第7話

 ポン、ポン、ポン……


 音はまだ続いている。智之と由奈はそっと布団を出て襖に近づいた。眠れないほどの音ではないのに、どうしても気になる。襖を少しだけ開ける。


 老婆はこちらに背を向けて座っていた、こうべを垂れた老婆の前には、黒くて太い柱があった。他は安普請なのに、それだけは江戸時代からの古民家にあるような立派な柱だ。


 老婆の体がゆっくりと前後に揺れている。左手に柄の入った小さな毬のようなものを持ち、それを拳一つ分ぐらい上から畳に落としては、拾う事を繰り返している。


 低く呻くような声も聞こえる。お経のようでもあるが、智之が知るものとはリズムがどこか違っている。呪文か何かだろうか、内容の分からない音の羅列が、老婆の腹の底から胸腔を通って首の後ろに抜けていく。


 確かにここまでも何度か不気味に感じた事はあった。でもこの古い家に智之はどこか懐かしさのようなものも感じていた。それがいますべて吹き飛んだ。

 音をさせないように襖を閉めて、布団に戻る。


 考えてはいけない、考えてはいけない――。


 智之は頭の中でそう繰り返した。由奈の顔色が青い、きっと自分の顔も同じような色をしているのだろう。由奈の肩を引き寄せると彼女の体は小さく震えていた。たぶん自分も震えている。


 黒い柱には何本もの傷があった。

 子供を立たせて背の高さの傷をつけるあれだと思う。

 傷は一目では数えきれないほどたくさんあった、老婆は子供の成長を楽しみにしていた。

 なのにその子供たちは出て行ったきり帰って来ないと言う。どうして? 何で?

 老婆は柱に何を祈っているのか、子供の無事か、帰ってくることか、それとも他に……。


 もう一度する気にはなれなかった。たとえその気があっても智之のそれは用をなさなかっただろう。


 ポン、ポン、ポン……


 一時間が経っても音はやまなかった。


 とにかく寝るんだ、朝起きたらきっと何事もなかったと思うにきまっている。朝の陽射しの中で僕たちはお婆さんに礼を言ってここを立ち去る、今夜の事はツーリング中にあった少し変わった出来事として、他の古い記憶と一緒に頭のどこかに仕舞われる。ひょっとしたら二度と思い出す事はないかもしれない――。


 キュルキュル、キュルキュル、


 なんだろう? 聞き覚えがある音だ。


 キュルキュル、キュルキュル、

「ねえ、もう戻りましょうよ!」

「なぁに、このぐらい!」


 車がシーソーのように前後に揺れている、前には動いていない。

 僕は車に乗るとすぐに眠くなる子供だった、あの時も古い小屋を過ぎたあたりで我慢できなくなって、シートにもたれて目をつぶっていた。

 タイヤが滑って気持ちの悪い音をたてていた時、僕は眠気の向うとこっちの世界を行ったり来たりしていた。


「ンオウ」


 犬太郎だ、姉の膝に乗っている、そうでなければもっと鳴きわめいているだろう。きょうだいの中で彼が一番怖がりだったから。


 車がひときわ激しく、ロデオのように揺れた。


 キュルキュル、キュルキュル、ガガッ!。


 車の底からおかしな音がして、揺れは収まった。


「ほうら」


 勝ち誇ったような、父の声――。



 襖が開く音で我に返った。


「ないだい、寝れねぇんかい?」


 老婆がこっちを見ている。こめかみが熱い、心臓が高鳴って軽く吐き気もする。


「あ、いえちょっと……」

「そんなに暑いかね」


 言われて自分の頬を汗が伝っている事に気が付いた、眉の上に溜まった脂汗を拭う。


「いえ、なんとなく寝苦しくて……」


 声が震えないように注意しながら、それだけ絞り出した。

 由奈は布団の中で、たぶん寝たふりをしている。


「だから、水を飲めって言ったんだ」

「あ、いや……」

「さっき、起きてきただろ」


 え?


