第9話、お礼

 俺が住むマンションの一室、そのリビングのソファーに彼女は座っていた。


 興味深そうに部屋の中を見回しては楽しげに口元を緩ませて、まるで子供のように目を輝かせているソフィア。


 俺は彼女のそんな姿を横目にキッチンに立ちながら、緊張で震える手を押えながらコーヒーの用意をしていた。


 隣室に住んでいたという驚愕の事実を明らかにした後、ソフィアはこうして今俺の家に上がり込んでいる。


 ちなみに俺は高校生になってからずっと一人暮らしなので、ソフィアを家に上げるにあたって特に問題はないのだが……そんな事よりもやばいのは俺の部屋にソフィアがいるという事実だ。


 ただでさえ彼女は超絶美少女で眩いくらいの輝きを放っている女の子なのに、俺が今まで画面越しに応援し続けていた海外トップのVtuberアリスでもある。


 そんな憧れの存在がこうして俺の家に訪れている光景に激しく感動していた。


 俺が彼女に憧れ続けた日々は決して無駄ではなかったのだと確信しつつ、その相手が今まさに俺の家にいる事に興奮が収まらない。


(いやいや待て待て。アリスちゃんはアリスちゃん、ソフィーはソフィーだ。同じ人物だけど違う存在なんだ、そうだ落ち着け、落ち着くんだ……)


 というか、そう思っていないともう嬉しさやら驚きやら色々な感情がごちゃまぜになって頭がパンクしてしまいそうだった。


 深呼吸しながら湯気の立つコーヒーをマグカップに注ぎ、俺の分は無糖のブラックでソフィアの分は砂糖とミルクがたっぷりのカフェオレだ。それをトレイに乗せた後、俺はソフィーが待つリビングへと歩いていった。


『ほら、ソフィー。飲み物持ってきたぞ』


 冷静を装いながらソフィアの前にマグカップを差し出すと、彼女は柔らかな笑みを浮かべて両手で包み込むように受け取った。


『ありがと、気が利くわね。レン』

『ど、どういたしまして』


 いつも通りの落ち着いた声音なのに、どうしてかそれがとても甘く聞こえる。


 そんな風に感じる自分が恥ずかしくて思わず目を逸らす一方で、ソフィアは俺の顔を真っ直ぐに見つめながらくすりと微笑んだ。


 それから彼女はゆっくりと息を吹きかけて冷ましつつ、俺が渡したマグカップに口をつける。そして美味しそうにこくりと喉を鳴らした後、ほっとした様子で小さく吐息を漏らした。


 彼女の仕草一つ一つから目が離せない。

 本当に可愛らしい女の子だと思う。しかもアリスの中の人なのだから、その魅力が俺には数百倍増しにも感じられるくらいだった。


『ミルクたっぷりに砂糖甘め、わたしの好み覚えてくれてたのね。とても美味しいわ』

『昨日は喫茶店で一緒にコーヒー飲んだからな。気に入ってくれたなら良かったよ』


 そう言ってから俺は彼女の隣に腰掛ける。少しだけ気恥しさを覚えながらソフィアに視線を合わせた。


『そ、その、隣の部屋に住んでたって事はさ。今朝の配信も……もしかして?』

『日本に来てからはそうよ。あなたが推してるアリスは、この壁一枚を挟んだ向こうで配信したっていう事ね』

『うわぁ……まじかよ、まじなのかよ……。もう驚き過ぎて心臓が保たないかもしれない。ほんとやばい、死ぬ』


 俺はバクバクと鼓動を続ける心臓を押さえながら大きく深呼吸を繰り返す。するとソフィアはそんな俺の様子を見てから可笑しそうに笑い出した。


『ほんとレンって良い反応するわよね、見ているだけで面白いわ』

『まさか……こうやって家に上がったのは、初めから俺をからかう為に……っ?』


『そんなわけないでしょ? レンのお家に来たのはね、わたしを助けてくれた恩人のレンにお礼がしたかったらよ』

『お礼って、でも……俺は迷子のソフィーを家まで送っただけだぞ。大したことは何もしてない』


『ふふっ、レンってば変なところで謙虚よね。わたしは本当に恩を感じてるんだから。昨日は迷子になっていたわたしに手を差し伸べてくれて、今日はクラスメイトに囲まれて困っていたら助けてくれた。夕方に変な男子から強引に迫られた時もそう……。レンって凄く優しくて、頼れる人で、あなたみたいな人に出会えて本当に良かったなってそう思うの』


『……っ、やっぱ夕方のあれ気付いてたか』

『ふふ、当然ね。わたしだってそんな鈍感じゃないのよ。わたしを何度も助けてくれるレン、本当に……すっごくカッコいいんだから』


 そう言いながら頬を赤く染めていくソフィア。彼女は上目遣い気味に俺を見上げてくる。


 そんな姿にドキッとしてしまうのと同時に、彼女からの感謝の言葉が嬉しくて胸が熱くなった。


(俺の方こそ……ソフィーと話せて嬉しいんだよな)


 憧れていた相手との会話は勿論の事、こうして隣に座っていられる事が嬉しかった。それだけでも俺にとっては十分なお礼になっているけど、この様子を見る限りだとソフィアはきっと満足していない。


