第2話 女子柔道部に入部。

 何とか午後の授業も終わって、クラスの友だちにお礼を言って、帰ることにした。

イヤ、帰るのではない。柔道部に行くのだ。とは言っても、転校初日だけに、

柔道部の部室がわからない。

廊下をうろうろしていると、妹に見つかった。

「お兄……じゃなくて、お姉ちゃん、なにしてるのよ。帰るわよ」

「その前に、柔道部を見て見たいんだ」

 すると、妹は、盛大なため息を漏らすと、こういった。

「そう言うと思った。柔道部の道場は、あっちよ」

「お前、知ってるのか?」

「そうくると思って、聞いておいたのよ。あたしに感謝してよね」

「するする、ありがとよ」

「ほら、言葉遣い。ここは、学校だってのを忘れないでよね」

 妹といると、つい、地の自分が出て、普段の言葉遣いと声になってしまう。

「ありがとね。雪ちゃん」

「そうそう、その調子」

 学校に来てまで、妹にコケにされるなんて、兄として情けない。

でも、道場を知らないのだから、言うことを聞くしかない。

 俺たちは、一度、靴を履きかえると、校庭を突っ切って、体育館の裏手に回った。

なぜか、校庭には、数人がいるだけで、とても淋しい放課後に見えた。

 普通なら、野球部やサッカー部、陸上部の部員たちの声が騒がしいくらいしている。

なのに、この学校の校庭には、野球部らしい数人が、静かにキャッチボールをしてるだけだったりサッカー部員がドリブルをしていたり、陸上部に限っては、

誰一人として走っている生徒がいなかった。

 だから、校庭を堂々と突っ切ることが出来るのだ。

俺は、不思議に思いながら歩いて、体育館の裏手に着いた。

 すると、体育館から人の声がする。てっきりバレー部やバスケ部の練習かと思って覗いたら、ダンス部らしい女子が派手なミニスカートにポンポンを持って、練習というより、はしゃいでいるようにしか見えなかった。

