Epilogue


 

  2

 

 小さく息を吐いて、キーボードから手を離す。

 何時間もキーボードを叩いていたせいか、伸びをすると固まった肩が小枝でも纏めて折ったかのような音を立てた。

 液晶を見続けて疲れた目尻を軽くほぐし、パソコンの脇で開いていた日記帳を閉じる。

 これで、一通りの執筆が終わり。あとは数回推敲を繰り返し、校閲ソフトで日本語的なチェックを掛ければ原稿は完成する。

「…………つかれるな、やっぱ」

 この道に進んだのが、誰かの為だとは思わない。自分のやりたいことを選んだ結果として、私はここまでやって来た。

 けれど、その過程において誰かの影響を受けていない、とはやはり言えない。

 姉と、そしてその姉といつも一緒に居る女性。あれは何と言うのだろう。友人、親友、恋人、相棒。それらしい言葉は思いつくが、そのどれもがかすかな違和感を含む。

 とにかく、小桜吉乃と、汐見唯。

 常に「物語」を失う可能性と隣り合わせだったあの二人が。

 正確に言うなら、何かの拍子に過去を失いかねない汐見唯と、その彼女と相互依存に近かった姉が。その存在が、きっと私の選択に大きな影響を与えている。

「姉さん」

 大学では、いまだ暗中模索に近いプロローグについて研究している研究室を選んだ。

 就職はそこの伝手を通じて、叙述型のプロローグ製作事業を持つ出版社を紹介してもらった。

 そのためにここに来たわけではないが、こういう事を考えなかったわけではない。多少の心構えみたいなものは、一応私なりにしてはいた。

 しかし。

「………………これはないって」

 呟いて、日記帳を写真立ての前に戻す。

 私が書いているプロローグは、姉が遺した日記に基づいている。

 違いがあるとすれば、配役が逆な点と、結末か。

「ねぇ」

 現実は、そう甘くなかった。甘くないどころか、神様は悪意に満ち溢れていた。

 救いなんて、これっぽっちもなかった。

 昔から私にも優しくしてくれていた唯さんは、姉がもらって来た感染症がうつって「過去」を失った。

 あの日、一人暮らしの部屋で引きこもり続けていた姉に届いたのは、唯さんがいた病院から送られてきた事務的なメールだけだった。

 その日、姉はどこにも出かけなかった。薬を貰いに行かなければいけないはずの病院にも。

 偶然近くを通った私が久々に姉の部屋を尋ねた時、ろくに物も食べず薬も飲んでいなかった姉は、既に意識が朦朧としていた。

 救急車を呼んでも既に遅く、姉は数日後に「唯さん」の後を追った。

 最後に呼んだのは傍らにいた妹の名ではなく、唯さんの名だった。

 それに答えるべき者は、もうどこにもいなかった。

 最後まで。最後の最後まで、救いなんてなかった。

 唯さんは、姉さんを連れて行ってしまった。

 もし、私があと何日か早く姉の所を訪れていれば。けれど、起きなかった時点でその可能性は無意味だ。いっそ美しいまでに、歯車は最悪で噛み合った。

「だから」

 汐見唯のプロローグを書くことにしたのは、私の意思だ。

 研究室の教授からは止められたが、これが、私が姉さんたちにしてやれる唯一の事だ。

 あの二人の物語は、この日記帳と、姉から断片的に聞いた私の頭の中にしか残っていない。

 私の記憶も、人である以上永遠ではない。変化し、劣化し、摩耗する。誰からも忘れ去られた物語は、存在しないと同義。それは、あまりにもむごい話ではないか。

 もちろん、いっそこの物語を完全に無かった事にすることもできる。姉の登場しないプロローグを書けば、救いのない物語なんて初めから無かった事になる。それも、一つの救いなのかもしれない。特に、汐見唯にとっては。

 でも、それはあの二人に対する冒涜だ。

 そして何より、そんなことできるはずも無い。姉の存在を、消し去る事なんて。

 だから、私はあの物語を少しでも救いのある形に捻じ曲げる。

 乱暴に、強引に。それでも、最悪でない物語に。

 捻じ曲がった分の歪みは、私が背負う。

 或いは、少し私の背中からはみ出してしまうかもしれないが。

 きっとそれくらいは、許されるだろう。

 

 

 首から上を覆う白い機械が、外される。

 現れるのは、まるで昼寝でもしているかのような寝顔。ゆっくりと胸を上下させる彼女は、そのままキャスター付きの寝台でこちらからは見えない所へ運ばれてゆく。

 彼女が見えなくなったのを確かめてから、私は席を立つ。仕事用のパソコンを鞄の中に仕舞い、部屋の脇に隠す。スーツを脱いで、貸してもらった院内着に着替えたところで、扉がノックされた。

「はーい」

 こういう事は、一応は法で禁じられている。ただ例外もあって、それが患者の利益のために必要不可欠とされた場合。

 申請の書類を書くのにも苦労したけれど、きっとこの瞬間の方が緊張する。

「えっと」

 無機質な扉が開き、彼女が現れる。

 叙述型のプロローグは、文章のデータと合わせて人名と顔をセットにしたデータも患者の脳に書きこむ。だから。

「よかったー。久しぶりだね」

 無数の感情を押し込め、今この瞬間から、私は小桜葉月ではなくなる。

「吉乃……、私が、わかる?」

「なーに言ってるの。当たり前だって」

 笑った姉の顔を脳裏に描いて、満面の笑みを浮かべる。

 ごめんね、姉さん。

 零れた涙は、きっと嬉し涙に見えただろう。

「私の脳は、誰かさんの事は忘れられないようにできてるんだよ。ね、唯」

 

 

 彼女から見て、私は小桜吉乃だ。

 汐見唯がプロローグを書き、「なにも起きなかった」物語を与えたはずの、小桜吉乃だ。

 汐見唯は、自分が書いたことになっている「なにも起きなかった物語」での唯さんを演じ続ける。私の書いた「ちっぽけな救いがあった」物語の上で。

 そして私は、私の書いた「ちっぽけな救いがあった物語」での小桜吉乃を演じ続ける。

 この、救いなんて欠片も残っていない物語の上で。

 二人の役者が、物語を演じる。ここにはいない、誰かのために。

「……あとは任せてよ、姉さん」

「何か言った?」

「ううん、なんでも」

 頭の上では、満開の桜が幹線道路の上をアーチのように覆っている。

 かつての桜の代名詞であったソメイヨシノは、去年全て枯れた。すべて同じ遺伝子を持つクローンであるが故に、遺伝子の脆弱性を突く病気によって悉くやられてしまったらしい。

 今咲き誇っているのは、昔からそのようなソメイヨシノの特徴を危惧して作られてたという代替品種だ。最後のソメイヨシノが散った後に急ピッチで植え替えが進められて、既に半分以上は植樹が済んでいるという。

 品種名は忘れたが、こうやって見ても違いは殆ど分からない。

 若い木が多いので枝ぶりはやや劣るが、それは年月が解決する。

 数年も経てば、こんな事があった事さえ、世間からは忘れ去られるのだろう。

 もしかしたら、この桜にもソメイヨシノの名が付くのかもしれない。

「あのさ、吉乃」

「ん、なに、唯」

「今日は私が作ってあげる、ご飯」

「やった。楽しみにしてるね」

 私の肩に落ちた花びらを、彼女がつまんでふっと吹く。

 舞い上がったそれは、無数の桜にまぎれてすぐに分からなくなった。

 

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吹雪く桜に君を欠く 梅雨乃うた @EveningShower

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