第6話

「元は同じ水だ」


 そうかこんな場所だ、蛇口の水は沢から引いているのだろう、なら酒蔵も同じ水を引いていると言う意味か。自慢げな老婆の顔を見て智之は言った。


「だからお婆さんも若いんですね」


 智之は嘘が下手だ、こんな事を言おうものならいつもは顔の半分が引き攣る。だが今日は酔いのせいか口先がとびきり緩慢だ。


「ほあーはっは!」


 老婆は大きく口を開けて笑った、上の前歯が見当たらない。老婆が訊いた。


「いくつだと思うかね?」


 智之は慌てて由奈に目配せをしたが、自分で何とかしろと目で返された。


「ろ、六十八歳?」


 そんなわけはない、どう割り引いても八十歳はいっているはずだ。


「ほおっほっほ、オメェさん上手だねえ」


 よかった、怒られなかった。飯を食った、風呂に入った、女を抱いて酒も飲んだ。後は寝るだけになってから追い出されてはかなわない。


「ここは好きですか?」


 特に考えたわけではない、ただふと口をついて出た。


「ああん? 嫁に来てからずっと住んでんだよ」


 そのまま好きで住んでいるのか、今更仕方がないという意味なのか。智之が余計なことを訊いたかなと思っていると、老婆は続けた。


「息子も娘もここで育てた、どこに行きやがったかぁ、わかんねえけどよお。オレがここにいねぇと帰ってこれねぇんだ」


 目の前に二人がいるのに誰に言うわけもないような口ぶりだった、どこに行ったか分からないとはどういう事だろうか。子供を気遣う言葉とは裏腹に老婆の表情は苦虫を噛み潰したように険しかった、智之は家族写真を探して周りを見まわした、そこで妙な事に気が付いた。


 仏壇が見当たらない――。


 年寄りの家にしては珍しい。もう一回り部屋を見まわすと、智之はもっと奇妙なことに気が付いた、賞状や写真が一枚も見当たらないのだ、こういう古い造りの座敷には大抵あるものだし、なくても旅行の土産ぐらいは飾ってあるのが普通だろう。観光地の名前が書かれた提灯とか、ペナントとか……。

 だがそうしたものがこの部屋には一つも見当たらない、よく見ればカレンダーすら貼っていない、煤けた壁にはまるで新築のように何もなかった。智之の胸に得体のしれない重くて苦いものがこみあげる。


「ひゃああああ!」


 奥から叫び声がした。いつの間にか老婆がいなくなっていた。


「どうしました?」


 智之が声がしたほうに走ると、老婆が風呂場の前に立っていた。


「湯がねえ!」


 浴槽の半分ほどしかお湯が無い。


「すいません、二人で入ったから……」


 智之が申し訳なさそうに言うと、老婆は言った。


「気にするこたあねえ、足して沸かせばいいだけだ。灯油だかんな、マキを燃してた頃にくらべりゃあ天国だ」


 だったら脅かさないでくれよ、酔いが覚めちまった……。

 由奈が裂き烏賊を買った事を思い出して、皿にあけた。老婆にも勧めたが、老婆は烏賊を指でつまんで回し、烏賊と智之の顔を交互に眺めながら手を付けない。


「柔らかいやつだから大丈夫だと思いますよ」


 そう言って智之が奥歯で齧って見せると、老婆はやっと口に入れた。


「さっきの野菜、おいしかったです。手作りですか?」


 由奈が訊いた。


「そうだよ、そこで作った小松菜だよ」


 老婆が自慢げな顔で言いながら庭の方を指さした、由奈が言う。


「あれが小松菜なんですか? スーパーで売ってるのよりずっとシャキシャキして美味しかったです」


 老婆が嬉しそうに答える。


「まあな、肥料も自前だからな」

「「……」」

「糞じゃねえよ、堆肥だ」

「いえいえ、そんな事は……」


 智之が慌てたように言った、隣で由奈も安心したような顔をしている、同じ事を考えていたらしい。


「んだが、狐がいる」

「え?」

「畑を荒らしやがるんだ」

「狐ですか、猪でも狸でもなく?」

「ああ狐だ、悪い狐だ、オレのやる事をなんでも邪魔しやがる!」


 狐は確かに雑食だ、だが肉のほうがどちらかと言えば好みなはずだ。それが人家の目の前にある畑を荒らすというのか、そんな綱渡りをするぐらいなら、周りにいくらでもいるだろう鼠でも狩れば良さそうなものなのに。


