第4話

 路面を横切る黄色い帯は粘土質がむき出しになったものだ、酷く滑りやすくあの時と同じようにタイヤは何度も空転した。由奈が強くしがみついたのを合図に智之はアクセルを開けた、今日はあの時のワンボックスカーじゃない、こんな道にこそ強いオフロードバイクだ。

 ここを越えてもどうせすぐそのあたりで行き止まりになるだろう、あの時ここが通れていたとしても、家族の運命は変わらなかった――。

 たぶんそうなる事を期待していたのだと思う、だが道は智之の期待と違ってその先も何事も無かったように続いていた。落胆は一瞬だけだった、すぐに別の感情が湧いてきた。怒りだ。


 ヘルメットの中で大きな石が動くような音がしていた、気が付くと自分の歯ぎしりだった。あの時も、もう少し頑張れば先にいけたのかもしれない――ジャンプ台があれば飛びたい、繰り返し飛んで、この怒りを振り切ってしまいたい。だがただの林道にそこまでの段差は見当たらない。

 道の脇を流れていた川が、徐々に下に降りて見えなくなった。崖になった路肩に、白くて長いガードレールが絡んでいる。智之にはそれが獲物を探す蛇のように見えた。いつの間にか目がレールの切れ目を探していた、智之は腹に巻き付いた由奈の手を外して、自分の股のものを握らせた。


「したいの?」

「違う、落ち着くんだ」


 こうされると生きている気がする。人生のすべてを投げ出してしまいたい、向こうの世界に行ってしまいたい……そんな弱気を愛する女の温かい手が忘れさせてくれる。


 親父、母さん、姉ちゃん、健太郎。ゴメン、まだそっちには行けないんだ。僕はまだ、由奈を抱き足りない――。


 道幅が狭くなった、標高がせいぜい数百メートルしかない山なのに、谷は底が見えないほど深かった。

 砂埃をあげながら進み続けるとガードレールが無くなった、カーブでバイクを傾けるたびに無数の砂利がはじけ飛び、一部は音をたてながら谷底に落ちていった。由奈の手に緊張を感じて、智之はタイヤを少し山側に寄せた。

 

 一口に林道と言ってもいろいろな道がある、登山口や寺、銘水だとか途中に人がよく立ち寄る場所が多い道もあるが、ここには今のところさっきの朽ちた小屋しか見当たらない。これだけ長い道ではかなり珍しい。判然としない峠の辺りで智之はバイクを停めた、緑色の峰の間に青く光る海が少しだけ見えた。

 もう日が傾きかけている、だが風は驚くほど暖かい、沖の暖流を越えた風がここまで届いているようだ、高い山の林道と違って風景もどこかのどかに見える。


 道路地図ではこの道はとっくに途切れている、だが実際には道は続いていた、林道ではよくある事だ。この分ならこのままどこかに通り抜けられるかもしれない。

 二人は山の空気をたっぷりと吸って大きな背伸びをした、再びバイクを進めると、道は緩く下りはじめた。

 西の空が少しづつ紅みを帯びてきた、だが対向車には一度も出会わなかった。やはり通り抜けられないのだろうか、それなら早めにテントを張る場所を見つけなければいけない――智之は焦りを感じ始めていた。


 キャンプ地を見つけたらまず缶ビールを川に浸そう、テントを張って由奈を休ませている間に二人分のラーメンを作って、食べたら星を眺めながら冷えたビールを飲む、そして……。由奈は外でしたことがあるだろうか、なければ初めての思い出になる、その相手はもちろん僕だ――。


 左の森の中から道路脇に沢が合流した、穏やかな流れが麓の近さを思わせた。

 テントを張る場所を見つけられないまま、辺りが暗くなった。

 腰に回された由奈の手に力が入った、夜の林道は初めてだからだろう。

 怯えろ、もっと怯えろ。助けが欲しくなったところで、僕が思い切りお前を抱いてやる。


 下り坂は続いた、終わりが見えない。最初の砂防ダムの河原ならテントが張れただろう、戻ろうか。いやいまさら戻るぐらいなら、このまま走り抜けて普通の道で入口まで戻った方が速いのではないだろうか。

 実際はわからない、だがもうこれだけ走った、いまさら同じ道を戻りたくはなかった。智之は疲れていて由奈はキャンプにあまり慣れていない、ここを抜けたら、いっそホテルを探したほうがいいのかもしれない。


 傾斜が緩くなってほとんど平地になった頃、突然目の前に分岐が現れた。道が真っすぐと左に分かれている、どちらも似たような幅で路面に草はあまり見当たらない、それなりに走られているという事だ。だがそれはここまでも同じだ、なのに他の車には一台も会わなかった。

 智之はバイクを停めてハンドルを左右に振ってみた、ヘッドライトの範囲に標識のたぐいは見当たらない、バイクを降りて探しても同じだった。


「あれ?」


 後ろで由奈の声がした。 

 振り返るとバイクの傍で由奈が三十メートルほど離れた森の中を指さしていた。

 その方向に、小さな灯りが見える。


 エンジンを切ると、突然の静寂に驚いた樹々がざわめいた。森の中の灯りはそのまま光っている、反射の類ではない。

 目が慣れるのを待っていると、暗闇だった夜空に徐々に星が現れはじめた。視線を落とすと森の前に木の板で作られた柵が薄っすらと見えた、郵便受けらしい箱が斜めに傾いてぶら下がっている、暗すぎて色は判然としない。