「なんだ、これ?」

「さぁね」

 妹もわからない様子で、首をかしげている。

「ここみたいよ」

 見ると、小さな木造の掘っ立て小屋のような建物に、柔道部と割れた板に殴り書きしてあった。

「マジか……」

 思わず口から出た。それくらい、ガッカリした。これじゃ、期待できない。

やっぱり、転校しよう。

それでも、とりあえず、見るだけ見ようと思って、道場のドアを開けた。

が、ちょっとやそっとじゃ開かなかった。力一杯、開けてみた。

でも、開かない。ガタガタしているうちに、内側からドアが開いた。

「何の用?」

 最初に出てきたのは、柔道着を着た女子だった。

「この戸を開けるのは、コツがいるの。外からじゃ、簡単には開かないのよ」

 見た目は、俺と同じくらいの小さな胴着姿の女子が言った。

「あの、入部希望なんですけど……」

「柔道部に入りたいの?」

「ハ、ハイ」

「悪いけど、新入部員は、募集してないの。ごめんね」

 そう言って、戸を閉めようとしたので、慌ててそれを止める。

「そう言わないで、お願いします。あたし、柔道が好きなんです。今日、転向してきたばかりなので、知らなかったんです」

 女の言葉遣いを気をつけながら、説得を試みた。

「そう言われても…… それじゃ、ちょっと、主将に聞いてみるので、待っててください」

「ハイ、ありがとうございます」

 俺は、体を折り曲げて頭を下げた。その隣で、妹が笑いを堪えているのを

見て、いわゆる殺意が芽生えた。

少しすると、主将らしい俺より背の高い女子がやってきた。道着の帯の色を見ると茶色なので、おそらく二級か三級だろうと思った。

「入部希望者って、あなた?」

「いえ、あたしは、付き添いです」

 妹が先に口を開いた。

「入部希望は、あたしの方です」

 俺は、丁寧な言葉遣いをするように心がけた。柔道をしている者は、言葉遣いや礼儀に厳しい。

「悪いが、今は、新入部員は、募集してないんだ」

「でも、あたしは、柔道が好きなんです。転校してきたばかりで、知らなかったんです」

「そういわれても、規則は規則でね。悪いが、他の部に入ったほうがいい」

「そんな……」

 俺の気持ちは、完全に音を立てて崩れた。もう、ダメだ、立ち直れない。

「なぜですか? どうして、募集しないんですか? 失礼ですが、見た感じ、部員は、男子も女子も多くないですよね。一人でも部員は、多い方がいいんじゃないですか?」

 妹が大きな声を出して抗議した。

「それは、あたしにも、どうすることも出来ない。学校長の判断なんだ。遅かれ早かれ、柔道部は、今年限りで廃部なんだ」

 廃部…… その一言を聞いて、俺の心は完全に折れてしまった。

「そんなの理由にならないと思いますけど」

「しかし、こればかりは、生徒には、どうすることも出来ないんだ」

「そんなこといって、お兄…… じゃなくて、お姉ちゃんみたいな強い人が来ると、あなたが困るんでしょ」

「なんだって!」

「お姉ちゃん、強いのよ」

「なにを言うか、あたしは、これでも、インターハイで女子の部で優勝してるんだぞ」

 俺は、その言葉を聞いて、ある人物を思いついた。去年のインターハイで、

女子柔道で優勝した人を何人か知ってる。

顔を上げると、その顔に見覚えがあった。その顔は、一度見たら、忘れられない大きな特徴があったからだ。

その人物は、左目がなかったのだ。左目に、海賊のような黒い眼帯をしていた。

片目なのに、女子柔道の軽量級で、圧倒的な強さで優勝したやつがいた。

そいつは、団体戦でも勝ったし、個人戦で優勝したことがある。

 俺は、顔を上げてその顔を見た。まちがいない。今、目の前にいるのは、そのときのやつだ。

名前は、伊達龍子。通称、独眼龍子。片目の戦国武将で有名な、伊達政宗をイメージして、誰が呼んだか知らないが本名より、通称で呼ぶほうが有名になった、あの女だ。

「お前…… じゃなくて、あなた、伊達龍子さん?」

「そうだけど、どうして、あなたがあたしの名前を知ってるの?」

 不思議そうに俺を見ていると、その騒ぎを聞きつけて、男子柔道部の主将らしい大きな体の男がやってきた。

「龍子、なにを騒いでるんだ。稽古は、どうした?」

「それが、入部希望者がきてるんだ」

「ハァ? 入部希望者だと。バカな…… ウチは、募集してないぞ」

「そう言ってるだけど、どうしてもって聞かないのよ」

 待てよ、目の前にいるこの大男も見覚えがある。どこで見たっけ…… 

名前は、なんだっけ?

「あーっ! あなた、お兄ちゃんに負けた人だ」

 突然、妹が声を上げた。その声で、俺は、目の前の大男のことを思い出した。

「なんだ、いきなり、失礼なやつだな」

 大男は、妹を睨みつけた。そして、大男と俺は、思わず目があった。

「あなた、ひょっとして、真田正宗ですか?」

「それがどうした。どうして、俺のことを知ってる?」

 やっぱり、そうだ。高校1年と2年のインターハイの個人戦の決勝で対戦した相手だ。

もちろん、俺が勝った。そして、2年連続、優勝したのだ。あのときの記憶が蘇ってきた。

「ごめんなさい。あたし、早乙女雪、二年三組で、この人は、あたしのお姉ちゃんで、早乙女渚といいます」

「早乙女渚? どっかで聞いたことあるな…… 待てよ。あっ! イヤイヤ、そんなバカな、あいつは、男で女じゃない」

「ちょっと、正宗くん、知ってるの?」

「龍子だって、知ってるだろ。二年連続日本一になった、柔道の早乙女渚だ」

「知ってるけど、その人は、男子よ」

「そうだよ。名前がたまたま同じってだけだよな」

 二人の会話を聞いて、妹がニヤニヤ笑っている。

「違うわよ。お姉ちゃんは、本物の早乙女渚で、ホントは、お兄ちゃんなのよ」

「ハァ?」

 正宗と龍子が同時に声を上げた。

「バカな…… 俺が知ってる渚は、体は細いが、もっと、男らしくて、強いやつなんだぞ」

 そうだろ、そうだろ。わかってるじゃないか。俺は、心の中で呟いた。

「こんな、スカートを履いてる、ヘンタイ趣味を持ってるようなバカじゃない」

 前言撤回。こいつ、やっぱり、わかってない。

「だいたい、この俺から、一本を取ったやつなんだ。俺の生涯のライバルと決めた男が、こんな女装趣味の変質者なわけがない」

 面と向かって言われると、だんだん腹が立ってきた。

「さっきから、黙って聞いてりゃ、言いたいことを言いやがって。俺だって、好きで、こんな格好してんじゃねぇんだよ。こっちには、こっちの事情があるんだよ。文句があるなら、話を聞いてからにしやがれ。だいたい、龍子も龍子だろうが。お前は、右目まで、なくしちまったのかよ。よく見やがれってんだ」