「あの糞狐!」


 老婆の濁って淀んだ目の奥に、一瞬だが強く揺れる篝火のようなものが見えた気がした。さっきまではなかった青黒い血管がこめかみに浮いて、ぼさぼさの白髪は根元が逆立っている気がする。だがそれはこの部屋の暗さと、古い家の雰囲気にのまれているせいだと智之は思った。


 映画劇場はいつの間にかエンディングを迎えていた。縁が太い眼鏡をかけた解説者が、今日も「サヨナラ」を三度繰り返した。そういえば何の映画をやっていたのだろう、ずいぶん古い映画のようだったが。


「そろそろ、寝かしてもらいます」


 智之と由奈は洗面所を借りて口をゆすいだ。ステンレスの流しは光沢が無く、いくら磨いてもこのまま変わらないような気がした。奥の間の襖を開けると、真ん中に布団が一つひいてあった。


「一つでいいだろ?」


 老婆がしらじらしく言う。

 この部屋にも仏壇はなかった、写真もない。薄暗いのも同じだったが、空気がやたらと乾いているのが不思議だ。


「頭んとこんでも置いとけ、途中で飲みゃあいい」


 後ろに老婆が立っていた、音がしないから驚いた。老婆は水が入ったコップを置いて部屋を出て行った。


「途中だって、お婆さん、あたしたちがまたするって思ってるのかしら?」

「違うのかな?」


 そう返す智之を、由奈は心底呆れたような目で見返した。

 智之は酷く疲れていた、酒も入っているから眠い、寒くも暑くもなく湿気もない過ごしやすい夜なのに、智之たちは二人ともうまく寝付けなかった。智之が由奈の上に乗って由奈の浴衣の前を開けた。


「運動で疲れれば、眠れると思う」


 由奈が腰の紐を解くのを待たずに、智之は踊り始めた。


 ポン、ポン、ポン……


 最近やっと分かってきた、二人のリズム。


 ポン、ポン、ポン……


 仰向けの姿で潰されている由奈が、目をつぶって小刻みに息を吐く。


 ポン、ポン、ポン……


 何の音だ、何かを蹴っているのか? 智之が足元を見ても、つま先が畳みの目をなぞっているだけだった。動きを止めた、音はやまない。由奈が目を開けて不思議そうに智之の顔を見上げた。


「由奈、聞こえる?」

「え?」


 小さいが何か柔らかいものを叩くような音だった、リズムは軽快だが、僧侶が叩く木魚のように首の後ろに重たく響く音だった。これとよく似たものを智之は知っていた。


 心臓の音――。


 その音はやがて智之自身の心音と重なって、智之にはどちらが鳴っているのか分からなくなった。木魚のように一定のリズムなのに、智之の心は夏祭りの夜のように高ぶった。背中をムカデが這いまわるような悪寒が押し寄せる、全身から血の気が引く。何もおかしな事ではないのだ、むしろそのほうが自然だ、あんな高い崖から落ちてなぜ自分だけが生きている? シートベルトもせずに座席で寝ていたのに、車から投げ出されず潰される事もないなんて。


 智之は目の前にあった由奈の乳首に吸い付いた。夢だったのか? この体も、この感触も、これまでの惨めな人生も。一人の女を愛し続け、寝取られ、ふられたまま死んだ哀れな男に、誰かが最後にくれた夢なのか。

 赤ん坊のように乳首を吸った、柔らかい体に耳をくっつけたら、やっと少し落ち着けた、頬骨に伝わる由奈の鼓動は本物としか思えない。


 トク、トク、トク……。


 智之は由奈の頭を抱いて、その耳を自分の胸に当てさせた。由奈が言った。


「いい音」


 よかった、僕はまだ生きているらしい――。


 隣の部屋から聞こえる不思議な音、自分の心臓の音と寸分たがわず重なる音。あれが止まったとき、僕の心臓はどうなるのだろう。今度こそ最後の時が来るのだろうか。

 遠くて知らない世界に誘われている――そんな気がした。風呂上りの女の甘い香りが、智之をかろうじてこの世に繋ぎとめていた。智之は今朝部屋を出てからの事を思い浮かべた。


