第5話
「なんでやねん!」
突然響いた関西弁に智之と由奈が声がした方を見ると、テレビの中で見覚えのない二人組が漫才を披露していた。
「なんでやねん! どうもありがとうございましたあ」
丁度オチがついたらしい、だが老婆はピクリとも笑わなかった。いったい何のために見ているのだろう、老婆は苦虫をかみつぶしたような表情のまま黙って小さなブラウン管を見つめている。
温かいお茶にほだされて智之は眠気に襲われた、隣の由奈も半分寝ているような目をしている。
「飯、食ってきな」
「……はい」
遠慮をする気力はもうなかった、尻が畳に滲み込んだように重かった。
十分ほど経ったろうか、老婆が台所からお盆を持ってやってきた。油揚げと野菜の煮物、何かわからない野菜は歯ごたえがあって、今まで食べたどの野菜とも違っていた。メインは唐揚げだがたぶん冷凍だ、さっき奥で電子レンジの音がした。
「ここでお一人なんですか?」
智之が訊くと、老婆は「ああ……」とだけ答えて黙った。
しまった、強盗の下見か何かと警戒されたかと智之が後悔していると、二、三十秒ほど経ってから老婆は答えた。
「
疑われたわけじゃないようだ。重い空気を晴らそうというのか、由奈が口を開いた。
「お買い物とか、大変そうですね」
するとまた二、三十秒ほど経ってから老婆は答えた。
「そうでもねえ、販売が来るからな。大抵のもんはそれで済む」
「あ、移動販売ですか」
「気の利いた兄ちゃんがこんなところにも寄ってくれるんだ、刺身だって食えるから不便はねえよ」
「いい人ですね」
「ああ、いいやつだよ。村の
言葉に含みがあった、由奈は引き攣れた愛想笑いを浮かべた。智之は眠気に耐えられなくなってきた。テレビから聴き慣れた映画劇場のオープニング曲が流れた、もう九時だ、急いでホテルを探さなければいけない。いま出ないとバイクに乗るのが辛くなる。智之が胡坐を崩して言った。
「あの、そろそろ……」
「泊まってきな」
智之の言葉を遮るように老婆が言った。
「え?」
「もう遅いからな、泊まってきな」
一日中走っていたから体中の筋肉が強張って痛い、それに眠くて仕方がない。由奈がすがるような目で智之を見た、その目に智之は抗えない。
「向うに布団敷いてやるから、待ってな」
そう言いながら老婆は立ちあがった。
「僕も手伝いますよ」
「オメェさんは座ってな、家のこたあ、オレに任せろ」
老婆は片手を軽く上下に振りながら、隣の部屋に消えていった。
肩をゆすられて智之は目が覚めた、由奈もいつの間にか眠っていたらしい。
「風呂さ入れ」
老婆が言った、そこまでは甘えられないと思ったが、老婆は畳みかけるように続けた。
「遠慮なんかすんな、疲れてんだろ」
本当はこのまま寝てしまいたかった、だが他所の布団に汚れた体で入るのは気が引けた。
「じゃあ由奈から先に」
由奈に勧めると、彼女が答える前に甲高い声が座敷に響いた。
「ひゃぁっはっは、ねーちゃん”おぼこ”でもねーだろう、ほれ行きな行きな」
にやついた老婆は、そう言いながら顎を振る。
「気にすっこったねえ、好きにしろ、好きに」
皺と見分けがつかないほど細くなったこの目を見れば、都会の人はきっと優しい老人だと思うのかもしれない。だが田舎育ちの智之たちには助べえな老人の目だとすぐ分かる。智之は由奈の肩を叩いて立ち上がった。
古い家だからだろう、風呂場は三畳ほどもあって、壁も床も茶色い小さなタイルが張られていた。隅にある三角の浴槽の中だけ、途中からタイルが水色に変っている、きっと元の色は全部これだったのだろう。
「へぇ、普通の家にもこんなのがあるんだ」
裸の由奈が感心したように言った、智之が言った。
「タイル張りの浴槽なんて、銭湯でしか見た事ないな」
「行った事あるの? 銭湯」
「子供の頃ね。家の風呂を追い炊きできるように替えたことがあって、工事の間だけ行ってたんだ」
「私は一度も無いなあ」
「今時だからね。あの頃はまだ小さくて女湯に入れたからさ、これにもいろんなのがあるって初めて知ったんだよ、その時」
由奈の乳首を指先で弄り、智之が股だけ流して湯に入ろうとすると由奈に腕を掴まれた。
「ダメよ、他所のお風呂なんだから、ちゃんと洗ってから入らないと」
「たのむよ、疲れて死にそうなんだ」
「じゃあここに立って」
