14.罪と恋
この狭い家ではすぐに中まで響く、鈴の音のような美しい声。
それは間違いなくアニアで、微睡んでいたはずの目は一気に覚めた。
「アニア……?!」
「サファーさん……!!」
扉を開けると、アニアが飛び込んできた。
二十歳になった、アニア。
俺が想像していた以上に美しく、長く伸びた栗色の髪からは良い香りがした。
「もう刑期が終わってたんですね……!」
「ああ、俺は模範囚だったから、刑期を少しだけ短くしてもらえてたんだ。けどアニア、どうしてここに……」
「私……私、どうしてもサファーさんに謝りたくて……!」
彼女の目からは、もうすでに綺麗な涙がスルスルと流れ落ちている。
こうして会うことなんてないと思っていたから、心底驚いた。喜びももちろんあったが、うまく言葉に表せられない。
それよりも、アニアを泣かせてしまっている事実の方が気に掛かった。
「アニアはラバルくんと結婚したんだろ。聞いたよ。謝ることなんてなにもない。君がそれを望んだなら、それは俺の望みでもあるんだよ。俺は……アニアが今、幸せならそれでいい」
本心からの言葉だ。三年という時を経て、辿り着いた俺の答え。
己の犯した罪を悔やむと同時に、彼女の幸せも願えるようになった。
けど、そんな俺の穏やかだった心を、アニアは簡単にひっくり返す発言をした。
「復讐、だったの……」
「……え?」
美しいアニアの口から解き放たれる、復讐の二文字。
一体なんのことを言っているのかわからず、一瞬呆然となる。
「復……讐……アニアが誰に……俺に?」
違う、という答えを期待した。しかしアニアは否定の言葉は紡がず、わずかにコクンと首肯を見せる。
「は……? な、なにを言って……どれが……」
「十四歳の時に気付いたんです……あなたが、どれだけのことを私たち家族にしたのかを」
十四歳の時……というと、アニアが俺を熱い目で見始めた時じゃなかっただろうか。どういうことだ。意味がわからない。
あの時アニアは、俺を……
「好いてくれてたんじゃ、なかった……のか……?」
「いいえ……憎んで、いました……」
頭を棒でガツンと殴られたような衝撃が走る。好かれてなどいなかった。なにかの冗談かと思いたかった。
けど、アニアの瞳は涙で濡れながらも真剣で。それは真実なのだと思い知らされる。
「そん、な……でも、アニアはずっと昔から、俺のことを許して……」
「幼い頃の私は、よくわかってなかったんです。お父さんとお母さんを殺したのは黒ずくめ。それだけが事実で、あなたの存在を深く考えたことはなかった」
だからアニアはあの日。俺が初めて謝罪をしたあの日。
天使のような微笑みを見せてくれていたのか。
ならばなぜ、いきなり俺を憎み始めたというのだろう。特になにをしたわけでもなく、心当たりがない。
「サファーさん、知ってました? 私、学校では親なしって呼ばれてたんですよ。ただそれだけではあったけど……そう言われるのが私はつらかった」
初めて聞くアニアの告白。親なしと呼ばれるたびに、どんな気持ちになっただろうか。想像するだけで胸がズキズキと疼いた。
「ごめんよ……」
「謝らないでください。私……それからあなたを段々と憎むようになってしまったんですから。両親が殺されるきっかけとなった、あなたを」
天使だった女の子が徐々に悪魔へと魂を捧げていくようで、ブルリと身震いする。
恨まれても憎まれても仕方ないと、そう思っていた。しかし時を経てから恨まれることになるなんて、思ってもいなかった。
「私は、計画を立てました。あなたを実刑に追い込まなきゃ、気が済まなくなった。その方法が……」
「強姦罪……?」
コクリと首肯するアニア。
冷たい目が恐ろしく、俺の心にしとしとと雨が降る。
「好きになったふりも、会うたびにするキスも、本当につらかった。でも、あなたに実刑を受けさせるためならなんでもやれました」
「そんなにまでして……言ってくれれば、俺は頼み込んででも牢獄に入ったよ……」
「そんなのじゃ、社会的な制裁を受けた内に入らないじゃないですか」
