第39話

 母の笑顔は清々しかった。その笑顔に何度も救われている。またしてもそうなってしまうことに悔しさは残るが、やっぱり母には適わないと、ため息を吐きながらも優斗も笑顔になるのだった。


 残暑は相変わらず終わる気配を見せないのだが、蝉たちの抜け殻を見つけることが多くなり、過ごしやすい時間帯も増えてきた。昨年の春にこの村に越してきた優斗は、二度目の秋を心待ちにしていた。秋はあっという間に過ぎ去る。だからこそ、大事にかみしめていたい心境になる。冬の厳しさを知った後では、余計にそう感じる。その季節の移り変わりさえ、待っていられないかのように母の動きは素早く、気が付けば引越しを終え、ペンションの開設準備を始めている。優斗も一緒に暮らすことになり新たな生活がスタートしようとしていた。

「ペンションらしくなってきたね」

 訪ねてきたクマが部屋の中を見回しながら言う。

「まだまだ荷物の整理が追い付かなくて」

 優斗はクマと母にコーヒーを淹れて出した。

「美味しいね。そう言えば優斗君のお父さんの淹れてくれたコーヒーの味を思い出すよ」

「味はあまり覚えていないのですが、なぜかコーヒーの匂いは覚えていました」

 優斗はなぜか、父親との記憶が鮮明ではなかった。無意識だったが、思い出すことを避けてきたところはある。それが、この村に来てからは部分的にふと蘇ってくる記憶があった。特にこのペンションいるとそれが多くなり、母がこちらに越してきてからは、ますます思い出す頻度が増えていた。

「そういうものかもしれないね。私もふと、亡くなった娘の匂いを思い出すことがあるよ」

 優斗は『そうか、この人の娘さんも僕の父親と一緒に交通事故で亡くなっていたんだ』と気付くのだった。そんな素振りを微塵も見せない生き様に、あらためて脱帽する思いだった。

「どうしたんだい?そんな顔して」

 クマに顔を覗き込まれ、ますます頬がこわばるのがわかる。

「えっと、いやあ、そのお」

「何よ、優斗、どうしたのよ」

「ええと……クマさんも娘さんを亡くしていたのだなって……」

「あの時、私はクマさんに救われたの。クマさんだって本当は苦しかっただろうに、私を支えてくれた」

「私は咲のことで必死だったからね。咲がいなかったら、私だって悲しみに明け暮れていたかもしれないよ」

「クマさんはやっぱり強い人です」

「そんなことはないよ。クマという名前で仮面をかぶっているからね。本名は澄江っていうんだよ」

「ええええ、普通、逆じゃないですか?そんな素敵な名前があるのに……」

 優斗は心底驚いていた。

「子どもの頃からクマみたいになりたくてね」

「なりたくて?」

「そう、強くなりたくて、友だちにそう呼ばせていたんだよ」

「どうしてですか?」

 優斗は恐る恐る聞いた。立ち入ってはいけないことかもしれないが、興味の方が勝った。

「私は六歳であの家に貰われてきてね。実の母親がつけてくれた名前を変えたいって子ども心に思ったんだろうね。よくは覚えていないのだけれど。気付いたらクマって名乗っていた」

「お辛くはなかったのですか?」

 母が遠慮がちに聞く。

「そうだねえ。辛かったこともあったかもしれないけれど、二渡家のおじいさんもおばあさんも養父母もとても可愛がってくれたからねえ。人一倍我儘に育てられたかな。何でも与えてもらって、好きな食べ物ばかり食べていた時期もあったかな。今となってはそれが私の人生だからね。生きていれば、辛いことを避けることができないこともある。思い道理にならないのが人生だからね。でも、喜怒哀楽がない毎日では退屈だろう?生きるっていうことは全てを受け入れて、今いる場所で楽しむ、それだけだからね」

 クマの顔や手にある皺には、悲しみや苦しみ、そして喜びが沢山刻まれている。穏やかで慈悲深い笑顔の理由が、そこにはあるのだと優斗は思った。

「楽しむのって難しいですよね」

 母は生きることを楽しんでこなかったのかもしれない。そう優斗は感じた。

「レストランの経営を軌道にのせることに夢中で、楽しむことを忘れていたような気がします。子育てだって、優斗の成長過程をちゃんと覚えていなくて、それがとっても心残りで……」

「私だって、楽しめるようになったのは最近のことだからね。それでいいんじゃないかい。だからこそ、長生きは得だって、長生きできているのは幸せなことだって、思えるからね。これからここで楽しく生きればいいのさ」

「そうですね。思う存分楽しもうっと。だってやっと資金繰りからも、スタッフへの気遣いからも解放されるわけですからね」

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