第3話
綺麗なブルーのキュラソーは、長いあいだ智之の中でくすぶってきた由奈のイメージとはかけ離れていた。智之の由奈はオレンジ色だ、明るい太陽の色、あの頃由奈が着ていたユニフォームの色だ。使い古されて薄くなった生地は体の凹凸によく馴染み、褪せた色が肌によく似ていて、あの頃の智之は目を細めるだけで由奈の裸を想像できた。
校庭を走る裸の由奈を智之は必死に追った、抱きしめた由奈の体は川魚のように智之の腕をすり抜けた、何度繰り返しても変わらなかった。
由奈が走る先にはいつも誰かが待っていた、長い間顔が無かった誰かは、あの日から兵頭に変わった。由奈は兵頭の胸に飛び込んでいった、兵頭は智之が避けた女の窪みに躊躇なく指を突き立てた、由奈の手にはさっきまで無かったバトンが握られている――。
そこでいつも目が覚めた、智之は布団に頭まで包まって声を殺して泣いた、涙が出なくなると、硬くなったバトンを両手で強く握りしめた。
「一杯奢るよ」
返事を待たずに、智之はあの店員にスクリュードライバーを注文した。由奈の目元がまた緩んだ。
「ずっと気になってたの、あの時返事しないでごめん」
そう由奈が言った。中学時代に告白した時の事だ、気にしていてくれたとわかっただけで智之は嬉しかった。
「あの時、好きな人がいたの」
兵頭だ。
「僕に諦めさせたかったの?」
「え? うん、それは……その」
「違うよ、高二の陸上大会」
「え、何か……あったっけ?」
憶えていないのか? あんな事をしておいて。
腹が立った、体のどこかから頭にやり場のない怒りがこみ上げて、智之はこう言った。
「先にいっとくけど、そんな深刻な話じゃないんだ」
少し間を置いた、その方が効果的だと思った。
「実はあの晩、死のうとしたんだ」
どこが深刻じゃないんだ。案の定、由奈は凍り付いたような表情をしている。
「酒を煽って小此木橋から飛び降りようとしたんだ、でも公園まで行ったところで気持ちが悪くなって、ゲーゲー吐いて動けなくなっちゃって。今考えると馬鹿みたいけど、おかげで今生きてるんだから酒に弱いのも悪くないかな」
そこまで言って、智之は大したことではないと言うように笑ってみせた。
由奈はグラスを見つめながらしばらく黙っていた、由奈はグラスの縁からしたたり落ちた水滴を指先でなぞってから、こうつぶやいた。
「ごめん……」
やっぱりな。
私はあなたのものにはならない、この人のものだから――。
あの時、由奈はそう言いたかったのだ。由奈は智之が見ている事に気が付いていた、だからわざと兵頭を誘った。兵頭が自分にする事を智之に見せつけて、智之に自分を諦めさせようとした。そうでなければ、いま由奈が謝る理由はない。
そんなに僕がうっとおしかったのか、あんな事をしてまで諦めさせたかったのか――。
いつも由奈を思い出す時に感じていた、胸を締め付けられるような悲しさはもうなかった、沸き上がる怒りが赤黒い炎に変わった。
愛する女が他の男に抱かれる姿を想いながら、智之は数えきれない苦しい夜を過ごした。それが図られたものだったなんて、他ならぬ愛する女、その人によって。
そういう事なら遠慮はしない――。
「辛かった、僕にはもう他に誰もいなかったから」
智之がそう言っても由奈はグラスから目をそらさなかった、凪の海を眺めるような穏やかな目で、グラスの一点を見つけている。
この女にとってあれは遠く過ぎ去った思い出なのだ、いまさら脅かされる事もない凍り付いた世界。視界の中からとっくに消え去って、残っているのは融けて崩れたカケラだけ、そのカケラをいま由奈はいくつか拾い集めて懐かしんでいる、いずれ蒸発して消え去る記憶のカケラ、僕はその一つにすぎない。
ふざけるな、ふざけるなよ――。
氷が崩れた、今度は普通の音だった。
呪詛は解けた。
「この後、予定あるかな?」
気取られないように笑顔を作りながら智之は訊いた、由奈はグラスから目を逸らす事なく答えた。