 由奈をバイクの後ろに乗せて、海沿いの道を南に走っていた。

 大きな発電所をいくつか過ぎて、地図と記憶を頼りに山道への曲がり角を探した。

 見覚えのある角には見覚えのないコンビニがあった。

 まだ昼前だったから海に寄った、長い海岸沿いの道を二人で風を切りながら走った、五年前、山に入る前に家族でそこを走ったように。


 見覚えのある浜にバイクを停めて、二人で歩いた。

「ケンタロー、ひも外してやるから! ちょっと待てって!」

 犬太郎は智之の手を振りほどいてリードを着けたまま走りだした。

 砂浜では二本足の智之よりも四本足の犬太郎のほうがずっと速かった。

 水際の手前で犬太郎が振り返った、すごく得意げな顔だった。


「どうだい? 本当はもっと速く走れるんだけど、君に合わせてあげてるんだ」


 丸い目がそう言っていた、弟のくせに生意気な。

 絶対につかまらない距離を保って先導する犬太郎を、智之はいい奴なんだか悪い奴なんだか分からないなと思いながら追いかけた。

 智之の姉が投げたフリスビーをキャッチして、犬太郎は砂の上を一目散に逃げる。


「犬はこういうとき、投げた人に持ってくるもんでしょう!」


 姉がそう言ってむくれた。


「自分のものだと思ってるのよ」


 母だ、父は少し離れた堤防に残って、一人でタバコをくゆらしている。

 ああ、これっきり山に入ってもずっと吸わせてもらえなかった。だから帰り道はあんなに苛々していたのか。


 長い海岸線の端まで走ると灯台があった。

 思い出すだけで胃の辺りに重苦しいものがこみ上げた。

 有名な歌手の歌碑がある駐車場は、あの日と変わらずおばさんたちでいっぱいだった。


「この先の崖から落ちたんだ」


 智之は由奈に言った、智之の家族は由奈にとっても顔見知りだった。智之の姉はスポーツも勉強もよくできて中学では目立つ存在だった、由奈はその頃、密に彼女に憧れていたそうだ。

 たしかこの自販機で母にコーラを買ってもらった。子供の頃、僕らきょうだいはコーラを禁止されていて、買ってもらうのは久しぶりだったから、すごく嬉しかった。


「たぶん一生通る事はないな」


 黙って手をとってくれた由奈に、智之は言った。

 財布を出してコーラを買う、誰の許可もいらないと思うと特に何も感じなかった。ただ缶のデザインが新しくなっていて、歳月の経過を強く感じた。


 コーラを飲み干すと、智之たちはすぐに引き返した。

 コンビニまで戻っておにぎりを買った。

 山に向かって走る途中で小さな店を見つけて、裂き烏賊とビールを買い足した。

 小学校の脇を抜けたところで、智之は神社を見つけた。

 鳥居の下には狐がいた。


 その狐、いや犬太郎が智之を見た。いたずら好きの犬太郎らしくない、黒いビー玉のような表情のない瞳だった。

 智之は枯れた井戸の底を覗き込むような、得体のしれない不安に襲われた。

 何かが違う、違っていた。犬太郎がここにいるわけがない、彼は死んだ、車から投げ出されて、だいぶ離れた岩の上に倒れていたそうだ。

 始めは誰にも気づかれなくて、意識を取り戻した智之が話したら叔父が見つけてくれた。

 海鳥や虫につつかれて、無残な姿だったはずだ、それでも叔父は「流されてなくてよかったよ」と言ってくれた。叔父は犬太郎を火葬してくれた、あの辺りでペットの火葬はまだあまりなく、骨壺は人間の子供用だった。それを見て初めて智之は「みんな死んだんだ」と思った。


 犬太郎は家族と一緒に一度は並べてもらえたけれど、同じ墓には入れてもらえなかった。叔父はいいと言ってくれたけれど、信心深い親戚が反対した。

 犬太郎はいま、智之の部屋の押し入れの中で眠っている。

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