吹雪く桜に君を欠く

梅雨乃うた

" Prologue "

 0―0

 

 見慣れたパソコンの画面。簡素なUIのウィンドウが、小さく中央に開く。

 ファイル名「No_001」のインストールを開始します。

 まるで市販のソフトウェアでも導入するかのような簡素な画面だが、繋がっている先は無機質な白い扉の向こう。ガラス越しに見えるのは、シンプルな寝台の上でゆっくりと上下する旨と、首から上を覆う見慣れた機械。

 その冒涜的なおぞましさに、神秘的な救いに、不釣り合いなまでに平凡な画面で。

 私はカーソルを「はい」にあわせ、クリックする。

 

 

 1―A1

 

 窓の外の桜は、まだ寒々しい裸の枝を寒風に揺らしていた。

 暖房の聞いた廊下で、私は揺れる木立を窓越しに眺めながら小さく深呼吸をする。

 時折冬の終わりを感じるものの、まだ春の足音は遠い時分。室内の気温こそ暖かく保たれているものの、長い廊下に満ちる空気はどこか冷たいように思える。

 窓から覗く景色のせいだけではないだろう。

 人気のない廊下で窓と逆側に等間隔に並ぶのは、病室の扉。患者に配慮して全室個室となった病棟は、既にどの扉の脇にもゴシック体のネームプレートが添えられている。

 いつ来ても慣れないな、と誤魔化すように独り言ち、重い足を摺るようにして窓際から身を離す。

 面会の時間は決まっている。これが仕事なのだから、やると決めた以上はやらなくてはいけない。手帳と壁の部屋番号を見比べながら、一歩一歩重い歩みを進める。

 淀む私の胸中をあざ笑うかのように、その病室はすぐそこにあった。

 部屋番号503、「小桜吉乃」。

 一度足を止め、深呼吸。仕事で来たのだ、と自分に言い聞かせる。

 引き戸を開けると、広がるのは病室とは到底思えないような広い部屋。ワンルームマンションの一室のようなその空間の奥で、椅子に座り何かの雑誌をめくっていた女性が、ゆっくりとした動きでこちらを向く。

「……小桜吉乃さん、ですよね」

「はい」

 傍らの書架に雑誌を戻し、立ち上がる。テーブルを挟んで向かいの椅子を指し示して。

「どうぞ座ってください。いま、お茶をお出ししますね」

 そう言った彼女は、まるで病室ではなく自分の家にいるかのように軽い足取りで部屋の角へ向かうと、少ししてからティーパックとお湯をカップに入れて戻って来る。

「ちょっとお茶菓子は切らしていて、すみません」

「ああ、いえ、お気になさらず」

 出された湯気の立つ紅茶を口に含むと、その温度と慣れ親しんだ味が、強張った体を幾分かほぐしてくれる。相変わらず種類は分からないが、

 お互いに一息ついたところで、ティーカップを下ろした彼女が小さく姿勢を正す。

「すこし失礼な質問をいいでしょうか。初めて会った方には皆お尋ねする事にしているので」

「ええ」

 気が緩んでいた、のだと思う。

 続く言葉を聞いて、天井の照明を映していた水面が小さく波立った。

「貴女は私のお知り合いでしょうか」

「大島出版の汐見唯といいます」

 名刺を取り出す動きは、身体が覚えていた。ほとんど意識しないままに両手で差し出した名刺。それを受け取った彼女は、手元を見て、何かを反芻するように首元に手を当てて。

 そして、ああ、というように手を打ち。

「貴女が私を書いて下さる、ということですね」

 今日一番の、屈託のない笑みを浮かべた。

 

 

 1―B1

 

 プロローグライター。そういう職業がある。

 何をするのかというのは、名前にある通り。「プロローグ」を書く。それが、彼等の仕事。

 職業とは言っても、ここ十年ほどで現れたもので、それ以前には一人足りとていなかった職業だ。江戸時代、平安時代、果ては古代メソポタミアまで遡っても、いなかったはずだとほぼ確実に言いきれる。

