第2話

 智之は車に乗るとすぐに眠くなる子供だった、その時も目をつぶってシートにもたれていた。

 両親の喧嘩が始まると智之はけして目を開けなかった。「お前はズルい」と後で姉に責められてもかまわなかった、親同士の不快な争いに巻き込まれるよりも、姉の小言を聞き流すほうがよほどマシだと思っていたのだ。

 その時も目をつぶるとすぐに睡魔に襲われた、だから憶えているのは断片的な音と、体から重力が抜けていく絶望的な感覚だけだ。


 気が付くと明るい光の中に黒い影が見えた。影には動く手と指があった、だが顔の下半分が欠けていた。

 宇宙人だ、宇宙人が僕を見下ろしている、そうかUFOにさらわれたのか――。

 智之は薄もやがかかった頭でそう思った、なぜか恐れは感じなかった、代わりに凄い発見をしたという高揚感があった。


 目が慣れてくると欠けているように見えたのは白いマスクだった、ぼんやりと見える顔は中年の男らしかった、人間だと分かって智之は酷く落胆した。


「かんごふさぁん、せんせい、せんせい!」


 中年の男の後ろで声がした、天井板まで揺らすような美声は間違いない、母の妹、叔母の声だ。叔母は都会の大学で声楽を学んだ、卒業しても山暮らしを嫌って親元には戻らず、姉がいる町の近くで音楽の教師になった。そこで網元の息子と出会って結婚した。


 じゃあこの人は……叔父さん?


 叔父は満面の笑みを浮かべていた、叔母は智之の手を両手で包むように握った。体がうまく動かなかった、自分の腕から透明なチューブが伸びている事に気づいて智之は驚いた。ベッドから何本かの電線が伸びて、仰々しい機械につながっている。


「智ちゃんはずっと眠っていたんだよ」


 叔母は記憶よりもずいぶん老け込んで見えた、落ちくぼんだ目に涙が浮かんでいた。

 慌ただしく現れた若い医者が、智之の目を覗き込んでいくつか質問をした。内容は当たり前な事ばかりで、子ども扱いされていると思って腹が立った事を覚えている。医者は質問を終えると叔父にまた来ると言って逃げるように病室を出て行った、智之は叔父夫婦に訊いた。


「みんなは?」


 夫婦はあからさまに目を逸らした。

 たしかさっきまで車で海沿いの道を走っていたはずだ、カーブのたびに車が左右に大きく揺れて、眼を閉じていた智之はスピードが気になった。後ろのトラックがどうのと親たちが喧嘩を始めた、姉が耐えきれずに泣きだした時、智之は体に強い衝撃を感じた。体から重力が抜けた、それは酷く気持ちが悪くて「あっ、あっ」と自分の口から意味のない声が出た。最後に誰かの……たぶん他の皆の絶望的な叫びが聞こえた……と思う。


 叔父は何度か智之の目を見直した、だが智之は目を逸らさなかった。

 いいんですよ、言ってください――。

 覚悟が出来ると頭が奇妙なほど冷静になって、智之は叔父を楽にしてやろうと考えた。夫婦は石のように黙り込んでいた、だがしばらくしてから叔父が意を決したように口を開いた。


「即死……だった」


 もしあの時ここから先に進めていれば、僕たちがあの時間にあの場所を通る事は無かったろう、そしたらあのいかれたトラックと出会う事もなかった。

 あの道が滑りやすかった事、乗っていた車が四輪駆動ではなかった事、両親がけして円満夫婦ではなかった事、ろくでなしの酒飲みがよりによってトラック運転手になって、たまたまあの時間にあの場所を走っていた事――いろんな偶然が重なって、智之は家族と内臓の一つを永遠に失った。


 退院すると智之はそのまま叔父夫婦に引き取られた。叔父の家は智之たちの家から電車で四十分ほど離れたやはり港町にあった、白い砂浜の前にある大きな家に智之は家族と一緒に何度も遊びに来ていて、叔父たちは智之たち家族と一番仲が良い親戚だった。

 叔父夫婦は智之を本当の子供のように扱った、裕福な家で育った従妹たちは心根が優しく、何かと智之を気遣ってくれた。両親が残してくれた保険金は未成年の智之に代わって叔父が受け取った。


 叔父の会社の取引先が不祥事を起こして倒産したのは、智之が高校三年の秋の事だった。叔父の会社も巻き込まれ、叔父は智之が受け取るはずだった保険金に手を付けた。

 分かった時期が遅すぎた、智之は進学をあきらめるしかなくなった。浪人するにも金が必要だった、智之は仕事を探したが、就職活動の時期が終わった田舎町に仕事らしい仕事は何も残っていなかった。

