第87節 誇れる自分になる

審判しんぱんにばれなければズルやファールをしてもいい、というチームメイトがいます。

自分は審判しんぱんに気づかれていなくても、わざとそういうプレーをするのは好きではないです。でも、ずるがしこくなれというコーチもいて、混乱こんらんします。


こんにちは、柑那かんなです。


質問、ありがとう。チームメイトの中にそういう選手がいて、でも自分は正々せいせい堂々どうどうやりたいって思って、そのギャップに苦悩くのうしているんだね。


まず、あなたがどうしたいのかってことが大事。あなたは正々堂々のプレーを望んでいる、だとすれば、それをつらぬけばいいと思う。

誰かが、そういうプレーをしていて、あなたが「嫌だな」って感じたとしても、その人はその人自身の信念でそのプレーを選択していると思うのね。

あなたが他人のプレーを変えることはできないのと同じように、その人もあなたにそういうプレーを強要きょうようすることはできない。

だから、あなたは自分がこうしたい!と思うプレーをすればいいと思うんだ。


私はそういう時には誰か大切な人に自分のプレーを胸をって見せられるかって考える。

たとえ審判からは見えなくても、誰かが見ている。

誰も見ていなくても、相手にはわかる。

誰にもわからなくても、自分にはわかる。

だから、自分自身に対して胸を張れるようなプレーを選択したいと思う。


ただ知っておいてほしいのは、チームの中でそういう考え方が多数派になると、それが当たり前、やらない人の方がおかしいって考え方になっていくの。赤信号みんなで渡ればこわくない、みたいな感じね。「みんながやっていること=正しいこと」と思いこんでしまうという心理的現象で、社会的証明っていわれているの。

たとえば非常ひじょうベルがっていて、周りを見回したとき、他の人たちが落ち着いていて誰も逃げる様子がないと「なんだ、大したことないのかな」とか「訓練かな」という風に思ってしまい、避難ひなん行動をとらなくなってしまうの。自分の行動を他の人に合わせてしまうのね。「他の人が逃げていない=安全、大丈夫」というように判断してしまう。誰か一人でも「火事だ!逃げろ!」って言ってくれたら、みんな逃げるのにね。


だから、おかしいな?ってと思う人がいなくなることって、実はこわいことなのね。自分だけが正しいと思うことをつらぬくって勇気のいることだと思う。だけど、おかしいよって、「火事だよ」って言える人が1人いれば、チームとしておかしな方向へ行くことはないのかなって思います。


そして「ずるがしこい」という言葉なんだけど、なぜただの「かしこい」ではダメなのかなって柑那かんなはいつも感じてる。相手チームの弱点を突いていくとか、相手のキープレイヤーをふうじるであるとか、そういうのって「かしこさ」だと思うのね。

あらゆる状況を考えて、自分たちに有利になるようにプレーする、それって当たり前のことだと思うし。それが戦略せんりゃくだと思うし。それを「かしこさ」っていうんじゃないのかなぁ。そこに「ズル」は必要ないよねって、思うんだけど、みんなはどうかな?

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