第19話

 影が伸びて、揺らぐ。昔はそれが恐ろしくて仕方がなかった。

 怖くてすぐ母親の後ろに隠れて、兄に揶揄われ、父はそんな己を見て優しく教えてくれた。


「影と言うものは生きる者全てに必要なものなんだ。怖がる必要はないよ。生きているという証拠だ」

「でも…」


 影の中から声がする。招かれている感じがした。

 だから影は怖かった。


「おかあさん…カーテン閉めてもいい?」

「あらあら、どうしたの」

「声がするんだ…おいでって呼んでるんだ」

「……大丈夫よ。大丈夫」


 母は、いつも怖がる自分を抱き締めて眠りにつくまで手を握ってくれた。

 頭を優しく撫でて、良い子と褒めてくれた。優しい母が大好きだった、逞しい父はいつも休みの日には大きな庭で遊んでくれた、仕事で疲れているだろうに退屈しないようにと手を尽くしてくれた。兄は、沢山のことを教えてくれた。街のこと学校のことなどそれが彼にとっての全てだった。

 彼には外の世界が良く分からない、母と外に出れば外の人は自分の姿を見て可哀想だと哀れだと嘆く、その時決まって母は哀しそうな顔をして謝るのだ。


「ごめんね。お母さんを許してね」

「……」


 それが、幼い頃には分からなかった。

 黒田家は裕福とまでは行かないが普通の家庭で、父がこれから生まれてくる子供の為にと大きな庭園付きの家を建てた、それは童話やロマンチックな物が好きな母を喜ばせるつもりもあり、母はとても喜んだ。念願の子供にも恵まれた。

 長男の鎮真しずまが生まれ、その二年後に鎮生が誕生した。鎮生は神気だった。

 髪は両親と兄よりも深い漆黒で、両の目は左右で違う色、片方の目は赤く黒い液体を数的混ぜたような色。不吉な象徴だと親戚には言われたが、母は鎮生を愛していた。

 不自由な生活をさせないように、両親は神気について勉強した。父は鎮生を専門の機関に通わせるために日々働き、母は沢山の愛情を注いだ。

 そんな時、長い間飼っていた犬が不慮の事故で死んでしまったのだ。その近くに居たのが鎮生だった為、周りは鎮生のせいではないかと疑った。特に目立った外傷もなく、病気もない。本当に突然だった。


「…ぼくのせい?」

「し、鎮生?」

「ぼくがあくまのこだから?」

「そんなこと言わないで!!」


 父も母も驚いていた。兄は呆然と繋いだ手を離した。

 母は咄嗟に大きな声を上げたことに酷く怯えたようで、慌てて鎮生を抱き締めた。

 まるで自分に言い聞かせるように。


「そんなことない。あなたはお母さんの子なんだから」

「そうだ。父さんと母さんの子だ、だからそんな悲しいことを言わないでくれ…」

「ごめんなさい…」


 それから母は、鎮生をより一層外に連れ出してくれた。休みの日は家族で色々な所に

 行っていろいろな物を見聞きした。

 輝いた世界は鎮生の闇を映したかのような瞳に光を灯してくれた。

 小学に上がって瞳のことで何か言われ、泣いて帰っても母は鎮生の良い所を教えてくれた、その瞳の素敵な所を教えてくれた。

 母は愛を沢山与えてくれた。何かあれば抱き締めてくれた、頭を撫でてくれた。

 鎮生にはそれが嬉しかったなのに、鎮生には何も返せなかった。

 悲しい思いを沢山させてしまった、きっと今も不安にさせているだろうから、だから鎮生は最期に母に感謝を伝えようと思った。


「お母さん」

「あら、鎮生。ご飯まだなのもうちょっと待っててねー」

「お母さん」

「…鎮生?」

「お母さん、ありがとう。母さんの子供に生まれて俺、幸せだったよ」


 陽だまりの中洗濯物をしていた時、隣でボール遊びをしていた子供がこちらを向いている。慈しむように声を掛けたのに、なぜか他人事のようで酷く恐ろしく感じた陽だまりの中微笑む彼は、誰―?


「鎮生—ッ」


 飛び起きて、跳ねる心臓を落ち着かせる暇もなく、思考を巡らせる。

 心臓の音を無視してベッドから降りて電気を付けると、隣で寝ていた夫の暁生あかつきが寝惚けた声で名を呼ぶ。


「真莉?どうした、まだ起きるには…真莉…?」

「いないの!どこにも、どうして!!どうして…」

「何がいないって言うんだ…」

「居ないのよ…私の大切な―」

「母さん?父さん?」


 本棚から取り出したのは過去に撮影した写真の入ったアルバムだ。

 開いても開いても見当たらない。

 何を探しているのかなんて自分でも分からない。

 扉が開いてこちらを呼ぶ声がする、振り返ってそこに居たのは紛れもない自身の息子である鎮真しずまだ。なのに彼女はいま酷いことを考えた、違う―と思ってしまった。それがショックで、だが間違っていないと感じている自分に混乱して取り乱す。嗚咽が零れ涙が止まらない。