由奈は石鹸を手に取って自分の体に擦り付けた、十分に泡をたてると智之の背中に抱き着きついて泡に覆われた膨らみを押し付けた。脇から手を伸ばして智之の硬いものを握って洗う、まるで幾度も繰り返したような淀みが無い所作だ。
「これ得意?」
そう言いながら、智之は後悔した。
「はい、こっち向いて」
由奈は返事の代わりにまるで子供の相手をするように言って、智之の体に着いた泡を上から順に流していった。膝まずいてそれを丁寧に流し、口に入れる。智之は言った。
「いいのかな、他所の風呂でこんな事して」
一旦口を離して由奈は言った。
「『好きにしろ』って言われたでしょう?」
この期に及んでなにを言っているんだとでも言いたげな目だった、老婆の策略に乗ったみたいで癪だったが、智之は由奈を立たせてつながった。脱衣所を仕切る曇りガラスに人影が映っていたが、どうでも良かった。
一度目を放って二人が我に返ると、ガラスの向うで大きな音がしていた、いつの間にか洗濯機が回っていたのだ。さすがは人間だ、これが野生動物なら二人まとめて敵に食われているだろう。
牙も爪も貧弱で知性しか取り柄の無い生き物なのに、快楽の前にはその一番大切なものさえあっけなく捨ててしまう。そんなロクでもない生き物が一つの星を支配している事が、智之には不思議でならなかった。由奈の体に無数の汗の雫が浮いている、智之は窓ガラスを開けた。
「いや!」
由奈が驚いて体を隠そうとした、智之は由奈の耳元で言った。
「嘘つきだな、嫌じゃないだろう」
人が出入り出来るような大きな窓から、夜の涼しい風が入り込む。汗がチリチリと音を立てながら蒸発しはじめると、無数の小さな刺激が、まるで蟻の大群のように全身を這いまわる。
智之のそれは早々に力を取り戻した、由奈の頬が、乳房が、小茄子のような尻が、桜色に色づいて見えた。智之が風呂場の灯りを消した、由奈が身をよじらせて尻を突き出した、智之が答えると、由奈は振り返って言った。
「あなただって嘘つき、全然疲れてないじゃない」
「だめかい?」
智之がゆっくり抜こうとすると、由奈は同じだけ尻を突き出した。智之は由奈の手を取って窓の外の手すりを掴ませた。
「見えちゃうよお!」由奈が泣き出しそうな声で言う。
「どうせ動物しかいない」
智之が耳元で囁くと、由奈はあきらめたように声をあげはじめた。暗い森の中に女の擦り切れそうな細い声が響いた。智之は楽しくて仕方がなかった、由奈の両膝を抱え、股を開かせてわざと窓の外に向けた。両手で顔を隠した由奈が智之の動きに合わせてまた「やっ、やっ、やっ」と言う、だが下の口はその言葉を饒舌に否定していた。
夢だった、こうしてこの体を弄ぶことが。
ずっとこうして君を抱きたかったんだ。
でも君は僕の事なんて忘れていたんだろう?
そして他の男たちに、この体を許した。
智之の脳裏にあの居酒屋の店員の顔が浮かんだ、酷く忙しい時ですら酔客の与太話を嫌な顔一つせず聴ける男。まだ若く歳も近いのに、時には出すぎないアドバイスさえくれる非の打ち所がない好青年。あの男が何かをするたびに由奈の表情は緩んだ、たぶんあいつとも寝たことがあるんだろう、本当はあの日、アイツに慰めてもらいにあの店に行ったんじゃないのか? そこにたまたま僕が現れた、長い間自分の体を舐めるように視姦し続けていた男、体に馴染んだ愛撫を上書きするなら、これ以上ない男だ。お前は目新しく激しい愛撫を期待して、あの晩寝る相手を僕に乗り換えた。そうじゃないのか?
気づかないはずがないだろう、ずっと君を好きだった、この僕が――。
由奈が上気した顔で振り返る、唇を突き出すが智之はわざとじらせた。
どうだ世界中の男ども、良く見ろ! 世界で一番由奈を愛しているのはお前らの誰でもない、この僕だ。昔も今も変わらない、この僕だ!
楽しくて仕方がなかった、仕方がなくて両目から涙がこぼれた。
しゃくりあげるような呼吸をしていた由奈が大きく息をついて動かなくなった。動きを止めた智之が顔を上げると、窓の外に気になるものが見えた。五メートルほど先の森の中に幹の太い古木が一本あった、根元に鮮やかな朱色に塗られた腰の高さほどの鳥居があって、下には茶色い動物が一匹座っていた。すべてが群青色に落ちこんだ世界の中で、なぜかそこにだけ色がある。
犬太郎?