 俺は、思わず地声で早口でしゃべってしまった。妹が、肘で俺の脇を軽く付いてきた。

「ごめんなさい。つい、地声が出てしまったの。今のは、忘れて下さいね」

 今度は、女声で優しい口調でしゃべった。しかし、もはや、手遅れだった。

いきなり肩を捕まれると、前後に揺さぶられた。

「お前、ホントに、渚なのか?」

「あなた、ホントにあの渚くん?」

 龍子に体中をベタベタ触られた。そして、股間を触って、手を引っ込めた。

「正宗くん……どうしたの?」

「ある……」

「なにが?」

「正宗くんと同じものが……」

「な、なん、なんだって!」

 そう言うと、正宗が思い切り、スカートの上から俺の股間を握り締める。

「イヤァ~ん、正宗くんのエッチ!」

「ま、まさか…… イヤ、そんなバかな……」

 正宗は、自分の右手を見下ろすと、顔から血の気が引いていく。

「お前、ホントに渚なのか」

「だから、さっきから言ってるじゃない」

 俺は、女声で可愛子ぶりっ子して言った。もはや、二人は、言葉を失って立ち尽くしていた。

「どういうわけだ? なにがあった? ちゃんと説明しろ」

「そうよ。こんなのあたしが知ってる渚くんじゃないわ。何があったの?」

 二人の顔は、真剣そのものだった。当然といえば、当然だろう。

俺に負けて、俺のことをライバルと誓ったやつが、スカートを履いて目の前に現れたら、自分の目を疑うに決まってる。

「えーと、そのことに関しては、お姉ちゃんは、口下手だから、あたしから説明します」

 妹が口を開こうとすると、正宗がストップをかけた。

「他の部員たちの目がある。あっちで話そう」

 そう言って、俺は、手を引かれて、道場の裏に連れ込まれた。

この展開は、恋の告白にしか見えない。でも、そんな話でないのだ。

「確か、渚には、妹がいたな。それが、お前なのか?」

「そうです」

「俺たちにも、わかるように説明しろ」

 促されて、妹は、俺の事情を話して聞かせた。話し終わると、二人は、眼が点になったまま、口をポカーンと開いたままだった。

「それじゃ、お前は、本物の渚なんだな」

「そうよ」

「その、女言葉は、やめろ。気持ち悪くなる」

 そう言われたら、ホントの自分の声で話すことにした。

「まさか、お前らと、この学校で会うとは思わなかったけど、これもなにかの縁だから、これからよろしく頼むぜ」

「それはいいけど、柔道部に入部ってのは、どうかしら?」

「そっちの事情は、さっき少し聞いたけど、いったい、どういうわけなんだ?」

 すると、龍子が話し始めた。

「さっきも言ったけど、学園長の方針転換なのよ。こればかりは、あたしたちじゃ、どうすることも出来ないのよ」

「イヤ、できる! 渚、お前、柔道部に入れ」

「ちょっと、正宗くん。新入部員は、募集しちゃいけないのよ」

「バカヤロ。それじゃ、このまま、柔道部が廃部になってもいいのかよ」

「それは、あたしだってイヤだけど……」

「だから、今度の大会で、優勝するんだ。そうすりゃ、学園長だって、廃部にするわけにいかないだろ。だから、渚、お前が必要なんだ」

 あの正宗が、目を潤ませて手を合わせて、俺に頭を下げてきた。

「正宗くん…… よし、あたしも、決めた。渚くん、柔道部に入って。いっしょに優勝しよう」

 そう言って、あのプライド高い龍子までが、深々と頭を下げた。

「お前ら、なんだよ、その態度。お前たちらしくないだろ。お前らは、いつだって、上から目線だろうが。頭なんて下げんじゃねぇよ。言われなくても、入部するに決まってるだろ」

 俺は、二人の肩を力強く叩いた。

「ありがとう。渚くん」

 龍子は、残った右目から涙を流して喜んでいた。

「その代わり、俺の秘密は、守ってもらうからな」

「もちろん。安心しろ。男と男の約束だから、死んでもお前の秘密は守る」

 正宗は、胸を張っていった。正宗も、心なしか目が光っていた。

「そこは、男と女の約束なんだけどな」

 俺がポツリと言うと、正宗は、豪快に笑った。

「渚くん、あたしもあなたの秘密は守ります。これは、女と女の約束ね」

 龍子、それも微妙に間違ってるぞ。俺は、心の中で突っ込んだ。

「ところで、このことを知ってるやつは、俺たち以外にいるのか?」

「今のところいないわ。正宗さんと龍子さんと、あたしだけよ」

「そうか。それなら、少しは安心だな」

「それにしても、渚くんて、言われないと女子よね」

「う~む、確かに。俺も一瞬、ホントに女子だと思った」

「ちょっと、正宗くん、まさか、渚くんに……」

「違う、違う。俺は、龍子が一番だから、勘違いするな」

 どうやら、この二人は、付き合っているらしい。見事な最強カップルに違いない。

龍子に言われて、慌てて否定する正宗を見ると、笑いがこみ上げてくる。

「とにかく、入部の手続きは、あたしがやっておくわ。明日から、きてね」

「わかってる。頼むぜ、龍子」

「ちょっと待て。まさか、女子の方に入部するつもりじゃないだろうな?」

「当たり前じゃない。渚くんは、この学校じゃ、女子なのよ。男子部に入れるわけないでしょ」

「イヤ、しかし、渚は、ホントは男で……」

「ダメよ。そうかもしれないけど、この学校じゃ、女子なんだから、渚くんは、あたしの方で面倒見るから」

「それじゃ、男子の方はどうすんだよ? 渚がいないと、優勝できないんだぞ」

「悪い、正宗。そこは、諦めてくれ」

 俺は、正宗の肩に手を置いていった。

「先輩、まだですか?」

「主将、練習の途中ですけど?」

 後輩の柔道部員が、正宗と龍子を探しに来た。

「すまん。まだ、稽古の途中だった。話は、また、後で」

「ごめんね、渚くん。後で、ウチに行くからね」

 そう言って、二人は、部室に走っていった。

話しは後ではいいけど、まさか、あの二人、ウチに来る気じゃないだろうな?