「ううん、特に」
遠慮する由奈を押し切って彼女の分も金を払い、二人で店を出た。妙に安いなと思ってレシートを見ると、「Tワリ」という名目で一割ほど値引きがされていた。智之が「二十歳になった」と言ったので、あの店員が気を利かせたのかもしれない。ありがたいが、そんな余裕の心遣いが智之には恨めしい。
店を出ると由奈は足元が怪しかった。小刻みに白い息を吐いている、由奈は智之の腕に体重を預けてきた。居酒屋脇の狭い路地に入っても由奈は嫌がらずについてきた、この町で暮らす大人なら、ここがどんな通りかは誰でも知っている。十メートルほど先にある紫のネオンがピンク色に変った、部屋が空いた合図だった。それを知っているのかどうか、コート越しでもわかる柔らかい丸みが智之の肘に押し付けられた、智之は言った。
「休んで行こうか」
由奈は黙って顔を伏せた。
シャワーを浴びる由奈を智之は後ろから抱きしめた。短距離ランナーの尻は思った以上によく張っていて、男の袋が谷間にすっぽりと挟まれた。不意の温かさを智之は知っている限りの公式を思い出して堪えた。
胸を触りたい、キスをしたい、だが今したらそれだけで果ててしまいそうだ――。
目線を外したまま由奈の体をバスタオルで包んだ、そのまま抱えてベッドに寝かせると、息継ぎもなく女の脚の間に割って入った。
愛して愛し続けて、夢にまで見た女の唇を吸える――そう思ったとき、由奈の目が自分を見ていない事に気が付いた、視線の先にあるのは智之の硬直したものだった。
値踏みをしている――智之はそう感じた。隠そうとして腰を伏せると、突然気が遠くなった。
全身が痙攣している、口の端から涎が垂れた、でも拭き取る事は思いつかなかった。何もしたつもりはなかった、ただ隠そうとしただけなのだ、それなのに濡れそぼった洞窟が智之を勝手に誘い込んだ。想像していた儀式も感触もなく、それはただ執拗に絡みついて、絡めとられた。
薄れた視界が戻ってきた、目の前で由奈が大きく口を開けている。何か言いたいようだが声は聞こえない、まるで餌を欲しがる雛鳥か鯉のようだ。相手かまわず投げ込んでくれるのを待つ口に、智之は自分の舌をねじ込んで唾液を流し込んだ。
食いたいなら食え、お前が欲しがっていた餌だ――。
順序も何もない、抱きしめ、吸い、潜る。智之にはそのすべてが初めてだった。
幸い智之のそれは萎えなかった、終わったことを悟られないようにそのまま動かした。どうしていいのか分からないからがむしゃらに動くと、由奈のタオルがずれた。こぼれた乳房を見た瞬間に、またしばらく意識が遠のいた。それでも智之は萎えなかった。
由奈が左右に激しく首を振った、下唇を噛んで、体に巻き付いたタオルを自分で剥ぎ取ると右手で部屋の壁に投げつけた。左右一杯に開かれた由奈の脚が強い力で智之の腰に巻き付いた、鍛え抜かれた太腿に太い筋が浮く、智之は短いうめき声をあげて、また意識を失った。
項垂れたペニスから三回分が詰まったコンドームを引き抜いた、空のゴミ箱に投げると、ごみ箱の底から「ポンッ」と太鼓のような音が鳴った。
隣で由奈が吹き出した、涙を流して笑っている。不規則に揺れる胸が霞がかかったようにぼんやりとして見えた、良く見ると由奈の体から湯気があがっていた。シーツに汗を吸わせながら由奈は言った。
「智之がこんなに凄いなんて、思わなかった」
「ずっと好きだったからね」
「それは知ってる」
「それにまあ、スケベだし」
「それも、よっく知ってる」
「いつから?」
「中学かな、いつも窓から見てたじゃん」
「気付いてたのか」
「女の子なら分かるよ、どこを見てるかも」
「あんな遠くからでも?」
「どんなに遠くてもね」
「もしあの頃僕がこんなだって知ってたら、僕を選んでくれたかな?」
「まさか、まだ子供だったじゃない」
君は違ったんじゃないのか?
