『僕』と不良JKの一ヵ月
ハガネガニ玉三郎
第一話 消えていく『僕』
両手が真っ赤に染まっていた。
どうしてだろう?
生命線が手首まで伸びる僕の右手のひらを舐めると鉄の味がした。
どうにもこれは血の味らしい。唾液が糸を引く。もう一度手のひらを舐めてみる。だがこれが血液であるということだけは変わらなかった。ケチャップではないから喉に鉄くささが絡みつく。これは何かの血。体中に張り巡らされ端々まで通う血管をいって命をつないでいるそれなのだ。
誰の血だろうか?
なんで僕の手にこんなものがあるのだろうか?
まったくわからない。
僕にはわからない。
誰かに教えてもらいたい。
だが、今ここには僕しかいない。
部屋の一角を占める窓からは月明かりが降り注いでいる。それに照らされ、ガラスに映る僕は笑っている。この町に住む誰よりも嬉しげにしていて、満足の海に浮いている。もう一度手のひらを舐めてみる。
やはり、どうしょうもなくこの赤いものは血液らしく、生命の味がした。
いや嘘だ。
本当のところこれはただ鉄臭い液体の味だ。
さっき感じた味は僕の舌が馬鹿になってしまっているからそう感じるだけなのだ。
さあ困った。
どうしたものだろう。
ゆっくりと瞼を下して頭の中をひっくり返してみても今の僕がどうなっているのかまるで見えない。
僕は生きているのか。
それとも死んでいるのか。
それすら釈然としない。
僕であって僕でないものが心の池に浮かんでいる。打ち上げられた水死体のように青い。
これは僕本来の姿ってやつで、
そいつは、今ここで! こうやって手のひらを、蜂の巣でも襲った後の熊みたいに、舐める僕なのかもしれないが……。
けれど、そんなことなんて本当はどうでもいいのだ。
今の僕は不思議と満たされている。
こんなにも胸が悪くなりそうな臭気の中で、世界中の誰よりもエンドルフィンをまき散らし笑みがこぼれるのだ。
これは例えるならば大きな舞台の上で曲を演じきったときみたいな心地。耳をすませば観客席から地鳴りのように響く拍手も聞こえるのだ。見渡す限りのスタンディングオーベーションは一様に壊れたサルのぬいぐるみのように手をたたく!
もしかしたら僕は本当に一曲を演じきった夢の中でまどろんでいるのかもしれない。深層心理の中で追い求めた血とリアルを見ているだけで、本来の僕は楽屋の片隅で銀のパイプ椅子で間抜けに寝息を立てている。
たったそれだけのことなのかもしれない。
そして、その夢の舞台が慣れ親しんだ僕の部屋というだけ。
たったそれだけの夢。
僕の底にある願望。
それが形になっている。
なんて、ほんの些細な夢なのかもしれない。
けれど、そんな妄想はすべて嘘で、これが現実であるということは僕の両手にある無数の傷が訴える。
だから両手に広がっているのは鉄臭い液体ではなくて、何者かの血液だ。
手首を舐めると手のひらと同じ味がした。床に手を置くとべたりと手のひらが濡れた。粘着質のあるそれもまた血液か――。腕を口元によせて舐めてみる。
――ああ、やっぱりどうして手のひらのこれは血液であることはどうしょうもなく間違いないらしい。
けれど今、心に浮かび上がるこの気持ちは喜びだ。一つの達成感。僕の中にできたただ一つの。
壁へ目をやるとカレンダーに目が留まる。年末に銀行で配るような安物で、ところどころ書き込みがあって僕の予定が書きこまれている。その書き込みには過ぎ去ってきた四角形がいくつもあって、見ていると僕は思い出の中に入っていく心地になった――。まるで、牛が四つの胃で反芻するみたいに。
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