『ねえレン。ちょっと目を閉じてくれないかしら?』

『目を閉じるのはいいけど、一体何を?』


『さっき言ったお礼をしたいの。ずっとアリスを応援し続けてきてくれたあなただから、きっと喜んでくれるかなって。だから、その……目を閉じて?』


 アリスを応援していた俺だから喜ぶ事……? その言葉の意味が分からずに首を傾げる。だけどソフィアがお礼をしてくれると言っているのだから、ここは素直に従っておくべきだろう。


『そのまま目を開けちゃダメだから……少し待っててね』


 目を閉じて視界が暗闇に包まれる。それからコホンっと咳払いの音が聞こえた後、ソフィアの存在を耳元で強く感じた。


 甘い吐息が耳に掛かる。ふわりと香る彼女の匂いにドキドキとしていると、優しくて柔らかくて透き通るような囁きが耳元で響き渡る。


『レンくんっ。わたしの事を助けてくれてありがとうございました♡今日はレンくんにお礼をさせてください……♡』


 その声音は間違いなくアリスだった。


 彼女が配信している時と同じ声色で、アリスになったソフィアが俺に向けて語りかけてきたのだ。


 瞼に映る暗闇の向こうで確かにアリスの姿が輝きを放っていて、そんな彼女が今こうやって俺の耳元で甘く囁いてくれる。


『びくっとしちゃってレンくんは可愛いです♡ 今までずっとわたしを応援し続けてくれてありがとう♡ わたしもレンくんのことがだーいすきだよ♡これからもレンくんの為に配信いーっぱい頑張ります♡』


 いつも聴いているアリスの囁きASMR、イヤホン越しで聴いていたそれが今直接耳に響いている事実に心が震えた。


 アリスの声を生で聴けて、名前を呼ばれている、甘く囁かれる度に柔らかな吐息が耳に触れて、そして同時に彼女の体温を強く感じる。


 頭の中が溶けてしまう様な感覚に身体が震えた。こんな幸せがあって良いのかと思う程に胸が高鳴った。


 そして彼女の存在をもっと感じたくなってゆっくりと目を開いてしまう。


 すぐそこには頬を真っ赤に染めたソフィアの顔があって、その碧い瞳は潤んでいて、どこか熱っぽい。そして柔らかそうな桜色の唇が少しだけ開いて、そこから甘くて柔らかな吐息が漏れ出ている。


 視線が交わるとソフィアは恥ずかしそうに顔を逸らしてしまう。


『レ、レン、だめっ……恥ずかしいから、目を開けちゃダメだって言ったじゃない……。もう……ばかぁ……』

『ご、ごめん、ソフィー。でもこれ、秘密を守る交換条件にしてたスペシャルASMR、だよな?』


『これは違うわ……交換条件にしてるものとは別だから、心配しなくていいの。その時はもっと良いことしてあげるから……今は本当に助けてくれたレンへのお礼なの』

『もっと良いことって……もしかして、あの添い寝シチュにあった事、本当にしてくれたり……?』


『う、うん、全部してあげる。だから、楽しみにしててね?』

『ぜ、全部ってまじか……た、楽しみにしてるな。ありがとう、ソフィー』


『ありがとうはこっちのセリフよ……でもこれ、やってて凄く恥ずかしいわね……汗かいてきちゃった』

『確かに顔も真っ赤だし、凄く照れてるみたいだもんな。でも本当に嬉しかったよ、それにすっごく可愛くてさ、最高だった』

『うう、言わないで……余計に恥ずかしくなるから……』


 そう言ってソフィアは熱を帯びる頬を隠すように手を当てて、そんな彼女の仕草もたまらなく可愛かった。


 もしかしたら俺以上にソフィアの方が緊張して照れているのかもしれない。だってマイクに向けてではなく、異性の耳元でアリスになって囁くなんて、彼女にとって初めての体験で、それには勇気だって必要だったはずだから。


(これ……最高のお礼だ)


 目を閉じればアリスの存在を強く感じて、目を開けばソフィアがすぐ傍に居てくれて、彼女の温もりを心と体で感じられる。


 この幸せな瞬間が永遠に続けば良いのにと思った。けれど時計の針は無情にも進んでいく。


 ソフィアはそっと俺から身体を離して立ち上がる。さっきまでの恥ずかしそうな表情はなく、凛とした美しい佇まいで彼女は言った。


『そろそろ時間ね、今日は編入初日で色々と疲れちゃったしお部屋に戻ってゆっくりするわ』

『そうだな。朝から配信も頑張ってたし、ゆっくり休んだ方が良いと思う』


『ありがと。明日の朝の配信も頑張るわね。良かったらレン、また見に来て。わたし頑張るから』

『もちろんだ。絶対に見に行くから、応援させて貰うよ』


 ソフィアは微笑みを浮かべて頷く。それから手を振って俺の家を後にした。


 扉が閉まると俺はソファーに深く腰掛けて天井を見上げる。そして瞼を閉じて先程の幸福感に浸りながら、意識はゆっくりと微睡の中に落ちていった。

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