第二話 音楽だけが癒してくれる。
――僕は毎日ピアノを弾いた。
引いている間だけ、僕は平穏でいられる。弾いていいないときの僕は心の中に巣食う『僕』に飲まれてしまうのではないか。
そんな恐怖に追われている。『僕』は玄界灘のように荒々しい。
『僕』の声は自分のテリトリーであるはずのこのリビングにいても聴こえてくるのだ。僕はその声に抗いながら生きている。
そして、その声を忘れられる瞬間。
それが、ピアノを弾いているとき。
それだけだ。
それ以外のことをしているとき僕は常に『僕』に侵略されている。右目の奥が疼き、胃の後ろあたりが強く弾む。それを抑えるために僕は今日もピアノを弾き続ける。
何千万とするグランドピアノで僕は曲を弾く。
だが、僕は稀代の天才作曲家でもなければ、だれもが耳を傾けてくれる天才奏者でもない。ただ、趣味でピアノを弾いているだけの凡庸で、くらくらするような人間。略してボンクラ。天才には見えている波も流れも僕には見えやしない。形だけ真似できているだけ。
僕に見えているのは流れていく音の美しさと、誰にも説明できない感覚的で抽象的な音の色だけ。僕は音の色が見える。『ド』なら赤に『レ』なら黄色に。人の言葉はその人によって変わる。なんて具合に。
けれどそれだけ。
それ以上ではないし、それ以下でもない。
だから僕はボンクラ。凡庸でくらくらする。この世にごまんといる大量生産されたひとつだ。コンビニの棚にだって並んでる。ブラジル人の店員がだるそうに並べる。時が来ると廃棄される。
僕が働かずにこんな高層マンションの一角住んでいられるのは早死にした親のおかげ。つまりボンクラである僕は何もしていないのだ。何もできなかったというべきか。ボンクラだからか。
僕の両親は僕が二十になる少し前に、僕に一生を過ごしていくのに不便がないほどの金を残して死んでいった。
両親の死。
それは旅行中の事故死だったと聞いている。
けれど、僕に残してくれたのは金と済む場所。ほんのそれだけで、本当に僕がほしかったものは何一つ残してはくれなかった。世界中から評価されていた父と母の才能。それを残してはくれなかった。僕が本当に欲しかったのは莫大な資産じゃない。たった一つ。誰にも負けない才能ただ一つ。何一つ手に入れられず、与えられたものの中にいることはむなしいだけだ。マトリョーシカのほうがよほど中身があるというもの。僕の中にはなにもはいっちゃあいないのだ。
思い出したようにやってくる、生前の両親の話を聞きにくるマスコミをすべて追い返す度に僕は両親の才能ってやつに嫉妬している。あまりにしつこい奴には当たりのものを手当たり次第に投げつけたくらいだ。
――僕は金なんかよりも才能のほうがほしかった。
唯一無二のそれのほうが、ATMにカードを突っ込めばいくらでも出てくる紙ペラよりもよほどほしかった。
なぜくれなかったと恨んでいる。
おかげで僕はお世辞にはひどく敏感になった。本心から言っていない言葉はすぐにわかる。口から発せられる音に色がない。本当に思っていることならば必ずある色が嘘の言葉にはない。どれだけ顔が笑っていても、音が弾んでいても色がない。安物のプラスチックファイルみたいに向こうが透けて見える。インターフォン越しだろうが取材記者のおべっかまみれの言葉は軽くて、そこに存在しているかさえ怪しい。誰も僕なんか見ちゃくれない。
同じように真剣度も色の濃さでわかる。本気で思えば思っているほど色は濃く見える。
だから、薄かったり、なかったり。
――そんな色を見るたびに僕は、僕の心は向こう側が見えなくなっていく。闇の底でのたうち回る虫になる。手も足ももがれて、耳も目もなくなって暗闇の中でうずくまる。そしていつのまにか僕は『僕』に逆らえなくなっていた。湧き上がる水みたいに『僕』はいつでもそこにいた。
『僕』の欲望は日に日に大きくなっていった。肥沃な大地で育つ大根みたいにぐんぐん育っていった。後ろを振り向けばのみこまれそうなほどに。『僕』は僕の理想の姿であろうとする。膨れ上がったエネルギーに実が伴う。存在は苛烈。腕を振るえば海だって割れそうだ。
――ああ、もうだめだ。
こんな感情を消さなくては。そうしなければ僕は飲まれてしまう。
『僕』
に。
外の光を取り込む大窓の前におかれたグランドピアノに座り曲を奏でる。その瞬間だけが僕を純粋無垢な少年に返してくれるから――。自身に絶望していなかった頃。『僕』に負けなかったころの僕でいられるから。
『僕』と不良JKの一ヵ月 ハガネガニ玉三郎 @newdayz
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