 なぜなら、その需要自体が極めて特殊だから。

「ごめんね、待たせちゃって」

 仰々しい大層な名前がついていた気はするが、もう忘れた。

 遺伝性の病気だという。それ単体では大した話題にもならないような、些細な病気。

「べつにいいって。待ってるついでに買い物もできたし」

 小さく手を振って改札から出てきた彼女だって、言われなければ健康そのものに見える。

 現に、三年前に彼女の口から聞くまで、かれこれ五年以上全く想像すらしなかった訳だし。

「今度はちゃんと覚えてたからね」

 彼女の十八番の笑いにくい冗談にいつものように笑い、体重を預けていた柱から身を離す。二人分の足音は、すぐに都会の喧騒に紛れた。

「やっぱり仕事大変?」

「今日は別に残業とかじゃないよ。妹に付き合ってたら、ちょっとね」

「今大学生の?」

「そうだよ。私たちのこうはーい、じゃないんだけどね」

「葉月ちゃんっだっけ」

「ふっ、「葉月ちゃん」。そうか、唯が前会った時はまだ高校生だったね」

 軽く上を見上げて、面白そうに彼女が笑う。

「私たちよりはしっかり学生やってるみたいだけど、なにを勉強してるのかはあんま教えてくれないんだよねー」

「そんなもんでしょ。そもそも、あの四年間で私たちなにか身についたっけ」

「やたらと分厚い履修の手引きの読み方とか、空いてる学食に行ける時間割りの組み方とか。あ、あと唯ん家のキッチンの調味料の位置とか」

「お互い不真面目な学生だ」

「授業がみんな面白いって思えるほど、出来た生徒じゃなかったからね」

 そう言って苦笑した彼女は、小さく息を吐いて。

「あー、でもやっぱり戻りたいよ、あの頃に」

「前も聞いた、それ。大学入ったころ」

 蛍光灯の並んだ地下街。昼も夜も変わらない明るさのはずの通りも、この時間だとどこかくたびれて見える。工場のラインのように流れる雑踏に身を任せる私たちは、ほとんど押し流されるようにして駅から遠ざかる。

「今はもっと戻りたいよ。夏休みと春休みは長かったし、朝も遅くて良かった。とらなきゃいけない責任も、精々自分の事だけだった」

 そこまで言って、彼女は一旦言葉を区切る。

 こちらに視線を投げ、惜しむように口元を緩め。

「それに、唯とも毎日会えた」

 それに、上の句に下の句を返すように、私は答える。

「別に呼んでくれれば、いつでも行くのに」

「そんなわけにはいかないよ。唯には唯の生活があるもん」

 そういう言葉と裏腹に、彼女の口角が上がる。

 その昔から変わらない笑顔に、明日以降につけが回るとしても、今日も早めに切り上げて良かったと心底思う。

「今日はどこ行くの」

「ついてからのお楽しみ。この前美味しそうなお店を見つけたんだよね」

 大学までは、週末以外毎日のように顔を合わせていた。週末も、月に数回は顔を合わせていて、きっと三日以上会わないなんてことはどちらかの家が旅行でもした時くらいだったのではないかと思う。

「先週のお店は美味しかったからね。今度は私の番だよ」

 けれど、互いに就職してからは、そうもいかなくなった。当然就職先は別々になるし、そうなれば自然と生活圏も離れる。都合の合う日の仕事終わりにこうやって会ってご飯を食べるのが、せいぜい1、2週間に一度。

「そろそろこの辺の店も行き尽くしてきたかな」

「じゃあ今度はあっちの方とか言ってみようよ。地下鉄でちょっとだし」

 そして、それゆえの彼女の不安も分かっている。彼女は決して口にしないが。

 だから、私は多少無理をしても二週間に一度は彼女と会う。

 もしかしたら、それを言い訳に私が会いたいだけなのかもしれないが。

 ただどちらにしろ、それが私たちの日常だった。

 それが当たり前で、逆に言えばそれが全てだった。

 私たちの生活は常に交わりつつ、けれどそれは全て「点」だった。

 

 

