第4話  魚釣りに行こう

「確か……この辺に」


 アパートに戻ると、私は制服から私服に着替えて、少し早めのお昼ご飯を食べた。アパートの敷地内の一角にあるトランクルームに行くと、扉を開ける。

 お父さんの車のスタッドレスタイヤがどーんと目の前に飛び込んできた。


「どこだっけ?」


 私はタイヤを無視して、隣にある棚の中を探す。お父さんの積読本の隙間から釣竿を入れた黒いケースとプラスチックの釣り道具入れが出てきた。


「あった! これだ!」


 私はほくそ笑むと、大事にトランクルームから釣竿の入ったケースと道具入れを出した。釣りをやろうと思ったのは何か月ぶりだろう。お父さんがゾンビになってしまってから、ひとりで一、二回はやった。でも、しだいにつまらなくなってしまってやらなくなってしまった。だが、今はそうはいってられない。


 去年の今頃はまだスーパーに魚が並んでいた。でも、今年の春ごろから、生鮮品が少なくなってきた。ほとんど並ばない日もあるといっていい。肉や魚は、毎日は食べられない。週に二、三回、食べられたらいい方だ。お菓子やカップ麺でお腹をいっぱいにする時もあったけど、何日も続けたら体を壊したのでやめた。やっぱり、人間にとって食事って大事だ。


 私は釣竿ケースと道具箱の中身を確認する。うん、糸もリールもある。ルアーも大丈夫。まだ、使えそうだ。


 私は釣竿ケースを肩に、リュックに折り畳みのバケツと小さなクーラーボックスを入れて背負い、手には釣り道具を持って出かけた。結構重いが仕方ない。徒歩二十分ほどで、万曲川(まんまがわ)の支流に出た。堤防を下り、平らになっているテトラポットの上に場所を取る。とりあえず、竿にルアーをつけて適当に投げてみた。


 リールを巻いて、離して、巻いて、離して……を数回繰り返してみたが手ごたえがない。十数分居たが、当たりが来ない。私は移動することにした。荷物を持って、上流を目指して歩きだす。


 万曲川の水面はおだやかにたゆたっている。午後の日差しが乱反射して目にまぶしい。空は晴れ渡り、いい天気だ。私は砂利と石でできている岸辺を歩き、向こう岸が岩場になっている場所まできた。良い感じに岩場の辺りは深そうだ。ここなら……と、私は準備をして、竿を投げた。


 しばらく糸を垂らしていると、遠くから誰かが私を呼ぶ声が聞こえる。振り返ると、黒のキャップを被り、長靴をはいた正ちゃんが上流から降りてくる。


「正ちゃん!」

「橋わたっていたら、きらりが見えたから、じいちゃんの軽トラから降りて来た」

 正ちゃんは手にきのこの入ったビニール袋を持っている。

「ほら、これ、きらりの分。たくさん取れたから」

「あ、ありがとう。そこ置いといて」


 正ちゃんはきのこを釣り道具箱の側に置くと、私の手元を見た。竿を見て、


「釣れそう?」

「わかんない。まだ、始めたばかりだから」

「ここ、いいスポットだから、たぶん、釣れるんじゃないか」


 そう言って、私の釣竿の先を見る。と、同時に糸が動いた。釣竿が強い力で引っ張られる。


「しょ、正ちゃん! きたきたきた!」

「ばか、お前、竿立てんな! バレるぞ!」


 しっかり持て! と正ちゃんが私の後ろから竿を握った。


「いいか、少し後ろに下がるぞ。転ぶなよ。一、二、三」


 正ちゃんのかけ声に合わせて、私は数歩後ろに下がる。体ごと後ろに下がると、魚も下がった分だけ、岸に近づいた。


「いいぞ。今度は竿を寝かせるんだ。出さないように寝かせて、ちょっとずつ、こっちにもってこい」

「うん!」


 ふたり一緒に竿を寝かせる。といっても、ほとんど正ちゃんがやってくれているから、私は手を添えているくらいだけど。それでも、正ちゃんのアドバイスがありがたい。


 岸辺近くの水面で魚が跳ね上げる水しぶきが起こる。活きがよさそうだ。それに大きい。数回、魚が行ったり来たりを繰り返し、それに合わせて私たちも後退したり前進したりし、ついに魚も観念したのか、岸の手前まで打ち上げられた。


「きらり、タモ! 魚取る網!」

「はい!」


 正ちゃんの言葉で私はタモを持って、魚に駆け寄る。水辺には直径三十センチほどの大きな川魚が口をパクパクさせながら浮いていた。大きな丸い目でなんだよとでも言うように、こっちをにらみつけている。ごめんなさい。今夜の晩御飯にしますと私は心の中で手を合わせた。

 タモで魚を取ると、私は宙にかかげた。


「やったよ、正ちゃん!」

「おう!」


 正ちゃんも親指を立てて喜んでくれる。

 私はほくほくした嬉しい気持ちになった。バケツに水を入れて魚を泳がせる。正ちゃんが覗き込んで、


「でかいニジマスだな。やったな、きらり」


 私はえへへと笑う。これがニジマスか。知らなかった。今夜は魚の塩焼きにしようって思っていたから、ニジマスならちょうどいい。

 正ちゃんはニジマスを見ながら、


「どうする? もう少し釣ってく?」

「ううん。遅くならないうちに帰る。お父さんとお母さん、心配するし」

「……そっか。じゃあ、帰るか」


 何も言わずに正ちゃんが釣竿ケースと道具箱を持ってくれた。私は正ちゃんが絞めてくれたニジマスと持ってきてくれたきのこを保冷材の入ったクーラーボックスに入れた。今夜はごちそうになりそうだ。


 午後の日差しが徐々に傾いてきて、川辺を黄味に近い金色に染めた。私はまぶしそうに手前を歩く正ちゃんを見つめる。正ちゃんは少し照れたような、ぶっきらぼうな顔で、なんだよとこっちを見た。なんでもないと私は言って、正ちゃんの隣に並ぶ。もしかしたら正ちゃんは、私が魚を買えなかったことを気にしてくれていたのかもしれない。


 正ちゃんとふたりでたわいのないおしゃべりをしながら、三十分ほど歩いて帰った。町の景色は小学校の時と変わらないまま。だけど、そこかしこに静けさが落ちている。気がつけば、窓の明かりもつかない家が増えてきた。このまま静けさが広がって、町が沈黙に飲みこまれてしまうんじゃないかな。そう思うと、私はさみしくなる。


正ちゃんはアパートまで釣竿ケースと道具を運んでくれた。ついでだからと、トランクルームに入れてくれる。アパートの玄関口まで戻ると、じゃあなと言って、正ちゃんは背中を見せた。私はその後ろ姿に、きゅっと心臓が捕まれる。無性に声をかけたくなった。


「正ちゃん!」


 正ちゃんはちょっとびっくりした顔で、こっちを見て立ち止まる。私もまさかこんな切実な声がでるなんて思いもしなかった。急に自分が恥ずかしくなった。


「ま、またね……」


 思いっきり振り上げた手をしおしおと下す。ただ、もう少しだけ一緒にいたかった。

そんな気持ちを察してか、かわりに正ちゃんが片手をあげる。いつもとは違うその仕草に、私は正直、かなり、いや、だいぶ嬉しくなった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る