15.たとえ結ばれずとも。

 今日もまた、下弦の月だった。

 藍色に染められた空には星が輝いていて、澄んだ空気がピリリと冷たく感じる。


 俺とアニアは小さな路地をゆっくりと歩いていた。

 茶色のマフラーを首に巻いていると、アニアが嬉しそうに目を細めてくれる。


「まだ使ってくれているんですね。それ、もうボロボロなのに」

「これは、アニアが初めてくれたプレゼントだから……あ、嫌ならもう使わないよ」

「ううん、使ってくれたら……嬉しい」


 一歩、進むたびに別れが近づいてくる。

 名残惜しい……そう、彼女も感じてくれているのだろうか。

 歩みは次第にゆっくりと遅くなっていく。


「これで……終わり、なんですよね……」

「そうだな……もう、内緒で付き合おうとは言わないでくれよ」


 俺が少しおどけると、アニアは「言いませんよ」と眉を下げて笑った。


「じゃあ」


 アニアが住んでいるという新居の数十メートル手前まで来ると、俺は立ち止まった。

 彼女も俺を見上げ、コクリと頷く。


「サファーさん……」

「もうなにも言わなくていい。礼も謝罪も、全部俺の方が多く言わなきゃならないんだから」


 そう言うと、アニアは困ったような顔で微かに笑ってくれる。

 ああ、これが本当に最後なんだなと感じた。

 君はラバルの元に戻り、何事もなかったかのように暮らしてくれればいい。幸せになってくれればいい。

 それだけでもう、俺も幸せだから。


「さよなら、アニア」

「さようなら、サファーさ……っ」


 アニアの声はそこで途切れた。

 目の前にはアニアの驚愕の顔、そして俺の背中に走る鋭い痛み。


「……っな?」


 ゴブリと口から血が滴り落ちた。全面に広がる鉄の味、鉄の匂い。


「クククククッ」


 気味の悪い声が、すぐ後ろで聞こえた。

 なんとか首を回してその姿を目視する。


 黒ずくめ。そんな単語が浮かんだ。

 実際には黒いわけではなかった。でも、ヤツと、同じ表情をしていた。


 殺しに魅了され、狂った顔。


 それがそこにあった。


「いやああああ、サファーさん!!」

「に、逃げろ、アニア……っ」


 俺はとっさに殺人鬼に飛びかかった。

 ドスンとそいつごと倒れ、刺された背中がありえないくらいの痛みを発する。


「サファーさん、サファーさん!!」

「いいから逃げるんだ!!」

「あ、ああ……すぐに夫を呼んできます!」


 逡巡したアニアだったが、決断すると急いで自宅に向かって走っていく。

 それを見た殺人鬼が、彼女を追いかけようと立ち上がった。俺はその足に夢中でしがみ付く。

 行かせるもんか。

 この手を離したら、アニアは……彼女の母親のように殺されてしまう!!


 俺は顔面に蹴りを入れられようとも離さなかった。


 アニアが、アニアだけが俺の生きがいなんだ。

 たとえ結ばれずとも。

 彼女が生きてくれるだけでいい。

 絶対に、殺させはしない。


「……鬱陶しい」


 殺人鬼が冷たい目をしたかと思うと、もう一度短刀で背中を刺された。

 生温かい血が服に染み込み、そして地面を染めていく。

 それでも俺は絶対に手を離さなかった。痛みで気が狂いそうになりながらも、必死の思いでその足に食い下がる。

 そんな俺に、容赦なくもう一度短刀が背中を突き刺した。

 もう一度、もう一度。

 血の吹き出すブシュッという音が、だんだん小さくなってくる。


 もう、ダメだ……

 力が入らない。

 アニアは無事に家まで辿り着けただろうか。


 朦朧とする意識の中聞こえたのは……


「サファーさん!!」


 鈴の転がるような、美しい声。

 誰より愛しい人の、愛おしい声。


「……ア……」


 アニア、という言葉がもう出なかった。

 出てくるのはなぜか、涙ばかりで。


 最後の別れだって思っていたはずなのに。

 覚悟していたはずなのに。


 本当の最期の別れは、こんなにも、つらい。


「観念しろ!!」


 男らしくなったであろうラバルの声が響いた。

 俺の手から抜け出した殺人鬼は、おかしな断末魔を上げて倒れる音がした。

 きっとラバルがやっつけてくれたのだろう。


「サファーさん、サファーさん!!」


 アニアがそばに近寄ってくれた。俺の頬をそっと撫で、声をしゃくりあげている。

 君の手を、血で染めたくはないのに。


「いやぁ……サファーさん、死なないで……っ」


 そんなことを、言ってはダメだ。

 君にはラバルがいるんだから。すぐそこに、君の夫がいるんだから。

 俺と会っていたことは、上手く誤魔化すんだよ……。


「ごめんなさい、ごめんなさい……っ」


 謝ることなんてなにもないと言うのに、彼女の涙が顔に降り落ちてきた。


 泣かないでと伝えたい。

 だって俺は、満足しているんだ。

 君を殺人鬼から救うことができたと。逃げずに立ち向かえたんだと。

 俺は弱いから、すぐにやられてしまったが。


 それでもアニアを生かせたのなら、こんなに嬉しいことはない。


 あの時の贖罪は、できただろうか。

 これでマルクスも俺を許してくれるだろうか。


「サファーさん! サファーさん! いや……いやあああ!!」


 アニアの声が徐々に遠くに聞こえる。

 俺を呼ぶ声。

 その声で何度俺の名前を呼んでくれたことだろう。


 ラバルがそばにいる状態では、君に愛してると伝えることもできない。

 もう、声が出ることはない。


 もう泣かないで。

 俺の愛しい人、アニア……。


 ありがとう。


 ……ありがとう。




 アニアの俺を呼ぶ声を遠くに聞きながら、俺の意識は混沌に沈んでいった。

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