「さて、それじゃ、帰ろうか、お姉ちゃん」

 涼しい顔して言う妹を見て、ピンと来た。

「待て、まさか、お前、ウチの住所を教えたんじゃないだろうな?」

「今、メールしたとこよ」

 またしても、妹に先を越された。先を読む力は、俺より上だ。

俺は、帰りながら聞いてみた。

「余計なこと、すんなよな」

「ほら、女言葉を忘れてるわよ」

 妹といると、つい、普段の口ぶりになる。

「余計なこと、しないでよね」

「いいじゃない。正宗さんたちだって、まだ、話があるって言ってたし」

「だからって、ウチでやることは、ないんじゃないかしら?」

「ウチのが、お姉ちゃんも気にしないで話が出来るんじゃないの」

 確かに、その通りだ。学校じゃ誰が聴いているかわからないので、女言葉で話さないといけない。

ここは、妹に任せることにしよう。俺は、帰宅するまで無言で歩いた。


 帰宅すると、真っ先にすることといえば、女子の制服を着替えることだ。

ウチに帰ってまで、スカートなんて履きたくない。俺は、部屋に入ると、速攻で着替えた。

 一階に戻ると、キッチンのテーブルで妹が先に座っている。

「よぉ、お茶くれよ」

「イヤよ、自分でやって」

「いいじゃないか、お前のが、冷蔵庫に近いんだから」

「今、忙しいの」

「忙しいって、スマホやってるだけだろ」

「友だちのメールの返事をしてるところだから、手が離せないのよ」

 生意気なやつだ。兄貴を何だと思ってるんだ。ウチは、母さんといい妹といい、女のが強い気がする。

俺は、仕方なく自分で冷蔵庫から、麦茶をコップに注いで一口飲んだ。

「今日のメシ当番は、お前だからな。うまいもん作れよ」

「今夜は、コロッケよ」

「またかよ。お前のときは、いつもコロッケだな」

「イヤなら、自分で作れば」

 妹は、スマホから目を離さず言った。いつか、引っぱたいてやりたい。

出来ないけど……

「それじゃ、ちょっと早いけど、ご飯にしようか」

 妹は、スマホの電源を切って、立ち上がった。時計を見ると、まだ、夕方の5時だ。夕飯にしては、ちょっと早い。なんか、嫌な予感がする。なにか大事なことを忘れている気がする。