今まで過ごしてきた、彼女との幸せな時間。それが全て策略だと知り、胸に重しを乗せられたように動けなくなる。
「そうか……そうだったのか……」
全ての思い出が、嘘で塗り固められたものだった。俺が幸せだと感じていた瞬間、アニアは苦痛しか感じていなかったのだ。
アニアの体をこの手に抱きすくめた罪悪感が、さらに心の錠前を重くする。しかし俺はある矛盾に気付いてアニアの瞳を見つめた。
そこには、限界まで溜まった涙がまた溢れ出さんとしている。
「ならあの日、どうして俺と最後までした? 適当に衣服を乱れさせて強姦されたと言えば、誰だって俺よりアニアの言葉の方を信じる」
そう、最後までする必要はなかった。
俺を貶めるなんて、簡単だったはずだ。わざわざ憎む男に体を明け渡したりする必要はなかった。
俺の疑問に対し、自嘲気味に口の端を上げながらアニアは言った。
「本当はそうするつもりでした。でも……」
「でも?」
その瞬間、大粒の涙が再び流れ落ちる。綺麗な顔は崩れ、アニアは子どものような泣き顔を俺に見せた。
「抱かれたかった……! あなたに……!! 好きになってしまっていたから……っ!!」
「……ええ??」
うわああ、と泣き崩れて膝をつくアニアに、俺は慌てながらも片膝をつき視線を同じにする。
復讐だと言ったその唇で、たった今、抱かれたかったと。好きになってしまっていたからと。どっちがアニアの本心なのか、頭がぐちゃぐちゃになって理解が追いつかない。
彼女はエグエグと滝のような涙を流しながら、俺を見上げて言った。
「好きになったフリをして……罠にはめようとしていたのに……っ! 本当に、サファーさんのことを……っ」
「アニア……」
「憎かった……でも、好きだった!! あなたを憎むために、ラバルさんを好きになろうとした……っ!! でも……」
憎しみと愛情。その相反する二つの感情が、アニアの中に渦巻いていたのだ。
どれだけの葛藤があったのか。どれだけ彼女を苦しませてしまったのか。
手を差し伸べたくて、抱きしめたくて……しかし俺は、なんとかその気持ちを押し込める。
アニアは一度言葉を切ると、自分を落ち付けようと何度も大きく息を吸い込んでいる。
「サファーさんは、どうして……」
「え?」
「どうして、否定しなかったんですか? 強姦なんかしていないって……合意の上だったんだって……!」
ヒックヒックとしゃくり上げながら、そんなことで俺を責めるアニア。俺は触れるきとは叶わないと思っていたアニアの頬の涙を、優しく拭う。
「もしも合意の上だったってラバルくんに知られたら、君が幸せになれないと思ったからだよ。アニアには幸せになって欲しかったから……」
「サファーさ……ごめ、なさい……っ! サファーさんはこんなにも私のことを想ってくれていたのに、私は……私は──」
「いいんだよ、アニア。君が幸せなら、俺はそれで充分だ。謝りに来てくれて……ありがとう。俺なんかを少しでも愛してくれて、ありがとう……」
「サファーさん……っ、う、うああああああ!! ごめんなさい、ごめんなさい──」
アニアは、自分の犯した罪の意識に苛まれていたんだろう。
許しを乞いたくなるその気持ちは、誰よりも俺が一番よくわかっていた。許さないなんて選択肢はない。アニアの気持ちは少しでも和らげばと、優しく彼女を包む。
「もういいんだよ、アニア。なにも気にしなくていい。君が少しでも俺の事を好いてくれていたと思うだけで、俺は生きていける」
「サファー、さ、ん……っ」
「君はラバルくんと結婚したんだろう? 早く帰らないとまずいんじゃないのか? 途中まで、送っていくよ」
アニアの左手の薬指には、銀色に光るシンプルな指輪。
彼女はもう人妻なのだ。これ以上の間違いを犯してはいけない。
アニアが少し落ち着くまで待つと、俺たちは共に家を出た。
それが、アニアと過ごした最後の二人っきりの時間となるのだった。
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