 病名は忘れたが、症状は覚えている。当然だ。

 前向性の健忘症候群。平たく言えば、エピソード記憶を「覚える」ことにおける障害。

 ただ些細なと言っただけあって、たまに記憶が抜け落ちる程度の症状。彼女から打ち明けられて初めて、もしかしたらあの時のは、と思い至った程度の。

「汐見唯さん、診察室までどうぞ」

 しかし、もう一つ忘れてはならない特徴がある。むしろ、こちらの方がこの病気の本体といっても過言ではない。「物忘れ」が些か激しくなるのは、あくまでオマケ。

 ある条件が加わると、この病気は合併症として重度の逆行性健忘を引き起こす。

 つまり、それ以前の記憶が、綺麗さっぱり消え去る。昨日の記憶から、一番古い記憶まで。

「検査の結果が出ました」

 そしてその合併症を引き起こすためのいわば「十分条件」が。

「陽性でした」

 子供の頃に、ニュースで聞いた覚えのある響き。

 誰もが罹るという訳ではないが、今や誰でも聞き覚えがある程度には、ありふれた感染症。

「お薬を出しておきます。症状を抑えてくれるので、一日二回飲んでください」

 目の前で、初老の医者が電子カルテに打ち込んでいる病名。

 この健忘症候群の患者が、その感染症に罹患する事だった。

 

 

 1―A2

 

 スマホがテーブルの上で震え、時間を告げる。

 画面に表示された文字は、面会503。進めていた仕事のデータを保存してからパソコンを閉じ、伝票を片手に席を立つ。

 会計を終えて病院脇のカフェを出ると、冷たい風が髪を揺らした。

 道端の草花や、空を舞う鳥。微かに春の気配は感じるものの未だ空気は冷たく、幹線道路の両脇に立ち並ぶ桜並木も殺風景な枝を色の薄い空に広げている。

 総合病院特有の大きな受付で書類を渡して手続きを済ませ、病棟へ。もう何度も来ているので、迷うことなくいつもの病室へと向かう。

「いらっしゃい、汐見さん」

「ええ、お久しぶりです」

 綺麗さっぱり消え去った過去の記憶を補い、それまでの物語を与える「プロローグ」。

 それを創るプロローグライターには、二種類いる。

 正確に言えば、プロローグの形式が、二種類ある。

 一つは映像型と言われ、VR映像のように五感を、特に視覚と聴覚を伴う情報。イメージとしては、「物語」を映画のようにして与える、という説明がよく為される。

 もう一つは、文章の形をした叙述型。「物語」を、小説のようにして与える形式。こちらは患者が文字媒体へ馴染んでいることが前提となるが、前者より圧倒的に低費用で、かつ現実との不一致が生じにくいという利点がある。私が仕事としているのは、こちら。

「貴女が来てくれるのが毎週の楽しみなんですよ。ここは退屈なので」

「言ってくれれば差し入れくらいはしますよ」

 そして、求められるプロローグが現実に即したものの場合。という事は、映画のような非凡な「過去」を求められるケースもあるという事だが、少なくとも今回のようにそうではない場合。

 その時は、いずれの形式にせよライターは患者との面談を繰り返す必要がある。人格を知り、癖を知り、そして断片的な情報から過去を知るために。

「そこまで迷惑をかけるわけにはいきませんよ」

 愛想笑いを浮かべてそう言った彼女は、ふっと一瞬疲れたような顔を浮かべて呟く。

「でも別に体は問題ないんですから、入院までしなくてもいいんじゃないかですか」

 きっと、この時の嘘は我ながら自然に言えたのではないかと思う。

「私もそう思います」

 あの感染症が広がり、合併症の存在が明らかになった十数年前。合併症患者の自殺が問題となった。数と割合は決して多くなかったが、その話題性故に事は一気に社会問題と化した。

 だから、ここの病棟は冷暖房年中無休。窓は全てはめごろし。

「そうだ、ちょうどいまお見舞いでもらったお菓子があるんです。とってきますね」

 足取り軽く彼女は立ち上がり、戸棚の方へと跳ねるように歩いていく。

 点けっぱなしだったテレビからは、昼の報道番組が流れている。よく分からない肩書のコメンテーターが丁々発止の議論を交わしているのは、最早ここ数年毎日のようにどこかで聞く桜の話題。