 でも、俺は、気にしないで、リビングに移動して、テレビをつけた。

夕方のニュースを見る気もないのに、ボーっと見ていると、玄関のチャイムが鳴った。

「は~い」

 普段なら、自分から玄関に行くことはない妹が、自分から向かった。

誰が来たんだ? 親父か母さんが帰ってきたのか? いや、そんなはずはない。

すると、聞き覚えのある声が聞こえてきた。

「邪魔するぞ」

「失礼するわね」

 その声は、最強カップルの、正宗と独眼龍子だった。そうだ、あいつら、後でウチに来ると言ってたっけ。

「お前ら、ホントに来たのかよ。よく、ウチがわかったな」

「雪ちゃんに聞いたのよ」

 俺は、妹を見ると、知らん顔してそっぽを向いていた。

そうか、あの時、スマホでメールしてたのは、こいつらだったのか。

「今の渚を見て、俺は、安心したぞ」

 正宗が笑いながら言った。

「どういう意味だ?」

「ウチに帰っても、スカートを履いて、女言葉を使ってたら、俺は、帰ろうと思ってたんだ」

「そんなわけあるか」

 俺は、自分の声で言い返した。

「やっぱり、渚くんは、それじゃないと、あたしも調子が出ないわ」

 龍子までが、そんなことを言って笑う。なんか、悔しい。でも、言い返せない。

「とりあえず、そこに座って。今、お茶を出すから」

「雪ちゃん、お構いなく」

 俺のときは、自分でやれと言っておきながら、こいつらが来ると、自分からお茶を出すなんて、外面だけはいい妹だった。

「お兄ちゃんも、こっちきて、座って話を聞いてよ」

 俺は、面倒臭かったけど、テレビを消して、キッチンテーブルに戻った。

俺と妹の向かいに、正宗と龍子が座って、早速、本題を話し始めた。

 話の内容は、もちろん、柔道部の今後のことだった。

全国大会には、もちろん出場する。だが、それは、個人戦の場合だ。

正宗と龍子と俺なら、誰が優勝しても不思議じゃない。

しかし、完全優勝を目指している正宗と龍子にとっては、団体戦も勝ちたいということだった。

「男子の数が足りないんだ」

「今、部員は何人いるんだ?」

「俺を入れて、三人だから、二人足りない」

「女子の方は?」

「あたしと渚くんを入れても、四人だから、一人足りないの」

 俺は、ため息しか出ない。試合の前に、人数が足りないんじゃ、壊滅的で話しにならない。

「部員を募集すれば?」

「新入部員の募集は、出来ないの。だから、一年生はいないのよ」

 その話は、さっきも聞いた。これじゃ、ホントに、三年生が卒業したら、廃部になるのは決定的だ。

「他の部員たちの実力はどの程度なんだよ?」

「女子も男子も、全員白帯だから、あたしと正宗くんだけじゃ、団体戦には勝てないのよ」

 これまた、どうしようもない。これでは、勝負にならない。諦めるしかない。

「個人戦だけで、いいんじゃないか?」

「ダメだ! 俺は、完全優勝をするんだ」

 正宗が、強い口調で言った。その迫力に、俺も思わず引いてしまう。

「正宗の気持ちはわかるけど、人数が足りないんじゃ、どうしようもないだろ。それに、お前の実力なら大学に行っても柔道はやれるんだし、オリンピックにだって、出られるんじゃないか?」

 正宗の実力は、俺もよく知ってる。俺がいなければ、間違いなく、日本一になっていた。

「スポーツ推薦とかで、柔道が強い大学にも行けるだろ。お前は、個人戦なら優勝できるんだし、それでいいじゃないか」

 俺は、良かれと思って言った。決して、悪気はない。しかし、正宗は、顔を真っ赤にして、拳を握り締めて言った。

「俺は、高校で柔道は、卒業するんだ。だから、なにが何でも、完全優勝したいんだ」

「お前、柔道やめるのか?」

 今度は、静かに頷いた。急におとなしくなったので、俺は、聞いてみた。

「どうしてやめるんだ? もったいないだろ。大学に行っても、続けろよ」

「いや、俺は、決めたんだ。高校で、柔道はやめて働くんだ」

「進学しないのか? お前の実力なら……」

「俺は、就職するんだ」

「どうして? あっ、イヤ、言いたくないなら、言わなくてもいい。何か、事情があるんだろ」

 俺は、正宗の家庭の事情と思って、気を使った。でも、あいつのウチは、そこまで経済的に逼迫していないはずだ。

すると、思いがけない返事が返ってきた。それも、正宗ではなく、龍子からだった。

「正宗くんは、あたしのために、柔道をやめるのよ」

 俺は、驚いた。訳がわからない。どういう意味だ?

