第40話

母の無邪気な笑顔を見たのは初めてだった。大人になって母と一緒に暮らすことに抵抗がなかったと言ったら嘘になる。住んでいた別棟の部屋に孫である良純の息子が結婚を機に住むことになり、優斗は新たな住まいを探していた。それを母に言ったら、部屋はあるのだから、ここに来ればと言われ、そうすることにした。それで良かったのだと今は心から思えてくる。

「そう言えば、茉莉ちゃんは磯野家のお嫁さんとして、張り切っているそうじゃないかい」

クマは嬉しそうに言った。

「はい、正式な結婚はまだ先のようですが、おじいさん、おばあさんとも上手くやっています」

「陽介君は完全に振られたってことね」

「どうしてお袋がそれを知っているんだよ」

「見ていればわかるわよ。陽介君の目は茉莉ちゃんが好きだって言っていたもの」

「そうだねえ。私にもわかったくらいだから、気付いていない人はいないだろう」

「でも、陽介は吹っ切れて東京に戻ることになりましたから」

「それが陽介君の良いところなのね」

優斗は深く頷いていた。

「裕太君も東京に戻るんだろう?どうも、咲と仲良くなっているそうじゃないか」

「そうなの?恋人同士になったの?」

「そういうことではないと本人たちは言っています」

母もそうだが、クマも真顔で優斗に詰め寄ってくるのだが、はっきりしたことを二人から聞かされていないのは事実だった。

「ちゃんと確認しなさいよ」

「えっ?嫌だよ。まだ学生だし、僕が見た感じだと、友だちってところだと思うよ」

それが正直な優斗の感想だった。

「友だちねえ」

「今はそういう時代なの。男女の間に恋愛感情しかないっていう発想は古いよ」

「そうなの?」

母にとっては理解し難いことのようだった。

「で、他の人たちはどうするの?」

移り気の早い母はすぐさま話題を変えてきた。

「将平さんは奥さんとよりを戻して、奥さんの実家がある町に住むことになったし、和香子さんは農業の勉強を本格的にするために大学への入学を希望している」

「和香子さんの住まいは今のままなのかしら?」

「そうなると思うよ。留美さんも残るって言っているし、何より太一君が残りたいって言っているから、しばらくは三人であの家で暮らすことになると思う」

「太一君のお母さんはそれで納得したのかしら?」

「まあ、納得というか、太一君のお父さんが離婚を切り出して、それを回避するためにやむを得ずってところかな」

太一の母親の暴走運転が父の死亡事故の発端だったということに関して、母とは話題を避けてきた。だからというべきか、自然と太一の話はしていないし、こうしてクマが訪ねてくるまで、ツアー参加者のこれからのことも話さないままであった。そのせいなのか、ここぞとばかりに母は根掘り葉掘り聞いてくる。

「太一君のお父さん、ここに来たのよ」

「えっ、いつ?」

「昨日の昼間。謝りに来てくれたの。でもねえ、本人ではないわけだし、私も考えないようにしてきたことだから戸惑ってね。それですぐには優斗にも話せなかったの。でも、太一君は関係ないじゃない。だから、太一君のためにも、もう謝らないで欲しいってことは伝えたの」

「太一君もいずれはそのことを知ることになるだろうけれど、今は大人が隠すということも必要だからね」

そのことは、その事実を知ってしまった全員が肝に銘じていることだった。母が優斗に交通事故の詳しい状況を話してくれなかった理由がなんとなくだがわかってくる。子どもには知らなくていいこともある。知ってしまうと心に傷が残ることもあれば、その事実に囚われ、身動きが取れなくなることもあるのだ。

「留美さんのご主人も時々来ているようだね」

クマが話題を変える。

「はい、仕事が休みの時に来ているようです。留美さんよりこの村が気に入ったって、話しています」

「そうなのかい。ツアーをやって本当に良かったよ」

「はい、クマさんのお陰です。ありがとうございました」

「こちらこそだよ。優斗君が来てから、農家を手伝ってくれる若い人は増えたし、農家をやっている年寄りたちだって元気になってきた。新しいやり方を知って、多くの人たちが出入りするようになって、村には活気が蘇ってきたからね。感謝しています」

深々と頭を下げるクマに恐縮する優斗だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る