「バターサンドですけど、紅茶とコーヒーどっちにします」

「紅茶で」

 今回で、小桜吉乃との面談は最初を入れて4回目。

 事務的な質疑応答はとっくに終わり、最近はほとんど仕事の名目でお茶を飲んでいるような状態。そもそも今回の仕事に限っては、実のところ面談をしなくてもできるのだが。

 バターサンドを齧った彼女は、美味しそうに目を瞑った後におもむろに窓の方を向く。

「桜、咲くんでしょうか」

「別に虚空から現れたんじゃなくてどこかから持ってきたんでしょうし、ならきっと咲きますって」

「私の知っている桜って、花も葉っぱも何もない枯れ木だけなんですよね」

 ああそうか、と思い至る。彼女の記憶はここ一年弱のものしかない。あの桜の木々が、散った後のものしか。

「あれは生きた桜ですよ」

「でも、見た目はほとんど同じです。理屈では分かってるんですけどね」

 湯気の立つ紅茶を傾けて。

「夏でも枝だけだったあの木が、花を咲かせるなんて想像できなくって」

 黙ったままの私に、彼女は小さく笑う。

「ああ、別に湿っぽい話をするつもりじゃないんです。楽しみなんですよ。きっと桜の花に私以上にワクワクししてる人って、どこにもいないんじゃないですか。まっさらな、何も知らない状態で、今年の桜を見れるんです。とんでもない贅沢ですよ」

 そこで言葉を切って、ティーカップをソーサーの上に戻す。

 窓の外へ向けられていた視線が、私の両目をしっかりと捉える。

「……多分、貴女なんですよね」

 なにがですか、と言おうとして、言えなかった。

「家族から、妹から聞いたんです」

 浮かんだ感情はなんだったのだろう。

「昔っから仲良くしてくれていた人がいるって。ずっと一緒に居た人がいるって」

 期待。安堵。不安。恐怖。

「すみません」

 覚悟を決めていたつもりでも、結局いざ向かい合ったら何も言えない自分が嫌になる。

「次の仕事があるので」

 タイミングよく誰かが病室の扉を開けたのと入れ替わるようにして、下を向いたままの私は逃げるように病院を後にした。

 

 

 1―B2

 

 現代医療というのは、思っていたより進んでいたらしい。

 彼女の病気を治せないという事で、過小評価をしすぎていたのかもしれない。

 一昔前にニュースを席巻した病気にかかっても、薬さえ飲めば日常生活には殆ど何の影響もない。回復は免疫機能に任せっきりだが、症状はたまに頭が痛くなる程度に抑えられている。

 携帯電話を取り出し、メッセージアプリを起動する。

 一番上には、小桜吉乃の文字。その下には小さく、下書き中とある。

 開くと、入力欄にはずっと前から居座っている未送信の文章。あの感染症にかかったという旨の文章は、幾度とない推敲を繰り返して気持ち悪いまでに整った日本語になっている。

 最後に会ってから、明日で二週間。

 昨日届いたメッセージには、未だ返信できていない。

 先延ばしにし続けるのも、そろそろ限界だろうとは分かっていた。きっとこのままでもどこかから吉乃には伝わるのだろうけれど、やはり私が自分で言うべきだというのも。

 電車の中のニュースは、半年ほど前から話題になり始めた桜のことを流している。

 各地で見納めとなる今年は、例年をはるかに上回る混雑が予想されるでしょう、と。

 マスクの下で、小さくため息をつく。去年の春には、夢にも思っていなかったことだ。

 短く目を瞑り、考えていたあれこれを頭から放り出す。

 簡単な事だ。いま画面の上で 指を、数センチ動かせばいいだけの話。

 痙攣するような予備動作を経て、親指がぎこちなく動く。

 画面を勢いよく叩きすぎて、爪が硝子とあたる硬い音が小さく鳴った。

 ぽん、と吹き出しで私のメッセージが表示される。

 無意識に止めていた息を吐き出す。と、数秒遅れて吹き出しの左に小さな文字が現れた。

 既読、の二文字。

 反射的にホームボタンを押し、アプリを閉じる。

 手の中で震えるそれをそのまま鞄に突っ込んで、存在を意識の外に追いやった。

 