「正宗くん、言ってもいいわよね。渚くんなら、わかってくれると思う」

 そう言うと、正宗は、下を向いたまま首を軽く縦に振った。

「あたしの左目を失ったのは、正宗くんのせいなの」

「な、な、なんだって!」

 俺は、声が裏返った。想定外の返事だった。俺は、言葉が見つからず、ただ、口をパクパクしているだけだった。

「アレは、高校一年の夏合宿のときのこと。あたしと正宗くんは、同じ合宿所で練習していたの。

あたしも調子に乗ってたから、悪いのは、正宗くんだけじゃないのよ」

 そう言って、龍子は、ゆっくり話し始めた。

高校一年生とはいえ、二人は、中学のときから、柔道では敵なしだった。

俺も学校は違っても、噂くらいは知っていた。

特に龍子は、女子の中でも強すぎた。だから、同じ女子同士で練習相手がいなかった。

 合宿中ということもあって、龍子は、正宗と練習することになった。

もちろん、女子と男子とでは、体格も体重も違う。特に正宗は、重量級だ。

だから龍子は、安心して、技をかけることが出来る。いい練習相手だったのだろう。

 その日も正宗と稽古していた。そのとき、バランスを崩したのか、汗で滑ったのか正宗が龍子を押し倒してしまった。そのとき、左目に肘が当たった。

急いで救急車で病院に運ばれたが、左目を陥没骨折して、失明してしまった。

 正宗は、両親と龍子のウチに行って、謝罪すると同時に、治療費など全部を負担するといった。

でも、龍子は、それを受けなかった。龍子の親もそうだった。稽古中の事故として、お互いに責任があると

正宗の申し出を断った。龍子も正宗を許した。ちなみに、龍子の父親は、元柔道日本一だ。

自分の娘が、稽古中の事故で失明しても、それをすべて正宗のせいにはしなかった。

 そこで、正宗が、柔道は高校でやめて、就職して責任を取り、龍子と結婚するということだった。

当然、そんな話は、双方の両親は、認めない。まだ、高校生で結婚の約束なんて、できるわけがない。

しかし、正宗は、本気だった。その証明として、柔道日本一になって、花道を飾るということだった。

 そんな事情があるとも知らず、俺は、あいつに勝った。正宗は、二年連続して、二位という結果だった。

思い出すと正宗は、会場の外で泣いていた。あのときの涙は、俺に負けた悔しさではなかったのだ。

 そこまで話すと、龍子も残った右目が濡れていた。

「正宗くんだけが悪いわけじゃない。だから、あたしの分まで、大学に行って、柔道を続けて欲しいの。でも、言うことを聞いてくれなくて……」

「えっ! 龍子もやめるのか?」

「しょうがないじゃない。あたしは、片目だもん。高校生までなら、何とか勝てるけど、大学とか行ったら、片目じゃ、ハンデがあるから、勝てないもの」

「いや、龍子ならできる。俺が、お前を支えるから、龍子は、大学に行って、柔道をやるんだ」

「ほらね。正宗くんは、一度言ったら、聞かないのよね」

 龍子は、泣き笑いの顔で言った。

「だから、今度が最後のチャンスなんだ。俺は、勝ちたい。勝って、柔道をきっぱりやめるんだ」

 正宗は、涙でぐしゃぐしゃの顔を上げて、きっぱり言い切った。

「お兄ちゃん…… どうすんのよ。このままでいいの?」

 もらい泣きしている妹が俺の袖を引っ張りながら言った。

この責任は、俺にもある。知らぬこととはいえ、俺は、二年続けて正宗に勝って、いい気になった。

その裏で、正宗と龍子の悲しい出来事があったなんて、まったく知らなかった。

「話はわかった。だけどな、人数が足りないんじゃ、試合に出ることも出来ないだろ」

 それが、厳しい現実だ。団体戦は、五人で出場する。最低でも、三人勝てば、三対二で勝ちだ。

しかし、男子は、勝てるのは正宗だけ。女子は、龍子と俺の二人だけ。これでは、勝てない。

そもそも、部員数が足りないから、こればかりはどうすることも出来ない。

 四人は、しばらく黙ってしまった。いい考えが思い浮かばないのだ。

そんな時、妹がこんな話をした。

「出来るかわからないけど、とりあえず、五人揃えばいいのよね」

「そうだけど、最低でも勝てるやつを入れないと、人数だけ揃えてもダメだぞ」

 俺は、そう言った。男子なら二人。女子なら一人は、確実に強いやつを入れないと勝てない。

「あのね、これは、ホントは反則なんだけど、影武者を使うってどうかな?」

 また、妹は、突拍子もないことを言い出した。普段から、マンガの読みすぎなんだ。

「正宗さん、龍子さん、一年生の名簿って残ってる?」

「一年生は、入部して、すぐに辞めたぞ」

「退部届けとかどうした?」

「どうしたっけ? 女子のほうは、どうしてんだ」

「う~ん、たぶん、机の引き出しに入れたままかも…… ウチの顧問て、全然顔を出さないでしょ。だから、あのままかも」

 その話を聞いて、妹の目が異様に光った。またしても、悪い予感がする。

「だったら、その退部届け、出さないでそのままにしておいて。ちなみに、何人分あるの?」

「男子は、二人だな」

「女子は、一人よ」

「だったら、丁度いいわね」

 妹が自信満々で話を始めた。妹のこういうときは、絶対、よからぬことを考えているときだ。

「お兄ちゃん、前の学校に、柔道が強い子がいたでしょ。確か、双子だったかな?」

 俺は、少し考え込んだ。俺みたいに強いやつはいたか?

