第18話

シャワーヘッドから落ちた水滴の音が響く

それほどに風呂場が静かになった

2人は5分ほど黙って温かい湯に浸り、夜斗はその湯より温かい肌から意識を背けていた



「夜斗」


「なんだ?」


「私、幸せ」



その頬の赤さは風呂によるものか、はたまた別のことが関係しているのかは本人にすらわからない



「そうか。…俺もだ」


「よかった」



夜斗も弥生も、指輪をつけたまま風呂に入っている

チタン製のため錆びることはほとんどない

夜斗からすれば、錆びたとしてもまた買えばいいという話なのだ

買い直し、また新婚気分になればいい。というくらいにはロマンチックを忘れていない



「雪菜は名字変えるらしい」


「そうなのか。あいつそういうの全然報告してこねぇからな」


「先輩に話すかと言われると、私も話さないかも」


「それはまぁ、自由だろうよ。雪菜がというより、霊斗があんま雪菜の話しねぇからよくわからん」


「雪菜はよく霊斗の話をするけど…」


「俺もこれでもかというくらい霊斗に惚気けるけどな、今後」



今まで惚気けたことはない

というより、惚気けるような話がなかったのだ

そもそも夜斗は今まで弥生に対し、恋人のように振る舞ったことはない

あくまで建前は利害の一致だったため、体裁を取り繕った結果だ

しかし今後は、それどころではない…はずだ



「…私もそうしようかな。今まで惚気けられた分、濃いめに。そういう出来事を作っていく」


「そうだな。まぁ、生活自体は大きく変わることがないけど」


「気持ち入れ替えてるから実質同棲一日目。でも私が家事をやるのは変わらない」


「変わらないのかよ。なんか寄越せ」


「…洗濯で私の下着で興奮するか、食事であまりの出来栄えに私の自尊心が傷つけられて泣くかどっちがいい?」


「なぜ素直に恥ずかしいと言えないんだ」



しかしながら、5年前の同棲開始日に下着姿はしっかり見ているため、今更下着を見たところで…というところではあるし、料理に関しても夜斗が人一倍暇でよくやっていただけで、5年間ほとんどやってないとなると弥生のほうが上手くなっている可能性は高い



「いいの、私がやりたいことだから。きつくなったら言うから」


「…まぁ、お前が良いならいいけど」


「うん。それに、お風呂掃除任せてるし」


「これあんま負担じゃねぇんだよな…」



と言いつつ5年間カビが発生したことはなく、水垢も毎日丁寧に取り除かれている

一般的な毎日の風呂掃除にしてはかなりやりすぎな部類だろう



「夜斗は育児」


「なんか子ども作りましょうの押しが強いな」


「…気のせい。近しい夫婦に子ども作る宣言した人が多いからという一時的な気の迷い」


「気の迷いなら言ったってことじゃね」


「……気にしたら負け」



フイッとそっぽを向く弥生

稀に見せる子供っぽい反応が、夜斗にとっては愛おしくある



「ま、もう少し給料上がれば、な」


「?私も働いてるのに?」


「さすがに子供一人家に残すわけにはいかんだろう。子ども作るなら、どっちかが家にいなきゃならん。そして俺は子をあやすのは苦手だ」


「そっか。けどそれだと私家事育児になる」


「そうなれば家事くらいやるさ」



そう言って笑う夜斗の目は半ば死んでいる

現在ですら月の残業は60近いというのに、これ以上増やすとなると死ぬのではないか?と



「無理はしないで。専業になれば、家事育児並行する方法はある。子供は寝てる時間が多いから」


「夜中に起こされるとかザラにあるぞ。それで弥生が体調を崩したりしたら困る」


「それは…そう。私でも、さすがに24時間の活動は無理」


「なんなら比較的活動可能時間短い俺より短いしな」



夜斗が動けるのは18時間程度だ

しかし当たり前のことを当たり前にできるレベルを維持できるのは15時間

弥生はそれぞれ3時間ずつ短い



「だから私はリモートワークしかしてない。移動時間すら削らないと生活に支障が出る」


「だから家事やるって言ってんのに頑固だな…」


「結果的に夜斗が体調崩すよりはマシ」



同じような言葉で返されて不意に笑う



「なら、子どもはまだ早いな」


「うん。それに、この5年間できなかったことをたくさんしたい。夫婦だけど、恋人みたいに生きたい」


「だな。さて、そろそろ30分くらい経つし上がるか」


「ん」



立ち上がり、浴槽から出ようとした弥生

しかし足を取られて転倒。夜斗が半ば反射的に手を伸ばし、自分を下にすることで弥生を守りに入る



「めがっさ痛い!」


「ご、ごめん…。逆上せた、みたい」


「そら俺と風呂入りゃそうなるわな…気遣いが行き足らなかった。すまんな」


「夜斗は何も…。むしろ庇って倒れたし、怪我して無い…?」


「問題ない。防御姿勢は取ったからな、わりと大丈夫」



と言いつつ背中を抑える夜斗

防御姿勢と言いつつ、それは弥生を庇うためのもの

弥生が頭を打たぬよう胸に頭を抱え、足や手を打たないように自分のそれを下にする

そこまでのことを反射的に実行したのだ



(損傷程度的には、明日には治るな。つか重量物持ってて階段から落ちたときよりはダメージ低いし)



夜斗はかつて仕事中に、部品ごと階段から落ちたことがある

その時も反射的に部品を庇ったのだが、それに関しては上司に引くほど怒られていた

曰く「コケたら部品壊していいから落とせ」だそうだ

会社からしてみれば、部品を庇った結果大怪我をされるよりは部品が壊れる方がマシなのだ



「大丈夫ならいいけど…」


「それに弥生なら庇わなくてもこの胸がクッションになったかもな。雪菜には無理だけど」



顔を赤くして起き上がり胸を隠す弥生

当然そんなのは手遅れだ。夜斗は体でその感触を楽しんだ挙げ句、しっかり目に焼き付けている



(眼福眼福。明日からも頑張れそうだ)



ここでようやく体を起こし、夜斗と弥生は浴室を出た

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