美嬢苑 ーびじょうえんー
岩と氷
第1話
膨らみかけた若い稲穂たちの間に、灰色に褪せた木の壁と似たような色の瓦屋根があった。田舎なら珍しくもないそんな建物を智之が店だと思ったのは、軒が不自然に張り出して、その下にベンチが一つ置かれていたからだった。
歴史を感じさせると思っていたベンチは、近づいて見ると白い塗料の断片がそこここに残って”汚らしい”と言う方が合っていた。そのすぐ前には行先も読めないほど錆びたバス停の標識が置かれていた。
後ろの由奈を先に降ろして智之はバイクを降りた。店のガラス越しに見える棚には魚の缶詰と安っぽい菓子パンが置かれていて、煤けた壁にはハイカラな婆さんが好みそうな派手な柄の服が吊り下げられていた。
一番近い民家は田んぼを何枚も越えた向うにある、爺さん婆さんが歩くには遠すぎるから、このバス停はきっと買い物のためのものだろう。こんな小さな店が昔はこの辺りの生活を支えていたのかもしれない。
木枠と薄いガラスで出来た引き戸を開けた、ガラガラと盛大な音が鳴ったが、しばらく待っても誰も出てこない。声を掛けようかと智之が暖簾の向うを覗き込むと、廊下の奥に気怠そうに床を擦る毛玉だらけの靴下が見えた。
暖簾をかき分けて出てきたのは六十絡みの男だった、二人と目が合っても眉一つ動かさない。体中から沸き上がる余所者を嫌う空気にあてられて、智之と由奈は眉をへの字に曲げた。
智之が裂き烏賊の袋を摘み上げると男は露骨に顔をしかめた、裏返して賞味期限を見たのがまずかったらしい。案の定ぎりぎりだったそれを持って智之が冷蔵ケースを空けると鼻を突く匂いがした、カビだろう。少しも冷えていないケースから
男は釣銭を投げるような手つきでよこした、少し待ってもレシートを出す気配はなかった。男の白目は周囲が黄色く、蛇のように浮いた血管が「早く帰れ」と言っているように見えた。隣で由奈が何かを言おうとしたが智之はその肩に手を置いて止めた。
「止めなくていいのに、あれは無いわよ」ヘルメットを被りながら由奈が言う。
「さっきのコンビニで買わなかったから後悔してたんだ、あんな店でも無いよりは良かったよ」智之はなだめるように言った。
「ああもう、本当許せない」
呪いのような言葉をいくつか呟きながら、由奈はバイクの後ろにまたがった。筋肉質の腕が智之の腹に巻き付いた。肘がカマキリの鎌のように強張っている、智之が止めなかったらこれであの男を小突いていたのかもしれない。
由奈は地元で知られた商家の娘だった、厳しく躾けられたらしく、客扱いが悪い店には誰の店だろうと一言言わないと気が済まない。駄菓子屋のおばちゃんに説教をしていた小学生時代の由奈を思い出す。
大人になったんだな、あの由奈が止めれば止まるようになったんだ――。
智之はヘルメットの中でクスクスと笑った。
ヘルメットの額に開いた穴から風が入り込む、髪の間に炭酸水を被ったような清涼感が広がった。少しぐらい嫌な思いをしたって走り出せば風と一緒に後ろの穴から出て行ってしまう。バイクとツーリングが智之は好きだ。
背中で由奈の柔らかいふくらみが潰れた、長い間恋焦がれた女が自分を後ろから抱いている。どこにでもある田んぼの中の一本道が、智之には桃源郷の街路のように思える。
たまに通り過ぎる人家がやけに幸せそうに見えた、こんな場所に生まれていたら、僕の人生は違っていたんじゃないか――どうしてもそう思わずにいられない。
正面に白い建物が見えた、細長い木の板を何枚も打ち付けた大正時代のような造りをしていた。とがった屋根の下に丸い時計が見える、小学校か何かだろう。
建物を挟んで道は二手に分かれた、智之が
鮮やかな朱色に塗られた鳥居の下に、痩せた狐が一匹座っていた。狐は智之と目が合うと針のように吊り上がっていた目を見開いた。開かれた目は意外なほど丸く、まるで穏やかに育てられた飼い犬のようだった。狐は智之の姿を追うように頸をしゃくりあげた。
――どうだい、僕のほうが賢いだろう――
犬太郎もよくこんな素振りをした、そんなに賢いなら自分だけで生きられるだろうと思うと「馬鹿だなあ、僕が君たちの
犬太郎が瞬きをした、再び開かれた目は狐のように細かった。
バイクが神社の前に差し掛かった時、狐はまっすぐに智之の顔を見た。
狐の赤い口が、耳まで裂けた。
智之は急ブレーキをかけて振り返った、鳥居の下には何もいない。
「どうしたの?」肩越しに由奈が訊いた。
「ごめん、見間違いだったらしい」
明るい緑色の葉がバイクの周りを包んだ、田んぼを抜けて山に入ると、辺り一帯に湿った匂いが漂った。梅雨時のアスファルトが吐き出すような、鼻の奥を刺す匂いとも違う、木の葉や土が醸し出す匂い。あの時と同じだ。
五年前、智之は中学生だった。車には智之と両親、姉と犬太郎が乗っていた。