正宗なら知ってるけど、他にいたかな……

そのとき、俺の頭に、なにかが閃いた。

「あいつらか!」

「そう、双子のヘンなやつ、いたでしょ」

「金次と銀次か。でも、あいつら、俺より年下だから、二年じゃなかったか?」

「そうそう、その二人を柔道部に引き入れるのよ。そうすれば、正宗さんと合わせて三人、勝てる計算でしょ」

「イヤイヤ、お前、なにを言ってんだよ。あいつら、違う学校なんだぞ。転校させるのかよ」

「だから、やめた一年生の影武者になってもらうのよ」

 それを聞いたとき、俺も正宗も龍子も、唖然として固まってしまった。

「ちょっと、待ってね」

 妹は、スマホでなにかを調べ始めた。こんなときは、違う意味で頼りになる。俺は、機械音痴だ。

「ほら、見て」

 妹は、スマホの画面を俺たちにかざした。

そこには、俺がいた、前の高校の話が載っていた。

それによると、俺が転校してから、柔道部は、弱くなった。

金次と銀次の二人だけでは、とても勝てない。俺の記憶によれば、あの高校で強いのは、俺と双子の兄弟だけだ。

三年生は、俺以外、全員白帯だし、金次と銀次は二年生だから、二人だけでは戦力がない。

 そんなわけで、早々と県大会の前に、敗退が決まったとのこと。これで、全国大会など夢のまた夢だ。

もちろん、個人戦なら出られるが、双子の兄弟は、柔道は諦めて、大学で柔道を本格的にするために俺もよく知ってる、個人の道場に通い始めた。

そこで、高校三年の一年をみっちり、稽古して、実力をつけて

大学柔道界に行くつもりらしい。

「この二人って、お兄ちゃんの後輩でしょ。影武者としてだけど、全国大会に出られるのよ。しかも、勝てるのよ」

「それは、いくらなんでも、ズルだろ。バレたら、どうすんだよ」

「だから、バレなきゃいいのよ」

「お前なぁ……」

 俺は、呆れて開いた口が塞がらなかった。

「イヤ、この際、手段を選んでいられない。この二人を呼んでくれないか?」

 正宗が、椅子から立ち上がって、言い切った。まったく、だから、柔道バカは、脳みそが筋肉になってると言われるんだ。

勢いで物を言うな。俺は、口まで出かかったその言葉を飲み込んだ。

「待って。もう一人、いたわよね。強い、女の子が……」

「そんなやつ、いたか?」

「いたじゃない。お兄ちゃんのストーカーみたいな人」

「あーっ!」

 思わず、声が出てしまった。確かに、いた。しかも、柔道が強い。

「あの人にも声をかけてみようよ。そうすれば、お兄ちゃんと龍子さんと三人になるから、勝てるわよ」

「ダメ! 絶対ダメ。あいつは、ダメ」

「えぇ~、だって、他にいないわよ」

「ダメったら、ダメ」

「ちょっと、雪ちゃん、どういうこと?」

 龍子が興味ありげに聞くと、、妹は、得意満面で話し始めた。

そして、俺は、耳を塞いだ。

その女子の名前は、高木春美。二年生で柔道部に所属している。

柔道の実力は、確かに強かった。だが、それだけじゃないのだ。

どこに行くにも、俺にべったりで、彼女気取りなのだ。その頃の俺は、柔道漬けの毎日だったので女子には、まるで興味がなかった。もはや、学校後任のカップルという目で見られて迷惑だった。

