりちゃんだよね」


 気さくに、むしろ軽薄に、どことない自信が滲む微笑みを浮かべて彼が言った。


「……………………」


 いつのまにかシンと静寂が満ちていた教室に、はらり……と、ほとりがページをめくる音が鳴った。


 聞こえなかったのだろうか? と、彼は首を捻り、少し声量を上げてもう一度言う。


「あの、ほとりちゃん?」

「………………」


 はらり、とページを繰る音が響く。


「あ、あのっ!?」


 耐えかねた彼が大声を出すも、空野ほとりは本に落とした視線を外さない。


 はらり。……。はらり。……。はらり。……。はらり。


 胃が痛くなるような静寂に包まれる室内に、ページの繰る音と、壁掛け時計の秒針がカチコチ動く音だけが響いていた。


 さすがに意図的に無視されていると感じたのか、彼は眉根を寄せたあと、空野ほとりが視線を落とす文庫本のページに手の平を置いた。

 そこでようやく空野ほとりが視線を持ち上げ、彼の顔をジッと見据えた。


 その一切揺るぎのない冷えた眼差しに、彼は面食らう。

 たじろぐ彼が出す言葉に迷っていると、ほとりは艶やめいた唇をそっと開く。


「私にご用でしょうか」


 囁くようなのに、その声はとてもよく通った。


「え、あ、……そう、だけど」

「そうですか。ですがすみません、急用でもなければ、少し待っていただいてもよろしいでしょうか?」

「……どのくらい待てば」

「わかりません」

「え」

「これを読み終えたら、対応いたします」


 冷淡な声で告げると、ほとりは文庫本を引き抜くようにして彼の手をどかし、何事もなかったかのように読書を再開した。


「…………」


 呆然とした様子の彼は、ほとりが読んでいる本に目を落とす。現在開かれているページは、まだ半分にも達していない。


 その後すぐ、「なんだよ……、ったく……」と苛立たしげに呟きながら、彼は一年D組の教室を出て行った。


 空野ほとりには、クラスメイトから畏怖と畏敬のこもった視線が注がれている。

 しかし当然、そんな視線に彼女は気付く様子もない。


 空野ほとりの佇まいは、一見、繊細なバランスで成り立っている氷雪細工のようであり、少しでも素手で触れたら容易く溶け崩れてしまうのではないかと思わせる。

 しかしながら、実際に触れてみれば、それが容易に崩れるようなものではないと分かる。


 空野ほとりは、周囲の風に一切揺らぐことなく凛と咲いた一輪花のように、ひとりで完結している。

 結局いつもと変わりないその光景に依人は手元の本に視線を戻して、ページをめくった。



 空野ほとりという存在が加わった、一年Dクラスの新しい日常。

 そこには、ひとりで完結した時間を過ごす中原依人と、ひとりで完結した時間を過ごす空野ほとりがいる。


 あぁ。彼は――彼女――は、そういう人間なのか、と理解した者たちは、無理にそこへ踏み入ろうとはしない。

 己のために、彼と彼女のために、それぞれの日常を淀みなく回すために。


 しかし、彼と彼女の周囲にいる者たちは、彼と彼女の表面しか理解していない。

 それもまた事実であり――。


 そして、他の者たちが彼と彼女を深く理解する必要は、どこにもない。

 彼が彼女を、彼女が彼を理解する必要も、どこにもない。


 だからきっと、彼らと彼女らが仲良く関わり合う日々は来ないだろう。


 この世を巡り巡る神秘的な偶然でも起こりさえしなければ、だが――。

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