 叔父を憎まなかったといえば嘘になる、だが三年間本当の子供と分け隔てなく育ててくれた事に感謝もしていた。家には以前と違う人たちが出入りするようになった、夜逃げはしていないがいつしてもおかしくはないように思えた。


 あの保険金があれば会社は持ち直せる、そうすれば家族みんなでそれまで通り暮らしていける。叔父はきっとそう考えたのだ。義理の姉の子を引き取るやさしさと責任感を持った叔父なのだ、叔父なりに最善を尽くしてぎりぎりまで頑張ったに違いない、だが結果はこうなった。

 悪いのはあの事故だ、あの事故さえなければ智之はこんな事になっていないし、叔父だって葛藤の末に甥の金に手をつけなくても済んだのだ。


 叔父を責めた所で金は戻ってこない、責めれば智之に最後に残された縁さえ途絶えてしまう。

 何も無かった事にはできない、でも気にしていないふりならできるかもしれない。一度はそう考えたが、家の中に漂う気まずい空気が、それが無理であることを智之に悟らせた。


 三年生の登校日が終わると、智之は小遣いの残りを持って県庁所在地まで出かけた。そこでは船会社と建設会社がまだ人を募集していた。

 船乗りは難しいと思った、叔父たちと遊覧船に乗った時、一人だけ酷く酔ってしまった事を思い出した。

 幸い建設会社はどの会社も社員寮を持っていた。ある会社は自社が持っているアパートの空き部屋を社員に貸していた、一棟丸ごとの寮と違って、会社と縁のない普通の人たちの中で生活が出来る。

 きつい労働をする人たちの多くは刹那的だ、智之の父でさえ堅物と言われたほどに。遊び好きの男たちに受験勉強の邪魔をされたくない――そう思っていた智之にとって、その棲家の条件は魅力的だった。


 約束の時間にプレハブの建物を訪れると、年かさの事務員が出迎えてくれた。挨拶を済ませてソファに座ると、智之はまず部屋の事を訊いた。


「寮に入りたいんですが、周りに社員がいない部屋はまだありますか?」


 智之は事情を丁寧に話した、一年後入試に受かれば辞める事になる事も正直に言った。隠せば相手には分からない、だがそれは心苦しくてできなかった。

 事務員は奥の部屋に消えた、そんな奴を雇っていいのかと、上役にでも訊きに行ったのだろう。


 雇って貰えないかもしれない、なんで正直に言ったんだ、言うんじゃなかった――。


 落ち込む智之の元に事務員が戻って来た、智之の予想に反して事務員は「丁度いい部屋が空いている」と言った。

 部屋の事ばかり気にしていて、履歴書を机の上に置きっぱなしだった。智之が慌てて手渡すと事務員は読みもせずに採用を告げて言った、「よろしく頼むよ」

 事務員だと思った男は社長だった、卒業式はまだだったが、智之はその場で無理を言って、三日後には寮に引っ越した。



 休みだというのに現場の習慣で朝早く目が覚める。

 由奈を起こさないように布団を抜け出して、一人部屋の狭いキッチンで二人分のコーヒーを沸かした。


 運動選手は皆こうなのだろうか、由奈は酷く寝相が悪かった。裸の体が古代オリンピアンの円盤投げの彫像のように捩れていた。

 付け根まで茶色く日焼けした太腿の上には陸上のユニフォームの形に白く抜けた二つの小茄子があった、焼けた腰の先がまた白く抜けていて、重力で歪んだ乳房が二つ並んで智之を睨んでいる。


 中学二年の時に、一度だけ告白をした。

 その時は冗談のようにはぐらかされて、付き合う事はなかった。

 それからちょうど一年後に智之はあの事故にあった。


 退院後の中学生活は短かかった、由奈とはほとんど言葉を交わす事なく卒業して、智之は叔父夫婦が暮らす町に引っ越した。

 その町の高校に入ってからも、智之はときどき電車で四十分かけて由奈の様子を見に行った。もちろん由奈が出る陸上の競技会も必ず見に行った。


 その習慣が途切れたのは高校二年の夏だった、いつものように競技会を見に行くと、一人で競技場を抜け出す由奈をみかけた。気になってつけてみると競技場の脇にあるトイレの裏で、同じ色のユニフォームを着た男が待っていた。男の顔に智之は見覚えがあった、中学の陸上部でも由奈と一緒だった兵頭とかいう先輩だった。


 兵頭は由奈の体を抱きしめた。男の節くれだった太い指が、由奈の薄いショーツの隙間に滑り込んだ。指は尻を撫でながら谷間深くに潜り込み、由奈は兵頭の胸に顔をうずめた。

 二、三分ほどして由奈の体が魚が跳ねるようにのけ反った、兵頭の手に自分の手を添えて、首を何度も横に振っている。 


 嫌がってるじゃないか、やめろ!