 郵便受けの脇には、人ひとりが入れる程度の幅で柵の切れ目があった、その先の奥にあの灯りがある。少し待つと灯りの周りに一軒の平屋がぼんやりと見えてきた。


「こんなところに家?」


 由奈が驚いた様子で言う、こうした場所には慣れている智之も驚いた。作業小屋や廃屋なら分かる、だが使われている民家がこんな山奥にあるなんて。

 夜になって知らない人が来たら驚かれるかもしれない、だがもし間違った道に進んで行き止まりだったら、戻る気力はもう湧かない。光は真ん中の窓から漏れていた、ゆらゆらと瞬きながら時折色を変えている。


 テレビだ、人がいるんだ。


 暗くても煤けているのが分かる古い引き戸の前で、智之と由奈は顔を見合わせた。木の格子にはめ込まれたガラスには笹のような模様があって、一目見るだけでも分かる薄さが触る事を二人に躊躇させた。

 二人で呼び鈴を探したが、どこを見ても見当たらない。仕方なく智之が戸を叩いた。


 バンバン、


 精一杯気を使ったつもりだったのに、ガラスは思いのほか大きな音をたてた。しばらく待っても反応が無いので、智之は覚悟をしてもう一度、さっきより少しだけ強く戸を叩いた。


 バンバン、


「夜分にすいません! 道を教えていただきたいんですが!」


 バンバン、


「すいません!」


 ガラスの向うで人の動く気配があった、斑に見える何かがガラスの向うから近づいてきて、パチンという硬い音と共に薄暗い灯りが点いた、戸がガラガラと騒々しい音をたてた。


 玄関に現れたのは背の低い老婆だった、甚兵衛だろうか、和風の服は紺色とも茶色とも分からない不思議な色合いで、櫛を入れた様子が無い白髪頭は、まるで初冬の枯れきった野原のようだった。

 皺だらけの顔が俯いている、なのに眼だけは別の生き物のように智之たちの顔を見つめている。


「夜分に申し訳ありません、バイクで来たんですが道がわからなくなってしまって。そのどちらに行けば町に出られるでしょうか?」


 智之は分岐の方を指さしながら、なるだけ申し訳なさそうな声色を作って訊いた。

老婆は二人の顔を交互に見てから、「んんっ、んんう」と、少し苦しそうな咳払いをして言った。


「あっちだ」


 老婆が指さしたのは左の道だった。


「有難うございます、夜分にすいませんでした」


 二人がお辞儀をしてバイクに戻ろうとすると、老婆が言った。


「お二人さん、オートバイかえ?」

「え、あ、はい」

「旅行かえ?」

「あ、はい。いったん麓に降りて別の場所にテントを張ろうかと」


 智之はそう言いながら、今来た方角を適当に指さした。


「遠いよ」


 どこの事だろう。


「通りには出れっけどな、そっからが遠おぉいんだ」


 これから行く道の事らしい、地元の人に真顔で言われると智之も少し躊躇する。由奈は隣で心底うんざりしたような顔をしている、キャンプは無理そうだ。ホテルを探すしかないが、この先にあるだろうか?


「休んできな」


 老婆が言った、目が山なりに細くなり頬のあたりが吊り上がる。たぶん笑顔だと思うが、薄暗い灯りの下では不気味としか言いようがない。


「お茶でも飲んでいきゃあいい、遠いからなぁ」


 そう言って老婆は返事も聞かずに奥に戻ろうとした。


「え? あっ、いえ、その……」


 確かに喉はカラカラに渇いていた、でもそれだけなら断ったかもしれない、智之は由奈の様子を気にしていた。

 手招きされて二人は玄関に入った、由奈は少し安心したようだった。靴を脱いでいるといつの間にか近くに戻っていた老婆が二人の袖をつまんだ。


 思いのほか強い力に引っ張られて智之たちは座敷にあがった、十畳ほどの部屋は真ん中に茶色いちゃぶ台が一つ、壁際には一目で古いとわかる黒っぽい箪笥と、小さくて古いテレビが置かれていた。

 部屋がやけに薄暗いと思ったら、天井から吊るされた蛍光灯は二本挿せるものが一本外されていた。

 一歩踏み出すごとに足の下の畳がいちいち「ぎゅう」と鳴った、まさかそんな事はないと思うが、床が抜けないように気を付けて座った。


 老婆がお盆にお茶を三つ載せて戻って来た、智之と由奈は置かれたそれを貪るように飲んだ。温かさが丁度いい、見た目や家の雰囲気と違って、意外と気が利く人なのかもしれない。

 渋みの効いたお茶が疲れた体によく滲みた、皿には一つまみの塩が添えられていたが、智之はお茶に入れずに直接舐めた。

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