 

 掴みどころのない淀んだ夢から私を引き上げたのは、古いチャイムの音だった。

 身を起こして額にべたついた汗をぬぐい、泥が溜ったように重い頭で心当たりを漁る。

 通販で何か買った覚えは、無い。知り合いが来るような予定も。

 それならば、もう一人くらいしか思い当たる節は無い。

 倒れるようにして布団に戻り、湿気の籠った布団を頭まで引き上げる。

 無駄に大きなチャイムの音は、布団の綿越しにも殴るように脳に響く。

 二回、三回となった後、静かになり。ほっと安堵してそんな自分にまた嫌気がさしたところで、全身を覆っていた布団がはぎとられた。

「え」

 流石に、目が覚めた。反射的に赤子のように四肢を身の前に寄せ、寝台の壁際に縮こまる。

 小桜吉乃はそこにいた。

 不審者で無かったという安堵と、よりによって彼女がというのと、そもそもなぜというので、頭が空回りを起こす。

「、どうして」

「はぁ、戸締りはちゃんとしようね」

 言われて記憶を漁るが、家に帰ってからの記憶は無かった。

 吉乃が照明をつけ、カーテンの閉じ切られた室内が無機質なLEDの光に照らし出される。

 ちゃぶ台の上でその光を反射しているのは、底に薄く液体の残ったグラスに、普段はうちにはない500ミリの銀色の缶が何本か。

「お酒弱いって言ってたのに」

「……それは」

 そこで慌てて思い出して、跳ねる様にして寝台から立ち上がる。

 下駄箱の上に置いてあるマスクを乱暴に掴み取り、片方を自分でつけてもう一枚を吉乃に押し付けるようにして手渡す。

「だから、えっと、出て行って」

「せっかく来て上げたのにそれはないんじゃないかな」

「話があるなら、あとで電話すればいいから」

「何回かけても出なかった唯に言われても、ね」

 吉乃が指をさした先には、電源の切られた携帯が床に放りだされていた。

「とにかく、食べ物とかも持ってきたから。落ち着いて話をしよ」

 ここで彼女を意地でも追い返していたら、何か変わっていたのだろうか。

 

 