喉まで出かかったが、なんとか押しとどめた。
「結構汗かいたね」
智之は自分の事を言ったつもりだった、だが由奈は笑いながらこう答えた。
「やっぱり? いつもこうなのよ」
いつも……か。
由奈がシャワーを浴びに行った、智之は冷蔵庫からサービスのビールを取り出して飲んだ。湯を弾く体がマジックミラーの向うに見える、左右の乳首の大きさは変わらないようだ、ベッドに戻った由奈に智之は訊いた。
「飲む?」
「ううん、もうやめとく」
「いや、こっち」
シーツを上げて見せた、由奈は驚いた顔で智之の目を見返した後、袋を口に含んだ。しばらく転がしてから、舌先をゆっくりと這わせて竿に移る。たぶん上手だ。
終わった後、由奈は智之の肩に頭を乗せて言った。口が少し青臭い。
「私ね、本当はふられたばかりなの」
「聞こえてた」
「そう、そうだよね。あの娘、声大きいから……今日はあの娘たちが誘ってくれたの、慰めるつもりだったんだと思う」
「相手は兵……」
智之が訊こうとすると、由奈が手で止めて言った。
「大学の部の先輩」
智之が訊く、
「その人って左利き?」
「そうだけど、なんで?」
「ううん、別に」
兵頭は右手で由奈を弄んだ、次の男が左利きなら乳首は左右とも満遍なく弄ばれている。
智之は右手で由奈の尻を掴んだ、あの頃よりもたぶん一回り大きくなっている。短距離ランナーの体は硬い筋肉ばかりだと思っていたのに、こんなに柔らかいなんて。
僕だけが知らなかった、ずっと君を好きだった僕だけが――。
中学の頃の由奈は、男子が猥談を始めるときつい目で睨むような女だった。
それが今は二時間前に再会したばかりの男を受け入れている。
変わった、すべてが変わってしまった。由奈はもうあの頃の由奈じゃない、でも僕だって変わった、女の傷心を利用してその体を貪る程度には。変わったのはお互い様だ。
「どうしてだい?」
どうして抱かせてくれたんだい? と言ったつもりだ。
由奈は答えた。
「ずっと私の事好きでいてくれたから」
「ご褒美?」
「ううん、そんなうぬぼれてない、あなたならいいと思ったの」
そこに当たり前にあったものが去って、後には空虚な洞窟が残された。誰でもいいから代わりにナカを埋めてほしい、天井も何もかもが崩れて消えてしまう前に。
そう言わないでくれる由奈は、たぶんあの頃よりも優しい。
由奈は子猫のあごでも触るように智之のペニスをいじった、智之は映画でみたプレイボーイのように、さも大したことではないような口ぶりで言った。
「欲しい?」
由奈が意外そうな顔をして答える。
「もう出来るの?」
智之はもう一度由奈の上に乗った、だが今度はなかなか達しない。
意地になって激しくすればするほど、由奈は泣きそうな顔でよがった。目をつぶって智之の顔など見ていない。
誰の事を考えてるんだ? いまお前に入っているのは誰だ?
どうしてだ、怒りが高まるほどペニスが硬くなる。
女の考えなど分からない、分かるものか、なのにどうしてこんなに好きなのだろう、自分を奈落に突き落とした女を、僕はどうしてこんなに愛しているんだろう――。
智之は由奈の体を隅々まで嘗め回した、じらすだけじらして懇願させてから、思いの丈を薄い皮の中に放った。
自分からは連絡しない、智之はそう決めていた。長い間ずっと智之だけが欲しがっていた、同じ苦しみを由奈にも味合わせたいと思った。
少しでいい、好きな相手とヤれない苦しみに悶えてみろ。その相手が僕だったら最高だ、もし他の男でもいいのならその時はその時だ、僕はやっと君から開放される――。
次の金曜日の夕方に由奈から電話があった、今夜会えないかと言う。駅前で待ち合わせて部屋に誘った。部屋の戸を閉めるなり、由奈は脱いだコートを廊下に放り投げると、そのまま靴も脱がずに尻を突き出してきた、智之はまるで事前に示し合わせたかのように由奈のスカートをめくった。
「ねえ、これ」
智之がそう言って手を止めた。
「分かった?」
由奈はスカートの下にオレンジ色のショーツを穿いていた。振り返った由奈が無邪気な笑顔を見せて言う。
「これがいいんでしょう?」
校舎の窓から目で追っていた、目を細めると消える「魔法のショーツ」
「少し小さくない?」
智之が言うと、由奈は眉をへの字に曲げて言った。