 自身の顔を見て泣き出した母の姿に、鎮真は呆然と立ち尽くす。暁生は真莉の背を擦り抱き締める。

 どうしても、足りない、一人足りないのだ。


「あ…ぁあ、どこ行ってしまったの…私の大切な赤ちゃん…」


 泣き崩れる真莉は白紙の多いアルバムを抱き締める。

 中から零れ落ちた写真は何故か陽だまりの中の芝生とボールが一つ映っていた。


 目を開ける。すると優しい風が頬を叩いて覚醒を促してくる。

 鎮生は目を細め、隣にある気配に体を委ねる。


「起こしてくれてもよかったのに」

「意識が別のところにあったからやめた」

「…お別れをしてきたんだ」

「うん、知ってる」

「待たせてごめんね」

「勝手に待ってただけ、大丈夫。いいの?もう戻れないよ」


 神道に戻れば人には戻れない。

 それはこの国の決まり。この国の母なる神が定めた掟それは神のみに与えられた定め。鎮生は頷いた。


 翔は瓦礫を渾身の力で叩き割り、道を開く。

 瓦礫の下敷きになった人々を救助しながら瘴気の殲滅を行っている最中にまたもや大きな地震だ。

 そして、空が割れた。目を疑う光景に誰もが動揺を隠せない。目の先には、春嘉が出雲と共に立っている。

 見つめる先には、あの大きな繭だ。それが次第に萎んでいっているのが目に映り驚愕に顔を歪ませていると、空から辺りを偵察していた太陽と鎮生が降りてきた。


「来るぞ」


 春嘉の低い声が辺りに緊張感を漂わせる。

 作業員を下がらせようと口を開いた瞬間辺りが一変した。

 ひび割れ廃墟のようだった地面や建物は花畑になり、空は澄み渡るかのように鮮やかだった。

 そして、向こうから人が走ってくる。


「人間…?」

「いや、違う!構えろ!」


 人のように見えたそれは異形化した怪物だ。

 大きな牙を剥き出しにして、走ってくる。血のような液体を垂れ流しグロテスクな見た目を見ている。

 震え上がるほどに異様な光景だった。


「幻影か」

「邪神がここまでの力を取り戻しているなんてね」

「大丈夫なのか」

「恐らく―ッ?!」


 空から奇妙な奇声と共に降ってきたのは、小柄な少年のような見た目をした人物だ。

 名を―ハイエナと言う。


「翔、お前は春嘉と一緒に先に行け!」

「でもっ」

「いい!行け―ッ」


 翔は太陽に後押しされるように、走り出す。

 ハイエナは、不気味な笑みを湛えて太陽と鎮生を見つめる。

 過去に太陽はハイエナと対峙したことがある、大切なものを喰われたのだ。

 悪食と名高いハイエナは人だろうと何だろうと食べる。


「へへへ。また会ったね」

「これで最後だよ。ハイエナ」

「なぜ?コレを生み出したのはキミで捨てたのもキミだ。コレの最後はコレが決めるお前じゃない!」

「いや、最後なんだよ」


 ハイエナが太陽目掛けて走った―はずだった。

 動けない、いつの間に背後に回ったのか鎮生がハイエナの影を縫い付けている。


「ぁ…あああ!!」

「…幻影はその姿を騙す。だがそれと同時にそれは弱点にも繋がる。ボクは天光神、天光を司る神、そして彼は鬼神、この世の理謂わば影のような存在だ」

「な…ゼ?」

「なぜ?それは人間であれば殺せたという過信かな?そうだとしたらとても、愚かだ、そうだとしてもキミはもう当にその力の根源を無くしている」

「ぐぅああ」


 雄たけびのような叫びが辺りを木霊する。

 影が引き裂かれている。

 この世の理から引き摺り下ろすことが出来るのはこの国でただ一人だけ―鬼神である鎮生だけだ。

 そうすれば後はもう簡単だ。闇は光を嫌う。光は闇を照らす。


「痛いの嫌いだったよねぇ」

「ゃ、やめローッ!!」


 槍のような光が、ハイエナの体を貫く途端に体が脱力して自重で地面に付きそうになる。痛いと思う間もなく目の前が暗く閉じていく。

 もっと強ければ―と思うも虚しく力が消えていく感覚にハイエナは光の粒に惑わされる。手に取ろうとして消えるそれに夢中になる、肉が裂ける感覚にも目を向けずにただ伸ばそうとした。

 その手を掴まれる。


「おやすみ。——」

「—!」


 意識が消えていく。光に包まれてそれがとても暖かくて気持ちが良かった。

 動かなくなり、次第に光の泡となり消えていくハイエナを二人は見つめていた、だが直ぐに悲鳴が辺りを包み込んで、上だという声に目を見開く。

 大きな鳥が数羽空を羽ばたいている。


「なんだあれは」

「…太陽、あれって…」

「愚かな、人間…っ」

「撃ち落とせ!」

「待て!そんなことをしてはいけない!!」


 警備部隊が銃を空に向けた時、一つの声がそれを咎める。七瀬が廃墟と化した本部の瓦礫の上で衛に支えられながら声を上げる。


「あれは政府が生み出した、人体実験の成功品だ」

「は?」

「何を言っている!赤里リーダー!」

「本当だ、政府はここ何十年、戦争に負けた時から瘴気及び神気について研究し神気の人間を使って人体実験をしてきた…分からないか?この全ての原因は俺たち人間にあるってことだよ」