「オレの事、見てただろ」


 気づかれていた――。


「寝れねぇんなら、もうちょっと飲みゃあいい」


 老婆が手招きをする。智之は元の座敷に招かれて、糸が切れた操り人形のように同じ座布団へへたり込んだ。

 あの酒が出て来る、飲むしかない。酒の美味さと酔いに頼って、得体のしれない苦いものを飲み下したい。


 カラカラに乾いた粘膜にアルコールが棘のように突き刺さった、味は同じなのにのどが焼けるように痛くて酷くせき込んだ。のどの痛みがひいた頃、老婆は言った。


「これはな、息子と娘のもんだ」


 あの傷だ。読まれている、頭の中を――。


「どちらに行かれたんですか?」


「どこに行ったか分からない」とさっき聞いた、なのに考える前にそう訊いていた。

 老婆は智之の顔を強く睨んだ、思わず息が止まるほど恐ろしい目つきだった。


「おめぇ、本当になんも知らねえんか?」


 老婆の声色が変った。低い声で言いながら、智之の目を一瞬たりとも逃さない気迫で睨んでいる。

 智之は黙ってその目を見返した、目を逸らしたくても体が固まって言う事を聞かない。

 二、三分ほどはそのままだったろうか、老婆が目を伏せて大きなため息をついた。気のせいか肩がさっきまでよりずっと小さく見える。老婆は語り始めた。


「『母ちゃ、帰りにフキノトウとってきてやっから、てんぷらんでもしよ。小屋の先辺りにいっぱい出てっから』絹代はな、あの朝そんなこと言ってたんだ。いつも通り健夫の車に乗って出て行った、それっきりだよ。家の荷物は全部そのまんまでよ、車も小屋に残ってた。消えちまったんだ、パッとな」

「探したん……ですよね?」

「警察が来て山狩りしたが、なんも見つけずに帰りやがった」


 座敷が静寂に包まれた、聞こえるのは外の樹々の葉がときどき風に揺れる音だけだ。老婆はきっとこれからも、この場所でたった一人、子供たちを待ち続ける。


「毎朝、蔵から神社に酒を持っていくのが、あいつらの役目だった」


 風呂の窓から見えた鳥居――。


「それもだが、村の方もだ。あんた向うから来たんだろう? 入口の脇にあったろうが」

「ああ、あれですか」

「ぼろかったろう? 放ったらかしだからな」

「いえ綺麗でしたよ、鳥居も塗ったばかりみたいに真っ赤で」

「そんなわけ……そうかあいつらか。馬鹿どもが、いまさら何をしたって……」

「鳥居の下に狐がいて」

「あ?」

「狐です」

「なんじゃと、糞狐! 向うにまで出やがるのか!」


 老婆の白く絡まっていた髪の毛がほどけて、今度ははっきりと逆立った。尋常ではない形相に気おされて、智之は言葉を替える。


「も、もしかしたら狛犬の見間違えかも」

「そんなもん、あそこにはねえ。狛犬ってのはな、元は寺のもんだ、あの神社はな、ずっとずっと大昔から龍神様を祭っておるんじゃ、昔っからの水の守り神様じゃ。こっちのもそうだ、ほれそこに」


 老婆が窓の外を指さす。


「これとあっちは対なんじゃ、昔は向うを親戚が守ってた、そいつらが逃げてからはウチが全部やってきた。向うを健夫が、こっちは絹代だ。オレは脚が弱くてあっちにゃ行けねえ、んだが本当は毎朝ウチの酒を持ってかなきゃいけねえんだ、やめたら龍神様が癇癪起こしちまう、そんなのに杜氏もあいつらも……わかっちゃいねぇ、わかっちゃいねぇ!」

