お金
午前の授業が終わり、シズキは仮想空間から物理空間に移動した。移動、と言っても仮想空間上で退出用の扉に入り、感覚共有が切れたところでヘッドギアを外すだけだ。仮想空間とは違って、装飾の類が一切ない我が家を見てため息をつく。
(安心するというか、そっけなさ過ぎるというか・・・)
ほとんどの物理空間の家では、仮想空間で装飾しやすいように必要最低限のもの以外は配置されず、色も一色で統一されていることが多い。物理の家に求められるのは堅牢さ、頑丈さだ。シズキの家も、理論上はマグニチュード10の地震、6,000℃の熱、玄関から高さ50メートルの水害に耐えられるように設計されていると両親から聞かされていた。
(そんな災害あったら、家の前に地球が滅亡しそうだな)
破滅的な世界をぼんやりと稚拙に思い描いてみて、思い直す。物理空間で妄想するためにヘッドギアを外したわけではない。大事な用事、社会科実践学習の宿題をこなさなければならないのだ。学校から”郵送”されてきているはずの、とあるものを探すために自室を出ながら、授業の内容を思い出す。
”今日の授業は座学だけです。”
教室中がざわめき、教師がクラスマップで生徒のボリュームを落とした。表面上は静まり返ったが、シズキも不満の声を漏らしていたうちのひとりだ。自分の声のボリュームまでは流石の教師でもコントロールはできない。
”話は最後まで聞きなさい。今日はお金の歴史について学びますが、せっかくなので、物理空間で買い物をしてきてレポート提出する、という宿題をやってもらいます。自宅には今日の授業が終わったタイミングで到着するように物理空間で利用可能な紙幣と硬貨を郵送していますので、授業が終わり次第、全員確認するように。”
今度は明るい声で教室内がざわめいた。言わずもがな、シズキも最大ボリュームで歓声を上げる。今度は、ボリュームが絞られることはなかった。しばらくして生徒たちが落ち着き出した頃合いを見計らって、教師が説明を再開する。どうやら、今日は教師が教科書を読んでくれるようだ。当てられなかったことにほっとしていると、早速、硬貨や紙幣についての説明が始まる。古代文明で初めて利用された貨幣や、世界最古の紙幣はアジア圏の大陸側で利用されていたことの説明に始まり、物理的な硬貨や紙幣が徐々に利用されなくなった背景についての説明に差し掛かる。
”2010年代には、当時スマートフォンと呼ばれていた、通話機能を中心にマルチユーティリティを備えたハンディ端末が決済機能を備えるようになります。それをきっかけに物理的な硬貨・紙幣の利用頻度が徐々に低下してきます。スマートフォンは通信の歴史で習いましたね?覚えていますか?”
教師の問いかけに、シズキは以前の授業で見た、仮想空間に再現された長方形の板状の物体を思い出した。仮想空間がなかった代わりに、コミュニケーション手段のほとんどをスマートフォンが担っていたと聞いて、驚いた記憶がある。片手に収まる程度の小さな画面で視覚情報を伴ったやり取りをしている動画が教科書に掲載されていた。映し出される角度を工夫しながらやり取りをする500年前の人々の姿を見て、吹き出している生徒もいた。シズキは吹き出しはしなかったものの、長方形の画面いっぱいにリアルな人間の顔が映し出され、その人物は後ろにあるものを説明したいのか、振り返るたびに板の中から消えてしまう様子を見て滑稽に感じたものだった。
シズキがスマートフォンに思いを馳せている間にも、教師の説明は続いていた。どうやら、そのスマートフォンでの決済が徐々に進化し、最終的にはシズキたちが利用している生体認証との一体化が進んだ、ということらしい。
”幼児教育の中で、数を覚えるときに、硬貨のおもちゃを使ったことがある人もいるかもしれませんが、今日は皆さんがお住まいの地域で利用可能な物理的な通貨を各家庭にお送りしています。ただし、アジア圏の一部の地域ではすでに物理的な通貨が完全に廃止されているところもあるため、皆様のご家庭にご相談して地域外への外出に許可をいただけた方には、近隣地域の通貨を送っていますので、通貨が使える地域を確かめてから、外出してください。”
シズキが住む地域は、教師の言った物理的な通貨がすでに完全廃止されいている地域にあたる。両親は域外への外出を許可してくれたんだろうか。シズキは途端に残りの授業に集中できなくなり、ソワソワとしながら過ごしたのだった。
そして話は冒頭に戻る。
(郵送・・・されてきてるよな・・・)
少し不安になりながらも、階段を降り、郵便ポストがある下階に向かう。あまり小型のものを配達する習慣がないため、ポストと言っても、五平米くらいあり倉庫に近い。小型のものはポストに備えられている専用の箱に届けられることになっているのだが・・・。
(あった!!)
学校の紋章が印字された封筒だ。急いで自室に戻り、封を開ける。中から、紙幣3種類、硬貨が3種類出てきた。流石に、メッセージまでは物理的なインクで書かれているわけではないようだ。同封されていたメッセージを読むために、仮想空間に戻った。シズキが受け取った通貨は、ライトパイプを走る列車で行けば数秒もかからない場所が記されていた。
(なんだ・・・ついでにリューイに会いに行こうかと思ったのに)
少しの落胆はあったものの、物理的なお金に対する感動はその比ではなかった。仮想空間で紙幣と硬貨を眺めてみると、通貨に関する歴史がプロットされた。最後にご丁寧にも、仮想空間では利用できません、という注意書きまで書かれていた。
(わかってるよ)
失笑まじりにプロットされた説明に文句をつけて、再び物理空間に移動しヘッドギアを外した。200年ほど前まで国境と呼ばれていた地域の境目を出るためには、セキュリティゲートを通過しなければならない。ゲートはギアの装着は認められていない数少ない施設のうちの1つだ。鏡の前に立ち、少し迷う。
(ヘッドギア・・・付けて行こうかな・・・)
シズキの家からライトパイプのステーションまで、ソニックバイクで数分ほどしかかからない。セキュリティゲートで着脱するときにもたついて、慌てふためく自分が容易に想像できた。向こうについてから付け直した方が良さそうだ。
(変じゃ・・・ないよな・・・)
仮想空間でのコミュニケーションが生活の八割を超えて100年が経った今、物理的な容姿にこだわる人はほとんどいないが、それでも多少の緊張は伴うというものだ。
(よし、行くか・・・)
シズキは久しぶりに押し入れの奥からカバンを引っ張り出して、学校から送られてきた紙幣と硬貨を突っ込んだ。慌てて、ヘッドギアも突っ込む。
定期的に家の外・・・と言っても、家の敷地内にある、植物を植えたプラントエリアを散策する程度のシズキが、本当の意味で家の外に出るのは三ヶ月ぶりだった。敷地外の空気に、再び緊張しながらも、足を踏み出す。すぐに緊張よりも、物理空間のショップで買い物体験ができる興奮が優ってくる。
(それにしても、物理的な紙とかコインがないと買い物できないって・・・不便だっただろうな・・・重くなかったのかな?)
ソニックバイクに跨りながら、あれこれと想像する。紙幣である紙やコインを大量に持った自分を想像してげんなりして思う。
(やっぱり、物理空間って不便だよな・・・)
そう思いながらも、何を買おうか迷いながら、久しぶりの外出を楽しむのだった。
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