「けど、案外元気そうでよかったよ」

 片づけた卓袱台を挟んで向かい合い、先に口を開いたのは吉乃だった。

「一人で倒れてるんじゃないかって心配したんだから」

 あけ放たれた窓ではレースカーテンが風に揺られ、寒風が私たちの髪を揺らす。

「薬さえ飲んでれば、生活には問題ないって」

「そっか。私と同じだ」

 冬の終わり、春の初め。まだまだ寒い季節。部屋の中、二人して上着を着て座っている様子は言いようも無く異様で。

 なにか適当な話題を、と思っても、結局頭の中にはこの事しか浮かんでこない。

「あのさ」

 あのメッセージは一週間以上も遅れなかったくせに、この言葉はすんなりと出て来た。

「しばらく、会うのやめよ」

 吉乃は、何も言わなかった。ただまっすぐと、目を合わせられない私の両目に、視線を合わせているだけ。肯定とも否定ともとれぬそれに、私は畳みかけるようにして続ける。

「うつしちゃったら、本当に取り返しがつかないことになるし」

「数か月もすれば、移す可能性も無くなるって話だし」

「そうすれば、何も問題ないんだから」

 肺の中の空気を言葉と共に吐き出しつくして。そんな私に吉乃は、今度は小さく頷く。

「唯はそう言うんだろうと思ってたよ」

「よかった。じゃあ」

 上げた視線の先で、しかし吉乃は意思を持った視線で私を見つめ返す。

「でも、別に感染しても必ず発症する訳じゃないし、発症しても必ず合併症を引き起こすわけじゃ無い。感染しても何もなく回復した人だっているんだよ」

「そんな「かもしれない」で言われても」

「唯にしてみれば、たった数ヶ月、なんだけどね」

 あ、と思った時には吉乃が先を続けていた。

「私に言わせれば数か月も、なんだよ」

 マスクのせいで、その表情はつかめない。

「もちろん、数か月たってって全部を忘れるわけじゃ無い。きっと、食べに行った店を2、3個忘れるだけなんだと思う。きっと」

 床に除けた空き缶が風で倒れる、軽い音がした。

「けど、もしかしたらそうじゃないかもしれない。今まではしょっちゅう会ってて。多少忘れても気にならないくらい会ってたけど、数か月もたったらどうなるかは分からなくって。そもそも、今だって本当に何かを忘れてないのかは分からなくって。もしかしたら、何かを忘れた事に気付いてないだけで、周りの人が気づかないように気を遣ってくれてるだけで、自分で思っているよりたくさんの事を忘れているのかもしれない」

「そんなこt

「それだって本当か分からないんだよ。唯の事はよく知ってるから。もしそうだったらきっと私が気づかないように気を遣ってくれるだろうって分かってるから」

「……」

 否定は出来なかった。吉乃が言っていることは、きっと正しいだろうから。

「唯の事を、何か大事なことを、忘れて。それで、忘れた事すら分からなくって。悲しむことすらなくって。それでもきっと、唯は何も言わなくて」

 吉乃が、目を伏せる。

「そんな可能性と何か月も付き合うのは、嫌だ」

「…………わかった」

 こうなるのは、彼女を追い返せなかった時点で決まっていたのだろう。

 少し気まずい空気の中、私たちは話し合って今後の事を決めた。

 期間は、私が薬の処方を兼ねた隔週の通院で、治癒証明を手に入れるまで。

 会うのは二週間に一度。必ず二人ともマスクをつけて。

 食事は避けて、一緒にどこかに出かけたり、映画を見たり。

 五回目の通院で、ほとんど治っているので来週には治癒証明が出せそうですと言われた。

 次の週末に、吉乃が回復祝いと称して私の一人暮らしの家にご飯を作りに来た。

 窓を全開にした部屋で二人食べた彼女の料理は、記憶より数段上手くなっていた。

 六回目の通院で、また同じことを言われた。

 その日の帰り。精密検査が必要になったと、吉乃から電話口に告げられた。

 

 

 1―A3

 

 古いチャイムの音が、私の意識を一枚の紙切れから引き離す。

 よぎる軽い既視感を振り払い、インターホンの方へと向かう。どうせ何かのセールスか宗教勧誘だろうと思いつつ、紙切れを持ったままの右手を持ち上げて通話ボタンを押し。

「はい」

「姉がお世話になります、小桜葉月と申します」

 紙切れが。皺だらけの、未記入の特別面会申込書が、右手から滑り落ちた。

 

 