「何をふざけたことをっ!では何か、政府がそんなふざけたことを国民に知られずにやってきたというのか?これは国民に対する暴虐だぞ!!」

「そうだろうね…そして、いま解き放たれたのはその一部だあれは成功品と入ったが実際には試行品だ、所謂お試しの機体だ…神気の力と瘴気の力その両方を併せ持つあれらは、野放しにすればこちらを見境なしに攻撃する」

「では、今すぐに撃ち落として!」

「駄目だ!」


 強く制したのは太陽だ、瓦礫の上を上り七瀬に近付く。

 七瀬は手に持った資料を渡す。

 そこには、予想を上回る規定外の瘴気の量を含んだ燃料タンクを積んでいる設定になっている。体に爆弾を背負い洗脳状態で彼らは空を舞い続けている。

 まるで本当に鳥か何かになったかのように―。


「下手に撃ち落とせばこの国全体が瘴気に飲まれる」

「—なに?!ではどうするのだ!」

「……何か、ないのか」


 攻撃すれば避難している人間は全員瘴気に飲まれる。自分たちだって例外じゃない。

 警備隊や作業員に向かわせるわけにもいかない。そしてすぐそこまで繭から漏れだした瘴気の液体と共に異形化した神気たちが迫ってきている。

 時間がない。


「かーくん!くーちゃん!」

「リリィ?!」

「鳥人間たちはオレたちに任せろ!」


 上空から落ちてきた声に顔を上げる。

 空を魔法の力で浮遊するリリィとギルバートは返事も聞かずに去っていく。

 何をするつもりだと太陽は目を見張る。

 ギルバートの魔法で、飛翔する鳥人間たちを縫い留める。


「!」


 それではいけない―と思った瞬間辺りを温かな風が巻き起こるとどこからか花びらが舞い上がる。これは幻影でない。

 それは大量の花弁となり、鳥人間たちを包み込んだ。暴発するたび地上に可憐な花が散っていく。


「愛神…っ」


 鎮生がリリィを呼ぶ。リリィは花弁の中で響く泣き声を必死に抱き締める。


「どうか、愛が皆を抱き締めてくれますように」


 祈りを捧げる愛神—リリィの瞳は濁っていく。

 花弁が降り注ぐ中、空が大きくひび割れる。太陽が苦痛の顔を零す。

 人間の時には消えていた感覚によろめく。

 鳥人間たちは姿を消して、落ち行くリリィの体を空中でギルバートが抱き留める。

 何も言わずに強く抱き締める。


「あはは…ごめんねぇギルバート」

「……先輩」

「最後にさ、もう一つだけお願いきいて?」

「…」

「名前、呼んで」

白百合しらゆり

「へへ。嬉しいわ、あなたを愛しているわギルバート…永遠に」


 抱き締めた腕に亀裂が入り、ガラスが砕ける音共にギルバートの腕の中でリリィは満面の笑みで花となり散った。残った花弁は地に落ちていく。

 全貌を黙って見守っていた者たちは目を伏せ唇を噛んだ。


「全員、撤退しろ」

「—!?」

「赤里リーダー…?」

「衛、お前もだ。隊を率いて撤退するんだ西地区まで走れ」

「嫌です!!何故、ここまで来て―」

「だからだよ。義一はもう先に南地区に警備隊を連れて撤退した。此処に残る必要はない」

「ですが―!」

「命令だ!日向衛、警備隊及び作業員を連れて撤退しろ。これは上官命令である」


 支えていた腕を押し、赤里は青ざめた顔のまま衛に言葉を投げつけた。

 衛は唇を噛みしめると、一礼し大きな声で撤退を言い放つ。

 走り去っていく後ろ姿に背を向けた時、衛が七瀬に声を掛けた。


「絶対に帰ってきてください。待っていますから」

「……あぁ」


 一つの足音が聞こえなくなる。

 ここに来る前に七瀬は体に戒めの鎖に術式を晴翔に掛けられている。

 それは体を焦がすほどに熱く痛みが全身を焼いている。立っているのもやっとだ。

 この戒めの鎖は、邪神のみに発動する。呪神と対になるものだなので春嘉と合流しなければならないのだ。

 その時、熱風が吹きすさび引っ張られた七瀬と鎮生は太陽の作った光の泡の中で目の前を凝視する。まだ遠いが邪神の姿がある。

 酷い威圧感に七瀬が跪く。冷や汗が止まらない、体が震えて歯が噛み合わない。


「七瀬、しっかり息をして」

「はっ―ぁ」

「邪神が復活した」


 太陽の威圧感の滲む声に七瀬はただ息をするだけで鎮生は悲しみの眼差しをむけるしか出来なかった。



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