 智之が飛び出そうとしたとき、会場からアナウンスが聞こえた。

 兵頭は慌てた様子で手を引き抜いた、ショーツの裾が捲れて片方の茄子があらわになったまま、由奈は競技場に駆けていく。

 兵頭が由奈に向かって何か声をかけた、振り返った由奈は捲れたショーツの裾に指をかけ、一旦大きく引っ張ってから指を放した。ショーツのゴムがはち切れそうに膨らんだ小茄子を細かく揺らした。そのとき由奈の顔は……笑っていた。

 それが智之が高校生の由奈を見た最後だった。



「いらっしゃいませぇー!」


 7、8人はいる店員たちが一斉に声を張り上げた。いつもは会社の先輩たちと入る居酒屋に初めて一人で入った日の事だ。顔なじみの店員が寄って来て少し困ったような顔を見せた、ここの店員は作業員の顔と歳を覚えている、大勢で来られれば成り行きだが、一人で来られたら気にしないわけにはいかないらしい。


「このあいだ二十歳になったんですよ」


 智之はにこやかな顔を作ってそう言った。


「ああ、そりゃあ」


 店員はほっとした様子で、空いていたテーブル席に智之を案内した。


「おめでとうございます、これで大手を振って飲めますね」


 オーダーを聞いた店員が笑顔で言う、仕事が好きでなければできない素の笑顔だった、そんな顔を智之はまだ一度も出来た覚えが無かった。

 歳は智之より少し上だろうか、もしかしたら大学生のアルバイトかもしれない。店員だからと言って驕らない、卑屈でもないところが気に入られるらしく、常連の酒好きや若い女の客と友達のように付き合っている。

 そんな男を智之は心から羨ましく思った、どんな育ち方をするとこんな男になれるのだろう。


「ありがとうございます。これからは一人でも来ますから、よろしくお願いします」


 智之は精一杯の笑みを浮かべて言った、「きっと卑屈な笑いなんだろうな」と思いながら――。

 酒が来るのを待ちながら電球の傘に絡んだホコリを眺めていると、突然大声が聞こえた。


「あんな浮気男なんて忘れちゃえよぉ!」


 若い女の声だが酷く酔っているらしく呂律が怪しい、近くの席の客がカウンターを見ていた、声はその辺りから聞こえたようだった。カウンターには若い女が五人ほど座っていた、その中の一人が真ん中の女の肩をバンバンと強く叩いていた。叩かれている女の尻に、智之は見覚えがあった。


 元同級生が挨拶しないのも変だろう、最初の一杯を飲み干して動悸が落ち着いた頃、智之は見覚えのある尻の持ち主に声をかけた。


「ひさしぶり」

「えーうそ。智之?」


 近況報告や地元のたわいのない噂話をした、久しぶりに会った同級生にありがちなごく普通の会話だった。由奈は県庁所在地の大学に進学していた、大学でも陸上競技を続けていると言う。話題がなくなった頃合いで、他の女たちが席を立った。


「もしまだ時間があったら、あっちに行かない?」


 智之はそう言って自分がいたテーブルを指さした、さっきの店員を見ると、彼はもう智之のテーブルに由奈の分のコースターを置こうとしていた、由奈の表情が緩んだ。智之が由奈のグラスを持つと、由奈は黙ってついてきた。


 カクテルグラスの水滴を指先でいじりながら、由奈は言った。


「気を使ったつもりなのよ、あのたち」

「誤解させちゃったかな、話すネタが無くなっただけなんだけど」

「でも昔よりずっと上手く話せてるわよ」

「前、そんなにひどかった?」


 智之が言い終わる前に、由奈は大げさにのけぞりながら言った。


「あっははは、ぜんっぜん女の子と話せてなかったじゃない。私とだってちょっと話すぐらいで」

「ああ、それはまあ。確かに由奈さんがぎりぎりだったかな、それもあれっきり……」


 三杯目だというカクテルを由奈は大きな目で見つめた。シリシリと音をたてて溶けていく氷の中で、遠く過ぎ去った時間がぐるぐると回っていた。

 氷山のようだった氷が傾いて、やがて短い音とともに崩れた。氷が青いカクテルの海に吸い込まれていくとき、グラスのふちからハンドチャイムのような透き通った音が鳴った。


 他の誰のグラスも、きっとこんな音はしない――。

 そう智之は思った。

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