「お久しぶりです、唯さん」

 小桜吉乃の妹は、記憶にあるよりも随分と大きくなっていて、まるで大人のようだった。

 たしか大学の四年生で、ということはこの春からは社会人。そう考えれば、不思議ではないのかもしれないが。

「こちらこそ、ご挨拶もできずすみません」

 一応は五年近く前からの知り合いのはずだけれど、出てきたのは至極他人行儀な言葉だった。

「で、どういったご用でしょうか」

 彼女はそのせいかどうかは分からないが少し表情を曇らせると、居住まいを正して答える。

「唯さんの事、姉に伝えない方がよかったでしょうか」

「……それは、お姉さんから」

「この前、唯さんが最後に姉と面会に来た時、実は私も来てたんですよ。病室の入り口で、入れ違いになってしまいましたが」

 確かに、言われてみれば誰かいたような気もする。あの時は、医者か、或いは看護師か何かだろうと思っていたが。

「盗み聞き、になってしまってすみません。けど、もし伝えない方がよかったのでしたら、謝らせてください」

 いえ、そんな、と言おうとして。けれどその一言を形にする前に、彼女が続けた。

「ですが、もしかしたら、何かすれ違いが起きてるかもしれないという事で」

 上着の内側から、彼女は小さなノートを取り出す。

「姉からの伝言を預かってってきました」

「……伝言」

「自分が呼んでも来てもらえない気がするから、と」

 答えられなかった。既に二回、予約していた面会をキャンセルしている。

「貴女がその人なら、ずっと一緒に居てくれた人なら。きっとそうなのだろうから」

 読み上げる彼女の声が、どこか遠く聞こえる。

「貴女の事を忘れてしまった私のためにありがとう。そして、ごめんなさい、と」

 頷くことは、出来なかった。出来る訳が無かった。

 小桜葉月の言葉を遮るように、形にならない言葉を吐き出す。

「でも、私は。私が、吉乃に」

「それも知っています。私も、姉も、今の姉も」

 心臓が縮みあがる。

 違う、そうじゃない。

 責めてくれ。

 糾弾してくれ。

 胸倉を掴んで怒鳴ってくれ。

 何をしてくれたんだと。

 知っていました、じゃない。

 願いも虚しく、彼女は落ち着いた口調で続ける。

「姉は日記をつけていました。備忘録のつもりだったのかは分かりませんが、結果としてそうなってしまいました」

 ああ、結局私は楽にはなれない。私の贖罪は、結局こうでなければならない。

「それを読んで。何があったのかを知って。その上で、あれは私が選んだことなんだよ、と」

 紡ぐ彼女の双眸から、釘で打ち付けられたかのように視線が離せない。

「きっと、貴女は私にとって誰よりも大切な人で、私を誰よりも知っていて」

 ああ、妹に伝言を預けるのは反則だろう。

 瓜二つとは言わないが、目元が、仕草が、声音が。微かに、吉乃の面影を残す。

「だから、貴方に書いてもらえるなら、安心だ、と」

 私が、吉乃を殺した。私が、彼女から姉を奪った。

 私の出来る贖罪は、これだけだ。

 私が、吉乃に「物語」を与える。

 乱暴で、強引で。それでも最悪ではない、吉乃が辿るべきだった物語を。

 そして、そのために。私は永遠にその物語の中に、囚われ続ける。

 

 

 1―B3

 

 二週間。それが、検査入院の期間だった。

 詳しい理屈は分からない。ただ、その二週間で合併症発症の可能性の有無が分かる、というのが吉乃から聞いた話だった。

 おそらく、人生で一番荒んだ二週間だったのではないかと思う。

 自分で食事を作る気にもなれず、食べに行く気にもなれず。お腹がすいたら非常用の缶詰をそのまま食べてしのいでいた。片づけなければ一週間であれだけごみが増えるという事を、そして案外それでも生きていけるという事を、私は初めて学んだ。

 そんな中でも、曜日感覚だけはしっかりと残っていた。あと十日、七日、三日。

 そしてきっかり二週間後。

 吉乃のアドレスから、一本のメールが届いた。

 二週間ぶりに、外に出た。

 身支度を整えて外に出ると、桜吹雪が私を出迎える。

 そうか、そんな季節か、と一人呟く。

 ここ一年、ニュースを騒がせてきたソメイヨシノ。

 日本中に植えられたそのクローン達が。

 今年の花が散ったら皆枯れてしまうというその樹々が。

 せめて最期はとばかりに、世界を鮮やかに染め上げる。

 吉乃と会う前に一か所だけ別の場所に寄ってから、待ち合わせの場所へ向かった。

 病院脇の児童公園に、吉乃は既にいた。

 ベンチに腰掛けて、その頭や肩には桃色の花弁が薄く積もっている。

「ほら、言ったでしょ。免疫には自信あるんだよ、私」

 笑う彼女が掲げる紙切れに、私も答えるように手にした紙切れを掲げる。

「私だって」

 私の無罪を証明する紙と、私の呪いが解けた事を証明する紙が、春風に桜と踊る。

「三週間ぶりだけど、忘れられてなくてよかったよ」

 叩いた軽口に、にっと吉乃が笑う。

「私の脳は、唯の事は忘れられないようにできてるんだよ」

 最後の桜が、狂ったように舞い散っていた。

 

 

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