俺にとっては、ストーカーも同然で、面倒臭いやつだった。

しかも、可愛いから、他の男子からも告白されていた。でも、すべて断った。

あいつは、俺一筋なのだ。それは、わかっていた。いくら鈍感で鈍い俺でも、それくらいは自覚している。

でも、俺にとっては、彼女よりも柔道のが好きだった。

 転校するときも、春美は、最後の別れにウチまで押しかけてきた。

俺は、親父の車で行くときも、大号泣して、手を振り続けていた。

「へぇ~、渚くんにも、そんな彼女がいたんだ」

「だから、彼女じゃないって」

「いい女じゃないか。付き合ってやれよ」

「イヤイヤ、そんなんじゃないから……」

「転校してから、手紙とかメールとかしたの?」

「してない、してない」

 俺は、首がもげるくらい左右に振って全否定した。

しかし、あいつからは、ときどきメールが来る。

でも、俺は、返事を返していない。

「春美さんも影武者にすれば、女子も三人揃うよ」

「無理だって」

「でも、お兄ちゃんといっしょに試合が出来るって言ったら、絶対、くるよ」

「バカだな。よく考えろよ。俺は、女子なんだぞ。スカートを履いてるところなんか見たら、腰を抜かして、激怒するぞ」

「そうかなぁ…… 話せばわかってくれると思うけどなぁ」

「いや、でも、やるだけやってみよう。雪ちゃん、連絡してみて」

「わかった」

 わかったじゃない。龍子までなにを言ってんだ。バカなことを言うな。

二人の気持ちはわかるが、出来ることと出来ないことがある。

「あのな、よく考えろよ。影武者なんて、できっこないだろ。そりゃ、正宗と龍子の気持ちはわかる。俺だって、優勝したいよ。でもな……」

「そんなこと、やってみなきゃわからんだろ。例え、バレて失格になったとしても、俺は、優勝できれば満足だ」

「そうよ。あたしもそう思うわ。結果がすべてなんだもん。やってみて、負けたら諦めがつくわ」

「イヤ、負けない。これだけのメンバーが揃えば、絶対に勝てる」

 ダメだ。この二人は、完全に舞い上がってる。人の話は、耳に入らない。

さらに、妹までが盛り上がっている。こうなると、誰も止められない。

 ただでさえ、男の俺が女子ということで、ウソをついているのに、さらに、影武者を使って勝とうなんて絶対無理だし、できるわけがない。

バレたら、それこそ一大事だぞ。もっと、冷静になれ。

 それからも三人は、俺抜きで、盛り上がって話が進んでいる。

こうなったら、誰も止められない。もう、俺は、知らん。

 そんなときだった。俺のスマホが鳴った。

「お兄ちゃん、スマホ鳴ってるよ」

 妹に言われて、俺は、渋々スマホを取った。今は、スマホどころじゃない。

俺は、てっきり、親父か母さんだと思って、名前を確かめもしないで、電話に出た。

「ハイ、渚だけど」

「ナギちゃん、久しぶりぃ~、元気だった。全然返事くれないから、心配しちゃった」

 その声は、春美だった。噂をすれば、なんとやらというけど、よりによって、こんなときに……

スマホから漏れてくる声で、妹が察して、スマホを俺から取り上げた。

「もしもし、あたし、雪。もしかして、春美さん?」

「あらぁ、雪ちゃん、久しぶり。元気してた?」

「どうしたの?」

「ナギちゃんに会いたくて、出てきちゃった」

「えーっ! ホントに?」

「うん、今ね、ナギちゃんちの前にいるの」

「うっそぉ~」

「ホントだって」

「ちょ、ちょっと待って、今、行くから」

 妹がスマホを俺に押し付けて、玄関に走っていく。

なにがなんだか事情がわからない俺は、ただ、座っているだけだった。

「ナギちゃ~ん、久しぶり。会いたかったよぉ……」

 家に入ってくるなり、俺に抱きついてきた。

「は、は、春美?」

「そうよぉ、もう、淋しかったんだからぁ」

 俺に抱きついてきた春美を、正宗と龍子は、呆然と見ていた。

「ちょっと待て、とにかく、離れろ」

 俺は、春美を無理やり引き離す。

「えっと、この人たちは、どなた?」

 やっと、その場の空気を読んで、春美は、正宗と龍子を見て言った。

「初めまして、あたしは、伊達龍子」

「俺は、真田正宗」

 すると、長い髪をかき分けて、二人をまじまじと見ると、目を見開いて声を上げた。

「もしかして、高校柔道の最強カップルの、正宗さんと独眼龍子さん?」

「もしかしなくても、そうだ」

 俺が説明すると、最後まで聞かずに、春美はピョンピョン飛び跳ねた。

「イヤァ~ん、まさか、本物に会えるなんて、思わなかったわ。あたしは、高木春美です。ナギちゃんの彼女です。よろしくお願いします」

 そう言って、二人と強引に手を握って、ブンブン振り回している。

「おい、渚、彼女なら、ちゃんと紹介しろ」

「だから、彼女じゃないって」

「もう、ナギちゃんてば、照れ屋なんだから。恥ずかしがらなくてもいいじゃない。こんな素敵な人と知り合いなんて、すごいじゃない。あたしも、仲間に入れてよ」

 この場をどう収めるんだよ。もう、止められないぞ。誰か、なんとかしてくれ。

「ハイハイ、ストップ。春美さん、ちょっと落ち着いて」

 さすが、妹。こんなときは、頼りになる存在だ。しかし、余計なことは、言うなよ。

「せっかくだから、春美さんにお願いがあるの」

「いいわよ。ナギちゃんのためなら、何でもやるわ」

 その前に、まず、ナギちゃんというのは、やめてくれ。俺の声なき抵抗だ。

妹は、俺を椅子から退かすと、そこに春美を座らせて、事の次第を話し始めた。

 さっきから、不安しかないんだが、それは、的中した。

「やるわ。あたし、やる。二人のために、ナギちゃんのために、あたし、がんばる」

 春美は、そう言うと俺の手を強く握り締めた。やっぱり、俺の思った通りだ。

「でも、ナギちゃんが女子なんて、ビックリだわ。ねぇ、制服を着て見せてよ」

「絶対、イヤ」

 俺は、春美の前では、絶対に、女子の制服は着ない。

「確かに、ナギちゃんは、女顔だもんねぇ。お母さんに似たのよね」

 そう言って、しみじみと俺を見る。そんな顔して、俺を見ないでほしい。

「ところで、どうやって、ここまで来たんだ?」

 春美には、今の住所は、教えていない。だから、ウチに来られるわけがないのだ。

「ナギちゃんのお父さんに教えてもらった」

「ハイィ?」

「ナギちゃんのお父さんに、会いたいからって言ったら、教えてくれたのよ。しかも、途中まで送ってもらっちゃった」

 なにやってんだ、あの親父は…… まったく、余計なことをしてくれたもんだ。

「それと、お父さんから伝言で、事件が解決したから、今夜帰ってくるから、食事の用意しておけって」

「それを早く言え」

 親父が久しぶりに帰ってくる。えらいこっちゃ。

その前に、学校のことを抗議しないと……

「お父さんが帰ってくるなら、あたしたちは、そろそろ帰るわ」

 龍子と正宗が席を立った。だが、できれば、ここにいて欲しい。あの親父と面と向かって、抗議する勇気がない。

出来れば、二人に説明して欲しい。しかし、それは、適わなかった。

 正宗と龍子は、この話は、また、後日ということで、引き上げて行ったのだ。

「それで、春美は、どうすんだよ?」

「今夜は、ここに泊って、明日帰るよ」

「ハァ!」

「それじゃ、今夜は、春美さんとゆっくり話が出来るわね」

「うん。ナギちゃんともね」

 ふざけんな。俺は、声を大にして言いたかったが、そんな声は出ない。

女の前では、意気地なしなのだ。

春美だけでも大変なのに、親父も帰ってくるのだ。どうしたらいいのか、神様に手を合わせるしかない、俺だった。



 

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