はじめはいつも通り海岸沿いをあてもなく走るドライブだった、なのに両親はどうしてあの日だけこんな山道に入ったのだろう。
智之の父親は何かの金属を扱う工場に勤めていた、仕事が終わるとパチンコ屋に寄って、初めに決めた分だけ負けて帰って来た。他の時間は家でタバコを吹かしながらウィスキーを舐めている、それだけの男だった。それでもあの田舎では十分堅物で通用していた。
父親には年に何日か家からいなくなる日があった、その時だけはいつもの作業着をジャケットに替えて、普段は持たない大きなバッグを持っていた。送り出す母親はいつも不機嫌で、智之たちきょうだいはその日が何か特別な日なのだと信じて、父親が出ていくまで息を殺して大人しくしていた。
それが会社の慰安旅行だと知ったのは智之が小学校二年生の時だった、父親が何度目かのそれから帰って来た次の休日、遅めに起きだして来た夫に向かって母親がたまりにたまった不満を口にしたのだ。
「あんたっ、たまにはあたしたちもどこかに連れて行きなさいよ!」
父親は思ってもみなかったという顔をすると、「そうか、じゃあいくか」と言って車の鍵を握った。
それから母親は二、三か月に一度、癇癪を起すようになった。母親が怒り出すと父親が車の鍵を握る、それを合図に智之がお湯が入ったポットを台所から車まで運び、姉は犬太郎を車に乗せた。母親はおにぎりと沢庵をラップに包みながら行ったことのない場所を考えた、だが結局はいつも行先が決まる前に車を出した。
智之の両親は山国の生まれだった、二人とも高校生の頃には山に囲まれた生活にうんざりしていて、卒業すると同時に海沿いの町に出た。港近くの飲み屋でたまたま隣の席になった二人は、互いの似た境遇を知り縁を深めた。
毎日嫌と言うほど魚が食える町に暮らしても、二人は猫よりも綺麗にそれを食べた。智之と姉も真似をしたが、いくら頑張っても箸で削ぎ取れない小さな肉が骨に残った。
親たちはそんな自分たちの
それでもその時はふだん食べ慣れた沢庵がやたらと美味しく感じた事を、智之は覚えている。
バイクのエンジンが唸りをあげた、上りが急になり、少し先で道が突然消えた。アスファルトが途切れた先は広い河原だった、つい今しがたまで右の崖下にあった川が、まるで手品のように目の前にある。
五年前、まだ子供だった智之もここで得体のしれない異郷に迷い込んだような不思議な気分を味わった。
だが今なら分かる、これは砂防ダムだ。さっきまでの川はダムの下で、目の前の川は砂に埋まったダムの上だ。小さなダムが川床を一瞬で十何メートルも持ち上げた、ダムが木と岩に隠れて見えないから、初めて来た者は酷く不安か不思議な気持ちになるのだ。
振り返ると、赤いヘルメットの中で由奈が目を丸くしていた。教えてやろうかと思ったが智之はやめた、その気持ちを記憶に深く刻んでほしかった、自分と同じ思い出を少しでも多く。
河原を注意深く眺めると、左端から細い砂利道が伸びていた。知っているから智之は探したが、あの時ここが初めてだったはずの両親がよくこれに気づいたものだ。やはり根は山の人間だ、山ではどんな場所に道を作るのかを、二人はよく分かっていたのだ。
バイクは砂利敷の林道を進んだ、隣の川が狭くなり始めた頃、智之はふいに思い出した、この先に小屋があったはずだ。
しばらく走ると確かに小屋はあった、だが何だこれは? 壁は無い、屋根もところどころ崩れて穴まで開いている。まるで数十年も前に朽ちたような有様だったが、五年前は確かにまだ小屋だった。小屋の脇には白い軽トラックがとまっていた、車体のところどころが赤く錆びて、タイヤも空気が抜けて潰れている。あの時あったかは憶えていない。
小屋を過ぎてしばらく走ったあたりで、道を黄色い帯が横切っていた。帯の手前でバイクをとめると後ろの由奈が言った。
「何これ?」
山側から雨水が道を渡り、砂利を流したのだ。路面がえぐれて下の黄色い土が見えている。
「ここだよ」
そうだ、あの時ここでタイヤが滑って登れなくなって、車は引き返したのだ。智之たちの車は四輪駆動でも何でもない普通のワンボックスカーだった。
その帰り、海岸沿いを通る細い一本道で、智之たち家族が乗った車は
母親が「さっきのあそこなら停められたのに!」と言いだして、いつもの喧嘩が始まった。
母親は車の免許を持っていなかった、脇からいちいち口を出される事が運転手をどれだけ苛立たせるかを、まったく分かっていない人だった。
口論は続き、父親は運転を誤った。智之たちを乗せた車は、ブレーキのタイミングを逸したまま、暗い岸壁際の急カーブに突っ込んでいった。
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