大きくて丸い目、だが細身の体は狐にも見える。
「あれ、見える?」
由奈に訊いたが答えはなかった、口の端から涎を垂らして、目は酔ったように宙をさまよっている。
奇妙な姿で一つになっている二人を、狐はまっすぐに見つめていた。黒いガラス玉のような目を見ていると、智之は吸い寄せられるような錯覚に陥った、すぐに周囲を覆うタイルが消えた。
目の前に同じ格好でつながる男女がいた、髪が長くて白くて華奢な体つきの女を、色黒の大男が後ろから抱えている。
「ダメ! ダメ! もう!」
女は押し殺した声で言いながら狂ったように何度も首を横に振った、振り返った顔は上気していたが、これまでに見たことのない絶世の美女だった。女が叫ぶように口を開けると男が抜いた、すると女の股から良く振ったビールの栓を抜いたように聖水がほとばしった。
由奈を見ると同じように口を開けていた。智之は放ち、抜いた。あの男を真似て由奈の膝を強く引き付けると、由奈の股からも勢いよく聖水が噴き出した。
鈴虫だろうか、森の中で小さな虫が鳴いていた。古い二層式の洗濯機はいつの間にか止まっていて、蓋の上に浴衣が二枚畳んで置いてあった。
「それ着なっ、ちいせぃだろうがな!」
向うで老婆が声を張り上げた。浴衣は確かに小さくて、由奈のものは前がなんとか重なる程度で胸が半分はだけている。智之のものは丈がひざまでしかなかった、初めは子供用かと思ったが、もしかしたら亡くなった老人のものかもしれない。
ドライヤーが見当たらなくてタオルで髪を拭いた。座敷に戻ると、ちゃぶ台にビールの缶が三本置いてあった。遠慮する気などとっくに失せていて、二人とも350ミリリットルの缶を一気に飲み干した。
「あんたら強いねぇ、若いからかねぇ」
老婆が言った、由奈の耳が赤くなる。老婆はそれを見て満足そうに言った。
「酒の事だよお!」
甲高い笑い声が続く、緩んだ目元が憎らしい。由奈はゆでだこみたいに顔中を真っ赤に染めた。
「あんたら、どこから来たんだ?」
「宮城です」
「なんでまたこんなとこまで来たんだ?」
「え、あの、林道ツーリングって言って、砂利道をバイクで走りに来たんですよ」
嘘ではない、だがここを選んだ理由は言わなかった。
「あーあのモルモット、モット……モットクロースとか言うもんか?」
「えっと、あれとは違って、景色を見ながらゆっくり走ったり、河原にテントを張って酒を飲んで寝るとか……」
智之が説明したが、老婆は、それのどこが面白いんだ? とでも言いたそうな顔をしている。無理もない、ここに住んでいたら砂利道を目当てに遠くから人がやって来る事が不思議でならないだろう、似たような反応を智之はこれまで何度も経験していた。
「まあ僕はキャンプがメインですよ、キャンプ旅です」
砂利道をバイクで走る事の面白さを、やったことがない人に言葉で伝えるのは難しい。仕方ないから最後はこう言うことにしていた。老婆は言った。
「んでゃあオレ、悪い事したかね」
「いえ、テントを張る場所がなくて困ってたんで本当に助かりました。風呂にまで入らせてもらって。生き返りました」
「そうか、あの風呂がそんなに気持ち良かったか。そうかいそうかい」
にやけた顔のまま老婆は台所に向かうと、すぐに片手に一升瓶を持って帰って来た。反対の手は皺だらけの指でワンカップの空を起用に三つ詰まんでいた。智之たちには何も訊かずに老婆は酒を注いだ、もちろん受けとる。
「んまいっ」
信じられないほど美味い酒だった、初めての味、初めての香り。白い和紙のラベルには崩した筆文字で「美嬢苑」と書かれている。びじょうえん? みじょうえん? どう読むのかは知らないが、どちらにしろまったく聞いた事がなかった。
老婆も飲んだ、最初は少しづつ舐めるように、途中から一気に飲み干した。飲みっぷりがいい、この歳で相当いけるくちらしい。
「そうか美味いか、これもその水を使ってんだ」
そう言いながら老婆は水道の蛇口を指さした。
「水道ですか!」
智之が驚くのを見ると、老婆は首を振りながら言った。
「ん-ん-、沢だ」
智之と由奈の困惑した顔を見ながら、老婆はまるで待っていたかのように、こう続けた。
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