「なによ、私のお尻が大きくなったって言うの?」
「あ、いや……」
「まあね、本当にあの頃のだもん。大学のは色が違うし、きっとこれかなと思って」
「ああ、これだよ、あの頃の君だ」
あの頃、触れる事が許されなかったそれを、智之は丁寧に撫でまわす。
「あのね、日曜が今年最後の試合なの」
由奈が言った、智之が訊く。
「明日はいられるの?」
「大丈夫、体を休ませなきゃ」
「休めないよ」
言いながら智之は由奈のショーツを引き降ろした。
「あの、ね、あの……」
激しいリズムに由奈が口ごもる、智之が顔を覗き込むと、恐る恐ると言った体で由奈は言った。
「あの、ね、試合の前にこういう事すると、か、勝てるって……」
聞いたことがある、海外の女子選手は大事な試合の前にコーチとセックスをするのだと。高校生男子だったから、いろいろ馬鹿馬鹿しい噂話をした、ある日同級生が言った、「あいつもやってるんだぜ」と。他校に彼氏がいると噂のあったバレー部の女子の事だった。本当か嘘かは分からなかったが、智之は急いでその場を離れた。もしこんな風に由奈と兵頭が噂になったら、自分はどうにかなってしまう。そう思うと智之はいたたまれなかった。
由奈もあの噂を信じているのか、それとも……もう試したのか。
「智之となら、勝てる気がするの」
由奈は悪びれる様子もなくそう言った。そうか、利用するつもりなのか。だがいい、気に入ってもらえたのなら答えてやる、カマキリの雄のように、君に喜んで喰われてやる、その体に飽きるまではな。
日曜の朝、会場の前で分かれて智之は客席に座った。グラウンドでは大勢の男がウォーミングアップをしている、筋肉が浮き出た黒光りする脚、どれも劣らぬ鋼のような体を見ながら、この中の誰かが由奈を抱いたのだと智之は気が付いた。由奈はいったいどんな顔をして別れた男と会うのだろう。
由奈は二百メートル走で決勝に進出した、決勝前に競技場の外で待ち合わせた。競技場の隣にある公園に、由奈は黒のベンチコートを着て現れた。智之が「おめでとう」と言うと、由奈は「ありがとう」とだけ答えて、智之の手を引いて速足で歩き始めた。智之は訊いた。
「今朝の効果あった?」
「たぶん」
由奈は背丈ほどの木で囲まれた場所で止まった。競技場の部屋が足りない時に、あぶれた下級生がこっそりと着替える場所だと言う。
由奈がベンチコートのジッパーを降ろして智之に抱き着いた、紺色のショーツの尻に智之は指を入れた、智之はあの日兵頭がやっていた事を忠実に真似た、右手を深く滑り込ませると尻を越えたあたりで指先にそれが触れた、あの日、兵頭が何をやっていたのか、すぐに理解できた。
あの日見た通りに進めると由奈も同じように動いた。二、三分で由奈の体はあの日と同じようにのけ反った、そしてやはり男の手に自分の手を添えた。
やめてほしいのかと思った智之が手を引こうとすると、由奈は首を左右に振りながら、驚くほど強い力で智之を奥に案内した。誘われるまま、智之は濡れた洞窟に指を入れた、由奈が智之の胸に顔をうずめた、智之は好きなように指を動かした。
チキショウ、こういう事だったのか! こういう事だったのか!
由奈のジャージを脱がせて、ショーツをひき剥がし、抱きつかせた。
あの日、本当は兵頭とこうしたかったんじゃないのか?
智之は声を殺して果てた、少し遅れて呼び出しのアナウンスが聞こえた。
その日、由奈は二着に入った。合わせて自己ベストさえ更新した。
それから二人は、週末をどちらかの部屋で過ごすようになった。
朝日に照らされた小茄子を見ていたら、また欲望が沸き上がった。勝手に侵入して絡みつく温もりを楽しんでいると、智之の脳裏に運命を変えたあの砂利道の様子が浮かんだ。
あの先はどうなっていたのだろう、もし車があの先に進めていたら、僕の、家族の、そしてもしかしたら由奈の運命は、どう変わっていたのだろう――。
土日を続けて休めるのは一月ぶりだった、由奈が達するのを待って、智之は言った。
「少し遠いけど、出かけないか?」
智之はまだ青い余韻に浸る由奈を強引に起こして、バイクにまたがった。
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