「ウチ……ウチって酒蔵の事ですか? このお酒ってもしかして、お婆さんの家のものだったんですか?」

「ああそうだ、言わなかったか? 途中に小屋があったろう、あそこからトラックで運ぶんだ、蔵は小屋の裏のもっと上だ」

「じゃあ、この道は蔵に行くための」

「いや、元は神社と神社をつなぐ道だ。いつからあるのか誰も知らねえぐれえ昔の道だ」

「蔵が遠すぎますよね」

「水が湧くんだ、あそこから。龍神様に頂いたそのまんまを使わなきゃあ、こいつはこんなに美味くはなんねぇ。大昔はもっと下で造ってたらしいが、気づいたご先祖様が水が湧く場所に建て直した。そこの沢だってその水が元だ。水は向うとこっちに半分ずつ流れる。村の人間にゃあ恵みの水だから、こっちでも向うでも麓の人間が神社に作物を供えて、酒はオレたちが供えた。酒は水のお礼なんだ、毎日龍神様にお供えしなきゃいけねぇ。なのにあいつら、長年の恩をすっかり忘れちまった、神社を護ってたウチの子供らの事もな……。くそ、あいつらめ、畜生がぁ」


 井戸の底から響くような低い声、甲高い声でケラケラと笑った老婆とは思えない、嗚咽交じりの小さな声が、畳に滲み込み柱を伝い、家中に広がっていく。

 老婆はその歳らしく何度も同じ話をした、だが中身はまるで録音を聞くように寸分違わなかった。

 柱時計の針が一時を指した頃、老婆は押し入れから布団を取り出した。智之が手伝おうとすると老婆はその手を払って言った。


「この家のこたぁまかせろ。おめぇも寝ろ、もう寝れっから」


 美嬢苑の瓶を抱えたまま布団に入った老婆は、すぐにいびき交じりの寝息をたてた。


 自分の布団に戻った智之は、由奈の体を後ろから抱いた。寝ているのかどうか気になって耳たぶをはむと、由奈が囁くように言った。


「お疲れ様」

「やっぱり、起きてたのか」

「ううん、寝たり起きたり」

「話は聞こえた?」

「ところどころ、なんとなく」

「そうか」


 二、三分して、由奈が言った。


「まだ起きてる?」

「ああ」

「ねえ、お婆さん、怖い人かと思ってたけど、寂しいのかな」

「だろうな、こんなところに一人でいて家族が突然いなくなったら、きっと誰だって」


 家族が突然いなくなったら――。


 智之たちの車を煽った運転手はその先で事故を起こして逮捕された。運転手は本当に憶えていないのか、それとも言い逃れなのか、他の車を煽った覚えなどないと言い張った。

 智之が憶えているのは音だけで、それも家族の会話だけだ。相手の車のナンバーどころか車そのものすら見ていない。そのうえ記憶は事故のショックのせいか曖昧なところがあって、所々欠落もあった。

 時計を見ていないから会話を聞いた時間もはっきりしない、あんな場所では目撃者もいない。

 結局その運転手が智之たちの車を奈落に導いた事は証明できなかった。


 どうにもならない事は初めから分かっていた。保険は出る、死んだ者は生き返らない、それなら少しでも早く由奈に会いたい。

 自分がいない間に由奈を誰かに盗られたくなかった。はやく体を治すんだ、治して由奈に会うんだ――そればかりを考えて、智之は怒りを忘れた。


 病院のベッドの上で、学校に戻って卒業するまでの僅かな間も、卒業して別々の高校に進学してからも、智之は由奈と一緒に過ごす未来だけを考えていた。あの競技会の日、兵頭と由奈の姿を見るまでは。


 長い間夢見ていた事はかなった、ただそれは智之が願った形では無かった、智之が誰よりも大切に思っていた女を抱き、その中に拭えない淀んだ澱を残した男たちがいる。


 僕は由奈だけでよかった、この世に女が由奈しかいなくても僕はそれでかまわなかった。それなのに――。


 悔しさと悲しさがこみ上げて、智之は隣で寝る由奈の浴衣をめくった。

 そのまま果てるまで続けて、意識を失った。

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